short | ナノ


その子を拾ったのは、お館様でも真田の大将でもなく、まさかの俺だった。
嵐が来るからさっさと帰ろう、と森を突っ切って上田城へと向かっていた雨の降る夜更け。ざあざあと木々が揺れ雨が頬を叩く中、大きな木の幹に背を預けるようにして血塗れで倒れ込む女の子を、俺は見つけてしまったのだ。捨て置くべきかと思いつつ、俺はそろりとその子に近寄りそうっと息を確かめた。するとその子は血と雨と泥でぐしゃぐしゃに汚れた手を微かに動かして、追っ手か、と尋ねたのだ。


「……追っ手じゃないって言ったらどうする?」

「…………殺して欲しい」

「へ?」

「お前が、風魔の一族でないなら、私を、殺せ」


べたりと額に張り付いた前髪の隙間から、ぎらぎらとした瞳が俺を射抜いた。ぶるぶると震える手が最後の力を振り絞るかのように懐から苦無を取り出して、それを俺に押しつけた。よく手入れのされたそれは血に汚れてはいたが、時折響く雷鳴と共に鈍く光り照らされていたのを、俺は忘れられないでいる。


の、だが、まさかそんな殺気に溢れ今にも噛み付かんばかりの瞳をしていた彼女が、このようなことになろうとは。降りしきる雨の中ぷっつりと意識の切れた彼女を猫でも拾うかのように上田城へ連れ帰ったのが二年前。今や彼女は、この俺率いる忍部隊の第一線を駆け、武田軍の総大将を真田の大将に引き継ぎ少しばかり落ち着きが出たお館様の代わりに、真田の大将と熱い拳を交わす仲にまでなっていた。いや、彼女は黙々と大将の拳を避け、時折いい加減にしろとばかりに手を出すくらいだったが。兎に角彼女、なまえという風魔からの抜け忍はここ上田城で上手くやっていた。


「……長、私、あいつ殺してきて良いですか……」

「お、おお……、なまえちゃん落ち着きなって……」


上手く、やっていたのだが。これはどうしたものか。
政のために豊臣秀吉の部下である石田三成のもとへ来たは良いものの、彼女は元来堅気な性格であるせいか、とある男と上手く折り合いがつかずにいた。それはここ佐和山へ来て三日が経った今も変わらない。
どうにもそりが合わない、見ていて腹が立つ、となまえがそう零したのは、なまえを石田三成等に顔合わせをさせた初日の夜更けのことだった。与えられた客間でぐうすかと大の字になって眠りこける大将を二人並んで庭の木の上から見守りながら、なまえは独り言のように呟いた。え、まさか暢気に寝てる大将に腹立ててる?と俺が驚いて振り返った時のなまえの形相は、戦場で見れば背中を任せるどころか辺り一帯を任せたくなる恐ろしさであった。それほどに、彼女はその男への第一印象がよろしくなかったのだ。
今だって、彼女は俺と出会った夜のようにぶるぶると手を震わせながら、苦無を握りしめている。


「どうどう、落ち着きなって、ほんと」

「……ですが、長、あの男、幸村様のお言葉を借りるならば破廉恥極まりない男ですよ……」

「いやいや、多分あれくらいが普通なんだって、肩を組んだり手をとったりさ、大将が恥ずかしがり屋だからしないだけで」

「……石田殿や大谷殿は、あのような事はしませんが」

「……ふ、普通が少ないの。ね。普通が、少ないだけ」

「…………島殿は、普通、なのですか」


ぽつり。なまえが心底憎らしそうにその名を口にしたので、どうどう、と彼女の肩を叩く。なまえはほんの少しだけ震えをおさえ、漸く苦無を懐にしまった。
なまえがこうも敵意を剥き出しにするのには、先にも述べたように彼女の堅気な性格があった。石田三成等と彼女の顔合わせの場に、勿論彼女が声を震わせて名を口にする男、島左近もそこにいた。深々と頭を下げ、粛々としたその態度に石田や大谷は決して彼女に悪い気はしなかったのだが、あの男はなまえと違い、場に笑みを求める男らしかった。大きな声で自身の名を語り、堂々とした態度で大将と俺の肩を順に叩き、そして彼は最後になまえの前に立ち、彼女の肩を軽く引き寄せたのだ。


