short | ナノ


散切り前髪の嵐のような先輩を知ってるか。
誰が俺にそう尋ねたのか思い出せないが、とても満たされたとは言えない腹をなでながら食堂を出ようとした際に言われたという事だけは覚えている。一歩前を歩いていたミカサとアルミンが不思議そうに振り返る中、俺は振り返りもせずに知らねー、とだけ答え、そうか、と返ってきた声に二人が歩き出したので、俺もそれにつられるように食堂を後にしたのだった。
今思えばあの時の声の持ち主は、コニーだったのかもしれない。彼奴はいつも何処からか話の種を拾ってきて、それを育てようとはせず無造作にばらまいて、いつしかそれが勝手に芽を出すのだ。現にその種も俺に向かってばらまかれ、それはむくむくと芽を出そうとしている。


「あんたがあのエレン・イェーガー?」


そう、今まさに、目の前で。

散切り前髪の嵐のような先輩を初めて見たのは、あ、と隣を歩いていたアルミンが廊下の窓の外を指さした時だった。一日の訓練を終え夕飯の支度や馬小屋の掃除に取りかかろうと廊下をかけていく当番であろう同期の背中を避けて、アルミンはぱたぱたと窓に駆け寄る。この兵舎に来て漸く一年が経ち二年目に入って一週間になったその日は、随分と早く午後の訓練が終わり、外の広場では何人かの同期が対人格闘技の練習をしていた。
しかし、アルミンはその隣、一期上の103期の使う訓練場を指さした。見て、とアルミンが言うので何だろうかとぼんやり考えながら曇ったガラス窓の向こうに目を細めると、肩まであるブロンドの髪をもった随分と背の高い男子と、その隣を歩くポニーテールの女子がいた。体力作りでもしているのだろうか。歩いていた二人は時折ダッシュしたり、歩いたり、またダッシュしたりを繰り返し、だだっ広い訓練場をまわる。一番向こうの端まで行った所で二人は此方に向き直り、何かを一言二言話すなり此方側まで一気に駆け抜けてきた。女子のまるで鋏で適当に切り落としたかのような前髪が、びゅう、と風に吹かれ舞い上がる。


「あれ、昨日言ってた人だよ」

「はあ?昨日?何か言ってたっけ」

「もう、エレンは……。ほら、散切り前髪の、ね?」

「散切り前髪……」


そう言えばそんなこと、食堂を出るときに誰かが言っていた気がする。
まかれただけで芽を出していなかった種の人間、散切り前髪の女子をぼんやりと見つめる。どうやら女子が勝ったらしく、ぜえぜえと肩で息をしてその場に座り込んだ男子の背中を女子はばしんと叩き、あろうことか彼女はそのまま男子の肩に跨がった。まさかの肩車に驚いたのは俺とアルミンだけらしく、男子は馴れたように女子の足をつかみ訓練場を走り出した。あれは、あの女も負けたらするのだろうか。


「あの人、103期で一番成績良いんだって」

「へえ」

「座学以外」

「だろうな」


言っちゃ悪いが、あんなことをする奴が頭が良いとは思えない。
曇ってよく見えないガラス窓を袖で拭いて、ほんの少し視界のよくなったそこから二人を見る。遠いせいで顔はよく見えないが、無造作な短い前髪が目立っていた。


「なまえって言うんだってさ、名前」

「へえ」


訓練場を一周し終えた二人を一瞥して、行こうか、とアルミンが言うので俺はそれに続く。今日の夕飯は何のスープが出るのだろうか。そんなことを考えながら、ちらりと横目で窓の向こうを見た。散切り前髪の女子が、ブロンドの男子を片手でひねり上げているところだった。
まかれた種に水が与えられたのならば、きっと、この時である。

そして今俺は、与えられた水によってむくむくと芽を出した彼女を前に、というか上に、立ち尽くしていた。
訓練場を仕切る塀の上から顔を出し、散切り前髪とポニーテールが揺れる。アーモンドのような形をした瞳は不機嫌そうに俺を睨みつけていて、寄せられた眉の間にはしっかりと皺が刻み込まれていた。何がどうして俺はこんなにも威嚇されているのだろうかと疑問に思いつつも、俺の中ですっかり芽を出してしまっていた彼女、なまえの顔を凝視する。ガラス窓の向こう側にいた彼女の瞳は、透き通るようなエメラルドグリーンの瞳だった。


「ねえ、返事しなよ。あんたがエレン・イェーガー?違うの?そうなの?」


チッ。大きな舌打ちが降ってきて、俺は間抜けに開いていた口を引き締め、こくこくと大きく頷いてみせる。すると彼女は眉を寄せたまま歯を見せて笑い、そのままよいしょと呟きながら塀をよじ登り、そして俺が声をあげる間もなく此方側へと降りてきた。随分と身軽らしい彼女は高い塀から飛び降りたというのによろけることなどせず、直ぐに姿勢を正して俺に向き直る。艶やかなダークブラウンのポニーテールが、ゆらゆらと揺れた。


