黎明の月 | ナノ



「千影先輩っ」

「うあ、孫兵、どうしたの?ジュンコ逃げちゃった?」

「いいえ、ジュンコは今部屋でお昼寝してますっ」


暇だからユキちゃん達の部屋でも行こう。そう思いながら廊下を歩いていた食堂からの帰り道、不意に名を呼ばれ、私は振り返った。すると其処には何故だか期待に満ちたような輝いた目をした孫兵が私に向かって駆けてきていて、私は思わず立ち止まり飛び込むように手を握ってきた孫兵に目を丸くする。


「千影先輩、僕お願いがあるんですっ」

「お願い?」

「はいっ。…あの、聞いてもらえますか?」


やけに顔が近いなあ、なんて手を握られながら私はぼんやりと頭の隅で考えつつ、とりあえず聞くだけなら、と頷く。するとたちまち孫兵の顔が今まで以上に輝き、嬉しそうに笑って私の手に指を絡めた。
ま、孫兵は暑さに弱いのだろうか。だから暑さにやられこんなに甘えてくるのだろうか。


「あのですね、次の期末試験の座学の試験で、僕が一番をとれたら千影先輩の夏休みを一日くださいっ」

「…へ、あ、うん、まあそんな事なら別に構わないけど」

「本当ですか!?」


じゃあ僕今から勉強してきますね、と言うだけ言って、孫兵はにこやかに笑いながら私に手を振ってその場を後にした。残された私は、ぽかんと間抜けに口をあけその背中を見送る。
前々からよく懐かれているなあと自負していたが、まさか座学の試験で一番をとったご褒美に私の夏休みが一日欲しいだなんて。孫兵は一体私の何が好きであんな事を…。おや?待てよ?


「き、期末試験…?座学…?」


ユキちゃん達の部屋へ行くという目的はもはや消えていて、私はもう夏だというのに恐ろしい程の冷えを感じながらその場に立ち尽くすのだった。











「あれは一体何だ…?喜八郎、分かるか?あ、いや、やはり喜八郎は答えるな。三木ヱ門、分かるか?」

「あー…出来れば分かりたくないけど、まあ…、」

「あれはねー、読み書きも教科書の内容もさっぱりで隅っこで泣きながらざるうどんをすする暗い千影先輩だよー」

「あああ、言っちゃ駄目だよお」


四年生の何と酷いことか。私はそう思いながら鼻をすすり、そして次にうどんをすすった。ちなみに右手には箸、左手にはくノ一の友が握られている。
くそう、同じ編入生のタカ丸さんでさえあんなに余裕だというのに私ときたら何なんだ。教科書の頁を捲れば捲るほど内容は難しくなり、同時に言葉や使われている字も難しくなる。そのせいで私の勉強は一向にはかどらない。せっかく午後の授業は試験範囲の発表と自習だけだったというのに、自習中もやはりはかどらなかった。


「うう…もうやだっ…」

「…千影先輩、何隅っこでしょぼくれてるんっすか?」

「うあ、さ、作兵衛…!」


平太みたいですよ、と平太君に失礼な事を呟きながら、作兵衛は私の座っていた席の後ろの机に夕飯の乗った盆を置いた。何が乗っているのかは分からないが、ふわりと湯気と共に良い匂いがする。
今日は一人なのだろうか、といつも一緒にいる三之助と左門を探してみるが、そんな私に気付いた作兵衛が今日はあいつらいませんよ、と教えてくれたので、私はそっかと呟きながら頷いた。


「また迷子?」

「いえ、たまにはゆっくりしたいので藤内と数馬に預けてきました」

「そ、そっか…」


作兵衛は大変だね、とお互いに背を向けたまま私が言えば、千影先輩こそ大変そうですね、と言われてしまい、私は思わずぐさりと何かが刺さったように痛んだ胸を押さえた。そうだ、一瞬忘れていたけれど私大変だったんだ。


「さ、作兵衛…、私はどうしたらいいんだろう…」

「いや、そもそも何でそんなに暗くなってるんですか」

「う、あ、あのね…。ほら、もうすぐ期末試験でしょ?」


茶碗を手にちらりと振り返った作兵衛に、私も同じように振り返りながらくノ一の友を作兵衛に見せる。すると作兵衛は何となく事を察したのか、ああ、と小さく頷いた。


「そういえば、しんべヱと喜三太が言ってましたね。千影先輩は読み書きが駄目だって」

「……はい、そうなんです」


もう教科書読んでもさっぱりなんです。思わず肩を落とせば、作兵衛は苦笑しながら空いた手で私の肩を叩いてくれた。そして、あ、と声を上げて私の名を呼んでくる。


「千影先輩、千影先輩、」

「なに…?」

「ほら、尾浜先輩に教えてもらえばいいじゃないですか」

「へ?」


ちょうど来ましたよ、と作兵衛が指差したのと、俺が何?と首を傾げた勘ちゃんが私の前に座ったのは同時だった。
どうかしたのか、と私の隣に座ってきたはっちゃんと、その向かいに座った兵助が私を見てきて、私は思わず作兵衛を振り返る。しかし、作兵衛はもう自分の役目は終わったとばかりに夕飯に集中していて、いくら視線を送っても振り向いてはくれなかった。


「千影、どうかしたの?」

「へ、はは、うん、まあ…」


私と同じざるうどんをすする勘ちゃんが、不思議そうに首を傾げて私を見た。そして私は、おずおずと手に持っていたくノ一の友を机の上に乗せる。


「ちょっと、勉強、教えてほしい、なー…」


お、じゃあ俺は図書室にいるから部屋使えよ。目をまん丸くした勘ちゃんの代わりに兵助が答え、私は笑って頷いてみせた。何故だか勘ちゃんは呆然とくノ一の友を見ていたが、私はそれに気付かない。
勘ちゃんがほんの少し、切なげに眉を寄せた事も。










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