黎明の月 | ナノ
「か、勘ちゃん!」
「あれ?雷蔵、もう帰ってきたの?」
やけに早かったね、と笑ってから、雷蔵が酷く焦ったような顔をしていたことに気付いた。こめかみには汗が伝っていて、息は乱れている。
「何かあったのか?」
「千影、ちゃんがっ、」
倒れた。その言葉に、俺は頭を殴られたかのように衝撃を受ける。あれほどあの子を一人にさせるなと、様子がおかしければ無理矢理にでも町から連れ出せと言ったのに。
ごめん、と繰り返す雷蔵の肩を叩いて、俺は小さく頷く。雷蔵はこの事態に頭が混乱しているのか、戸惑ったように俺を見つめるだけだった。
「雷蔵は悪くない。悪くないよ」
「でも、千影ちゃんが、」
「死んだわけじゃないんだから、兎に角落ち着いて」
「う、うんっ…」
雷蔵の背中を軽く叩いて、俺は苦笑する。もう、遠くの空は赤らんでいた。
「あ、起きた!新野先生、起きました!」
「よ、良かった…」
ぱちり、目を開けた瞬間、両隣から私の顔を覗き込んでいた髪の傷んだ男と三郎がいて、私は思わず目を丸くする。一体何事だと慌てて状態を起こそうとすれば、駄目だ駄目だと見知らぬ男が私の肩を押さえてきた。
「まだ起きちゃ駄目だよ、暫く寝ててくれなくちゃ」
「…平気です」
「駄目。君は気を失って倒れたんだよ?また倒れたらどうするの」
その言葉に、私は漸く自分の身に起こった事を思い出す。そうだ、私、町で。
布団を握りしめていた右手を、思わず凝視する。手繰り寄せられなかった、あの手を、千太郎の手を。当たり前の事に胸を抉られながら、私は未だ肩を押さえて寝かせようとしてくる男の後ろから顔を出した男、新野先生を見た。新野先生はゆっくりと私の額に手を伸ばし、ひたりと生ぬるい手で触れてきた。
「うん、熱は無いみたいだね。気分は?吐き気とかは無いかい?」
「…はい。ありません」
「…そうか、うん」
じゃあ、部屋に戻っても構わないよ。小さく笑って頷いた新野先生に、私の肩に手を乗せて動かなかった男と三郎達が目を見開く。しかし、新野先生は笑うだけだ。
「に、新野先生!何言ってるんですか!?まだ駄目ですよ!」
「善法寺君、医務室で騒がない」
「で、ですが…!」
言い合う二人を横目に、私は今のうちにと慌てて布団から出た。瞬間、今まで新野先生と言い合っていたはずの男が私の手を掴み、私は目を見開く。
どくり、心臓が鳴る。私の手を掴むその手に、全身が震え上がった。
「っ、離せ!」
「わっ、」
ぱしり、男の手を振り払って、私は後退りする。払われた自分の手と私を見比べてくる男を唇を噛み締めながら睨めば、男は戸惑ったような顔を見せた。その目は、何故?と問うてくる。私は勿論、答えられない。
「…っ、失礼、しますっ」
「あ、おい、」
私を呼び止めようと立ち上がった三郎ともう一人の男に、じくりと胸が痛んだ。それでも私はそれを無視して、医務室を飛び出す。
暗くなり始めた空を見上げながら、私は走る。どうすれば良い。どうすれば、私は。あの二人は、決して悪い人達なんかじゃ無かった。例え忍に向いていないと言われても、悪い人なんかじゃないんだと、今更になって分かった。だって、目の前が見えなくなった私の名を必死に呼んでくれたのは、確かにあの人だったのだから。
「っ、どうしたら、良いの…?」
裏庭まで来て、私は立ち止まる。そして、へたり込むようにその場に座り込んだ。
関わるなと突き放して、嫌って、それでも追いかけてくれて、歩み寄ろうとしてくれた。なのに私はまた突き放して、そして、また、そんな私を。けれど、手の震えは止まらない。繋いでくれる手も、見つけられない。未だ千太郎に縋ろうとする私は、彼らに謝ることすら怖くて、何も出来ない。
「…千太郎、」
すれ違う親子を見る度、貴方を思い出してしまう。貴方を探してしまう。今でもこんなにも貴方を愛しているのに、それが時々嫌になる。