「あんた、104期の中で有名らしいじゃん」

「え、あの、」

「巨人に会ったことあんでしょ?私もあるんだよ」

「え、そうなんすか、」

「そうそう、目の前で弟が食べられちゃってさ、もー怖くて怖くて」


そう言うわりに、彼女の纏う空気に恐怖は感じないが。
しかし、彼女が嵐のようだと言っていた意味が、ほんの少し分かった気がした。彼女は全く俺のペースというものを考えず、俺の相槌もろくに聞こうとしない。ぺらぺらとまくし立てるように話しては身振り手振りを加え、立ち尽くす俺の周りをくるくると歩き回っていた。
アルミンより少し背が高いだろうか。いや、彼女のヒールの高いブーツがなければ同じくらいだろう。ごつごつと重い音を立てながら俺の周りをくるくる歩く彼女を見下ろしながら、俺はどうしてこんなことに、と今更ながら考える。確か俺は午前の訓練を終えて、ミカサとアルミンに先に食堂へ向かうよう声をかけ、自分はどうにも頭から水をかぶりたい気分だったからと水くみ場へと向かっていた途中だった筈なのだが。


「私の住んでた村はちっさくてど田舎でさー、遊びって言ったら木登り川泳ぎで、いっつもつるんでるアレックスは割と都会育ちなもんだから一緒にいても体力が全然違うわけ」

「はい、」

「まあ最近は私についてこれるくらいになったけど、やっぱまだまだなよっちくてさー。自主練とかしてても最後は私だけで走ってんの」

「はい、」

「そんで練習相手が全然いないって文句言ってたら同期の奴が、お前くらい訓練に熱心な奴なら104期にいんぞとか言うわけ」

「は、い?」

「あんただよエレン・イェーガー」


に、と歯を大きく見せて、彼女はくるくると俺の周りを歩くのを止め、目の前で立ち止まる。正直目が回りそうだった俺は漸く立ち止まった彼女に感謝していたが、話の内容はいまいち理解出来ていない。理解しようとしても彼女がぺらぺらとまくし立てるように話すのだから、追いつけないのだ。
しかし、彼女が立ち止まり漸く口の動きを止めたことで、俺は段々と言葉の意味を理解する。歯を見せて笑っていた彼女は、今やまた眉間に皺をよせ、不敵に笑っていた。


「う、りゃあっ!」

「どわっ!?」


突然顔の横に現れた彼女のヒールの高いブーツに目を見開き、俺は慌てて後ろに飛び退く。一体何が起こったのかと大きく瞬きをして彼女を見るも、彼女はまるでアニのように穏やかではない空気を漂わせて拳を構えていたので、え、え、と言葉にならない声を漏らすしかなかった。


「やるじゃん!」

「ちょっ、」


シュ!と頬を彼女の拳が掠めて、心臓がひやりとする。どうやら彼女が嵐だというのは、この事も含めてらしい。次々と繰り出される拳と重すぎる蹴りを必死にさばいて時折やり返しながら、とんでもなくでかい嵐だ、と冷や汗をかいた。
どれほど彼女の拳と蹴りをかわしたか分からない。時間にしてみれば、一、二分の出来事だろう。俺の防戦一方の攻防は彼女が俺の胸ぐらを掴み、俺をぐるりと宙で一回転させ、地面に叩きつけるなりマウントポジションをとることによって終わった。てっきりそのまま殴られると思っていた俺は、肩で息をしながらも腕で頭と顔を守っていたのだが、一向に降ってこない痛みに恐る恐る腕をおろし、同じく肩で息をして俺を見下ろし不敵な笑みを浮かべる彼女を見て、漸く終わったのだと理解したのだった。


「はっ、ははっ、良いね、あんた良いじゃんっ」

「は、どっ、どう、も」

「ほんと良いよ、あんた良い。も、最高!」


俺の腹に跨がったまま、彼女は言う。その笑みが何とも眩しく思えて、俺は彼女の下で息を整えながら目を細めた。
最高だわ。そう呟きながら、彼女はゆっくりと俺の上から退き、流れるように俺の手をとり身体を起こさせる。地面に座り込み汗を拭う俺を、彼女はポニーテールを揺らしながら見ていた。


「……ミカサ・アッカーマンとかライナー・ブラウンも勧められたけど、最初にあんたに会いに来て正解だったね」

「そ、すか、」

「うん、ほんと正解。私賢い。すごく賢い。あんた最高。エレン・イェーガー最高!」

「いでっ!?」


ばん!と背中を叩かれた衝撃で前につんのめり、何をするんだ!と弾かれるように振り返るも、俺は言い返すことも出来ずにあんぐりと口を開けるしかなかった。彼女は今の一瞬で塀に飛び乗り、先程出会ったばかりの時のようにいつの間にか俺を見下ろしていたのだ。
あまりの素早さに、もはや感嘆の声しか出ない。アニやミカサも凄いが、彼女、なまえはまた違った凄さがある。それが何かとは言葉で表現出来る程の語彙を俺は持ち合わせていないが、アルミンならきっと分かってくれるだろう。俺は地面に座り込んだまま彼女を見上げ、そんなことを考えていた。


「私はなまえ。103期生のなまえ」

「あ、お、俺は、」

「知ってる。エレン・イェーガー!」


塀の上で、彼女はまた歯を見せて笑う。艶やかなポニーテールが太陽に照らされてきらきらと光り、とても眩しいと思った。


「また会いにくるから、じゃあね!」


散切り前髪の嵐のような先輩。103期生のなまえ。
いつの間にかばらまかれていた種が俺の中でむくむくと芽を出すのを感じながら、ひらりと塀を乗り越えて軽やかな足音と共に消えていった彼女に、俺は暫く動けずにいた。只一つ分かっていたことは、この芽を枯らさずに育てなくてはならない、ということだけ。









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