黎明の月 | ナノ




ユキちゃんに借りた着物に身を包み、私は深く息を吐く。どくりどくりと脈打つ心臓は、いつまで経っても落ち着く気配を見せない。
じわりと吹き出した嫌な汗を手で拭って、私は部屋を出た。夏が近い、いや、その前に雨期がくる。しかし段々と強まってきた日差しに、私は目を細めてまた息を吐く。生温い空気に私の吐いたそれが混ざり、溶けて、消えた。


「……行こう、」


初めて書いた外出届の文字は、やはり汚くて。それでも必死になって書いたそれを、私は強く握りしめた。止まることを知らない恐怖を、握り潰すかのように。











「ったく、きり丸のやつ本当に心配かけてさー」

「でもまあ、無事で良かったよ」

「そうだなあ。もし怪我でもしてたら今頃呑気に笑ってられないしな」


虎若と金吾、団蔵の後ろを伊助と並んで歩きながら、僕は辺りを見回す。土井先生はもうあと二、三日もすれば雨期がくると言っていたが、今日は全くその気配もなく空は青く澄んでいるし、草木は夏のように青々と生い茂っていた。
どうかしたの、庄左ヱ門、と伊助に声をかけられ、僕は空を見上げながら首を横に振った。団蔵達三人も、不思議そうに立ち止まり僕を振り返る。


「いや、今年は雨期が無さそうだなって思って…」

「え?今年雨降らないの?」

「違うって団蔵、庄左ヱ門はそう思っちゃうくらい晴れてるって言ってるんだよ」

「うん、伊助正解。よく分かったね」


ちらり、何の気なしに僕は視界の端にうつった門を見る。そこにはいつものように出門票と入門票を持った小松田さんと、山吹色の着物を着た誰かがいて、誰なのだろうかと目を凝らした。
肩までの癖のある髪に、猫のような目。確かに見覚えのある顔なのに、僕は頭に浮かんだ答えに自信が持てない。何故ならその横顔が、酷く強張っていたように見えたからだ。いつもの笑顔は、どこにも無かった。


「庄左ヱ門、早く昼飯行こー」

「ごめん団蔵、みんな、先行ってて」

「え、?ちょっと、庄左ヱ門?」


伊助の呼び掛けにまたごめんと繰り返して、僕は今門を出た千影先輩を追い掛ける。何故か、追い掛けなくてはならない気がしたのだ。しかしその背中は、直ぐに閉じられた門の向こうに消えてしまう。じんわりと、汗だけが滲んだ。
あれ、庄左ヱ門君。小松田さんが僕に気付き、どうしたのと笑いながら振り返る。小松田さんのその手にはいつもの出門票と入門票、そして、見慣れたあの決して上手くない文字で書かれた外出届があった。


「小松田さん、今出て行ったのって…」

「ああ、千影ちゃんだよー。千影ちゃんに何か用事でもあった?」

「いえ…。あの、何処へ行くか、言ってました?」


僕の突然の問いに、小松田さんは目を丸くする。しまった、こんな事急に聞いたら怪しまれて教えてくれないかもしれない。なんて不安に思ったが、それはどうやら杞憂だったらしく、小松田さんはへらりと笑って、えっとね、と口を開いた。


「確か、町に行くって言ってたよ?」

「町に…?」

「うん。でも全然嬉しそうじゃなかったなあ…」


もしかして嫌なお使いかな、と呟いた小松田さんに対し、僕は目を見開く。
待て、見覚えのあるあの顔、あの表情。何処で見た?僕はあの強張った顔を、何処で見たんだ?
瞬間、僕は背中に冷や汗が流れていくのが分かった。そうだ、僕はあの千影先輩を、あの日。


「っ、千影先輩!」

「あ!だ、駄目だよ庄左ヱ門君!外出届も無しに外に出ちゃ!」

「は、離して、離してくださいっ…!」


門を開けて慌てて千影先輩を追い掛けようとするも、まだ体の小さい僕はいとも簡単に小松田さんに捕まってしまう。腕を掴んでくるその手を振り払おうとするも、小松田さんは離してくれない。それどころか、駄目だよと言いながら僕を門から遠ざけていく。


「は、離してください!早く行かなきゃ、千影先輩が…!」

「外に出るなら外出届を出して。それが無理ならせめてこの出門票に…」

「…庄左ヱ門、何やってるんだ?」


聞き慣れた声に、僕は弾かれるように振り返る。するとそこには不思議そうに目を丸くする鉢屋先輩と尾浜先輩がいて、僕は慌てて門を指差した。迷ってる隙なんか、無かった。


「千影先輩がっ…!町に…!」

「、小松田さん、それは本当ですか?」

「え、うん。ほら、外出届もちゃんと貰ったよ」


瞬間、尾浜先輩が勢いよく走り出した。それに続くように鉢屋先輩が尾浜先輩の後を追うように走り出せば、小松田さんは慌てたように僕から手を離し鉢屋先輩を追い掛ける。
外出届はー!?と叫びながら後を追う小松田さんには見向きもせず、一足先に門を飛び出していった尾浜先輩を追って塀の上に飛び乗った鉢屋先輩が僕を振り返る。その顔は酷く焦っていた。


「庄左ヱ門!八左ヱ門達にも伝えておいてくれ!」

「は、はい!」

「だ、だから外出届は!?せめて出門票に…!」


それだけ言って塀の向こうに消えた鉢屋先輩を、小松田さんが泣きそうになりながら追い掛けていったのを見届けて、僕は走った。


「こんな所にいたの、千太郎…」


頭の中では、あの日千影先輩が譫言のように呟いた言葉がぐるぐると回っていた。








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