黎明の月 | ナノ



今日の私は、えらく機嫌が良かった。
昨日は自分が思っていたよりも稼げたし、きり丸にも御駄賃として当初の予定より多くあげることが出来、二人してまさにご機嫌だった。そしていざきり丸と着物を買いに町へ入ろうとすればたまたま町へ来ていた勘ちゃん達に会って、鷹之進を誉められ、さらにははっちゃんと兵助にお茶まで奢って貰えた上に着物も皆で見繕ってくれた。結局一番安かったものを選んだものの、勘ちゃんが着物に合うからと簪を買ってくれ、三郎と雷蔵は梳き櫛を買ってくれたのだ。嬉しいとしか表現のしようが無かった。そして何より、町へ行けたこと、何も怖くなかったことがさらに私の気分を良くし、それは今朝目覚めてからも未だ残っていた。思わず鼻歌を歌いながら廊下を歩いてしまうほどに。
それほどまでに、機嫌が良かったはずなのに。鼻歌だって、歌っていたはずなのに。


「待てってー!」

「うあああ!来ないでくださーい!」


何故私は七松先輩に追い掛けられているのだろうか。悲鳴を上げているのだろうか。心底謎で仕方ない。











まず、事の発端を思い返してみよう。私は先の説明の通り、鼻歌を歌いながら廊下を歩いていた。食堂に向かうために、廊下を歩いていたのだ。そして次の角を曲がれば食堂が見えるというその瞬間、何かを左手に持った七松先輩が笑顔で私の前に立ちはだかったのだ。私の中では七松先輩を見れば逃げるという条件反射のような何かが出来上がっていたらしく、私は焦ったように呼び止めてくる七松先輩に応えもせず逃げた。本気で逃げた。よって、七松先輩が左手に何を持っていたのかは分からない。そしてそれがまた、私の中の恐怖を膨れ上がらせた。


「うわ、え、千影先輩っ、そんなに急いで何処に…」

「うわわっ、ご、ごめん三木ヱ門!今は説明出来ない!」


とん、と肩がぶつかった三木ヱ門に謝りながら、私は振り返る事なく一目散に駆ける。振り返らずとも分かるのだ、七松先輩が追い掛けてきているということが。


「わははは!待て待てー!」

「ひいいっ」


そして、初めこそ真面目に私を追い掛けていたはずの七松先輩は、この追いかけっこが楽しくなってきたのだろう。今やもの凄い笑顔で私を追いかけてきていた。
駄目だ、七松先輩が私を追ってくる理由は全く分からないが、早く撒かなければ体力が保たない。悲鳴を上げ始めた両足に眉を寄せながら、私は廊下を走っていく。時折忍たまの生徒と何度かすれ違ったが、皆後から追いかけてくる七松先輩を見ると何も言わずただ拳だけを握ってくれた。


「はっ、何処か、隠れ場所っ…」

「お、やあっと遅くなったなあ」

「うわあ!?」


耳元で囁かれた言葉に、私は走りながら弾かれるように振り返った。すると其処にはにこにこと笑う七松先輩がいて、私は思わずその場にへたり込んでしまう。しかし、それでも七松先輩から逃げることは諦めず、へたり込んだまま必死に後退りする。


「久しぶりの鬼事、楽しかったな!」

「そそそそれは良かったですねっ…!私は楽しくありませんけどね…!」

「まあまあ、そう言うな。寂しいじゃないか」


左手には一体何を持っているのか。それを確かめようとちらりと視線を七松先輩の左手に向けるが、背中に隠されているため分からない。まさか武器ではないだろうか、なんて嫌な事を考えてしまって、私は慌てて立ち上がった。すると七松先輩の顔が、まるで遊び相手を見つけた子供のようにぱっと明るくなる。


「おお、まだ走れるのか!千影はやはり体育委員会に入るべきだな!」

「い、いや、本当に遠慮させてください、私は生物委員会で充分満足してますから…!」

「長次にはもう諦めろって怒られたけど、私に付いて来れる奴も欲しいしなあ…」


この人、私の話聞いてない。
たらりと背中を流れた冷や汗を感じながら、私はゆっくりと後退りする。七松先輩は中在家先輩がどうのこうのと呟いているから、きっと逃げるなら今だろう。
たっ。私は慌てて七松先輩に背を向けて走り出す。瞬間、それに気付いた七松先輩がまた笑顔で追いかけてきた。