きつく手を握りしめて、無理矢理に震えを止めた。一人でも生きなきゃいけないんだと分かっているのに、頭では確かに理解しているのに。この手は今でも千太郎を求めてしまう。
「何、してるの?」
涙が溢れそうになったその瞬間、聞き慣れない低い声が私に降りかかる。思わず息をのめば、声の持ち主はゆっくりとその場に座り込んだらしく、気配を直ぐ目の前に感じた。
「泣いてるの?」
「…泣いて、ないっ…」
「何か悲しい事でもあった?」
「だから、泣いてなんかっ、」
無い。そう言いたいのに、込み上げてくる嗚咽のせいで何も言えなくなってしまった。それが気付かれないよう、必死に唇を噛み締めながら私は目を閉じる。ぽたりと一滴だけ地面に涙が落ちて、私は余計に悲しくなってしまった。
「…俺で良かったら、聞くよ」
「い、い」
「話したら、楽になるかも」
「…いいって、ばっ…」
でも、我慢は駄目だ。そう言って、男は私の頭をゆるく撫でてきた。驚いて何も言えない私に何を勘違いしたのか、男は笑いながら頭を撫で続ける。その手を振り払う事は、簡単に出来た。出来たはずなのに、私はただただ俯いていることしか出来なかった。
「…三郎って子に、酷いこと言っちゃったの…」
「…うん」
「その子も、周りのみんなも私に歩み寄ろうとしてくれてたのに、私、突き放しちゃった…」
震える口が、私の意志とは反対にぽつぽつと言葉を紡いでいく。こんな事言ったって仕方ないのに、とは思っても、止まらなかった。まるで私の中に溜まりに溜まった言葉が飛び出していくかのように。
「…それで、君は、どうしたい?」
「……………」
「君は、どうしたいの?」
その言葉に、私は目を閉じる。私が動けなくなった時、千太郎は大丈夫だと笑って手をひいてくれた。私が泣いた時、千太郎は黙って私の涙を拭ってくれた。私が寂しがった時、千太郎は黙ってそばにいてくれた。けれど、もういない。人混みの中、どれだけ彼を探そうとも、千太郎はいないのだ。手を繋ぐ親子を見て立ち尽くす私の手をひく千太郎は、もう。
「…謝りたいっ…」
「……うん、」
「私、ちゃんと、謝りたいよっ…!」
ならば、強くならなくちゃいけない。一人で歩いていけるように、強く。今はまだ無理でも、どれだけ長い時間が掛かっても、ちゃんと。
身体は心をおいていき、幼い心は立ち尽くすだけだった。ただただ、貴方のいない日々を漠然と生きて、貴方を手探りで思い出すだけだった。でも、もう終わらせるんだ。
「なら、行こう」
「え、」
ぐ、と手をひかれ、私は思わず顔を上げる。そして、目の前にいた男の顔を、私は初めてこの目にうつす。酷く優しげな印象の目に、私は息を呑んだ。
そして、千太郎を見つけられなかったこの手を掴む、大きな手に。
「大丈夫、俺がいる。きっと上手くいくよ」
「…うん、」
千太郎よりも大きくなった私の手を、彼はすっぽりと簡単に包み込んでしまう。その手はやけに温かくて、優しくて、私は胸を締め付けられたかのように胸が痛んだ。
まだ強くなりきれない私の手を、握ってくれる人がいる。千太郎と同じように、けれど違う、この人が。
「あ、俺、尾浜勘右衛門っていうんだ。よろしくね」
私の手を握りながら、彼が思い出したように笑った。勘ちゃんって呼んでね、と笑う彼に、私は何故だか涙が溢れて止まらなかった。
「え、ええっ!?な、何で泣くの?俺何かした?」
「っ、ちが、」
焦ったように離された手を、今度は私から繋ぐ。驚いたように目を丸くした彼、勘ちゃんは、それでも黙って私の手を握り返してくれた。
「…これから、よろしくね」
「う、んっ…」
きっとまた、私は町で親子を見る度に立ち尽くし、千太郎を探してしまう。けれど、この手があれば、私はいつか。
そんな事を考えながら、私はまだ身体に追いつかない幼い心を剥き出しに泣き続けた。声が枯れるまで、心が、追いつくまで。