「こ、来ないでくださいよー!」

「ははは!まあそう言うな!私は千影に用があるんだ!」


だから待てって。また耳元で囁かれ、私は血の気が引くのを感じた。そして、後ろから私の視界を覆うかのように伸びてきた手に、私は目を見開く。この捕まえ方は、恐怖以外感じないのではないだろうか。


「千影!」


あ、もう駄目だ。そう思い諦めて目を閉じようとしたその瞬間、聞き覚えのある声が響いて、そして私は誰かに思い切り抱き寄せられた。驚いて目を開けば目の前は青紫一色で、それでもそれが誰なのか直ぐに分かって、私は思わず胸を撫で下ろす。


「む、またお前か!」

「それはこっちの台詞ですよ」


何でまた千影を追いかけてるんですか。耳元で響く彼、勘ちゃんの声は、七松先輩と違い恐怖を感じない。酷く、安心する。


「うわ、急に走り出したかと思えば七松先輩…!」

「はっちゃん、しぃっ、」

「…勘右衛門、よく気付いたな」


はっちゃんのその口振りからして、急に走り出した勘ちゃんを追いかけてきたのだろうはっちゃんと雷蔵、兵助に三郎が勘ちゃんの肩越しに見えて、私は思わず苦笑する。四人の顔は、明らかに七松先輩を見て引きつっていた。


「んー…、弱った、鬼事、もう少ししたかったんだがなあ…」

「はは、勘弁してやってくださいよ。千影はもう限界みたいですし」


三郎が勘ちゃんの隣に立ち笑いながらそう言えば、七松先輩は寂しそうに唇を尖らせる。これが一年生の生徒相手だったならば、私はこの悲鳴を上げる両足に鞭打って鬼事をしたというのに。七松先輩相手にそうする気にはなれなかった。
千影は下がってて、と勘ちゃんに囁かれ、私は勘ちゃんに背を押されながら慌てて雷蔵達に駆け寄って、勘ちゃんと三郎の背中越しに七松先輩と向かい合う。拗ねたような顔が私に向けられていて、私は思わず雷蔵の忍装束の袖を握った。


「…仕方ない、じゃあ鬼事はまた今度にしよう」

「えええ、や、やるんですかっ…?」

「ああ!で、今日は…」


ほら、と言って、七松先輩は左手で背中に隠していた何かを私に向けて放り投げた。受け止めるべきか悩んだものの、直ぐに私の胸に飛び込んできたそれに私は受け止めざるを得ない。


「それ、やる!私には小さくて着られないからな!」

「へ、え、な、」

「じゃあな!」


ちゃんと着ろよ!と言うだけ言って、七松先輩は笑顔で手を振っていけいけどんどーん!と叫びながら走り去ってしまった。私はわけが分からずに、ただただ腕の中のそれに目を見開く。若緑色の着物と淡黄色の着物からは、微かに七松先輩の匂いがした。


「…な、なん、で」

「…千影、それはあれだ、七松先輩が女装用で使ってたやつだきっと」

「は、はい?」


思わず二着のそれを凝視していれば、はっちゃんがとんでもない事を言い出した。くノたまの子達に何度か立花先輩は女装が上手いと聞いていたが、そうか、七松先輩も女装の授業をするのか。


「千影ちゃん、それ着るの?」

「…な、何かこれを着る度に七松先輩を思い出しそうだけど、一応貰ったからには…」


着なきゃいけないよね、と呟きながら、私は着物を見やる。七松先輩がこれを着て私は女だと言っていたのかと思うと笑えるが、初めて七松先輩が良い人だと思えた。
今度、お礼言わなきゃな。なんて考えながら小さく笑った私を見て勘ちゃんが辛そうに眉をひそめていたのを、誰も気付かなかった。ただ一人、三郎だけを除いては。










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