「もっと笑えば可愛いのによ。勿体ないぜ!」


大将と少しばかり似た大きな笑みに、大将とは似つかない台詞。ははは破廉恥な!と大将が顔を赤く染め、左近んんん!と石田の旦那が叱責の声を上げる中、なまえは忍らしく控え目な態度で頭を下げていた。私には勿体ないお言葉で御座います、とかなんとか、言っていた気がする。
頭を下げながら、馴れたように肩を叩く島の手を冷たい目で見ていたことを、俺はその時気のせいだと思っていたのだが。


「……で、今日は何?また昨日みたいに肩でも抱かれた?」


くノ一として、女として忍の世界にいたのなら、彼女はこんな事で怒りはしなかっただろう。しかし、彼女は風魔の出である。戦忍としてその身を置いてきた彼女は元々の堅気な性格があって、どうにも軟派な島という男を敵視せずにはいられなかった。
そして、彼女は初日に続き昨日も彼に肩を抱かれ手合わせでもどうかと誘われたのである。武将の鍛錬に誘いを受けるというのは彼女にとって嬉しいことであったらしいが、それでも誘い方というものがあるのではないか、と彼女は昨夜俺にそうこぼした。それは真田の大将のように暑苦しく誘って欲しいということなのだろうか、と俺は一人彼女の将来を心配したのだが、彼女にそれは言えなかった。きっと睨まれるに決まっている。


「……鍛錬は、先程、お付き合いさせて頂きました。流石石田殿の側近。身軽で動きが柔らかいので、幸村様とはまた違うものを得られました」

「あれ?そうなの?良い感じなんじゃん。てっきりまた破廉恥なことでもされたのかと」

「ですが、賭けに負けまして」

「……ほう?」


かけ、賭、か、賭け?
そういえば彼が廊下を歩きながら賽の目を手のひらで転がしていたところを、俺は見た気がする。たんなる暇つぶしだろうとその時は思っていたのだが、どうやら彼は賭事を好むらしい。
負けた。そう言った彼女の手が、またぶるぶると震えながら懐に伸びる。苦無を取り出しそうになった彼女が今にも腹を切ってしまいそうな勢いだったため、俺は慌ててその手を掴み、どうどう、とこの日三度目の言葉を口にした。


「落ち着いて落ち着いて!ほら、負けたってどんな賭けに?言ってみなさい」

「……丁なら、町へ下り茶をしようと」

「へえ、あの人なまえと仲良くなろうと必死だね」

「茶をして、私に似合う簪を探そうと」

「そこまで行くか!なまえちゃん相手になかなか攻めるね!」


茶をするまでならまだ許そう。決して仲の悪くない国の人間だ。そのくらいならまだ当たり前の付き合いだ。しかし、此処に真田の大将がいたのなら、彼は破廉恥と叫んだことだろう。簪を選ぼうなど、男女の仲を進めようとしているとしか考えられない。
今頃石田の旦那に纏わりついて武田漢道場紛いなことをさせようとしているであろう大将を想いながら、馬を射るどころか馬ごと将を射んばかりの顔をしているなまえに短く息を吐く。ふ、と顔を上げて俺を見たなまえは俺が彼女を拾ってきた頃に比べると随分と柔らかな雰囲気になったものだが、それでも町の娘と比べると島の言いたいことは分からないでもない。笑うときっと、町の娘と寸分違わぬ、いや、それ以上に愛らしいだろう。何ですか、と無表情で俺を見つめるその顔は、笑えば良いと島が評しただけのものはある。


「んー、まあ、さ、簪云々はあれとして、お茶くらいなら良いんじゃない?」

「いえ。お館様に幸村様を任された身。長に報告も終わりましたので、今すぐ幸村様の元へ参ります」

「いやいやいや、ちょいちょい、待って、」


報告、とやらは、殺しても良いですか、の下りであろうか。いや、鍛錬の際の島の動きについてだろうか。全てひっくるめてだろうか。……ひっくるめて、であろう。
す、と下がろうとしたなまえの腕を引っ付かんで、こっちへおいでと人気の無い庭の生け垣の裏へと彼女を誘う。何ですか、と言いたげな視線を再度感じながらもその場にあった手頃な大きさの石に彼女を座らせ彼女を見下ろせば、彼女はほんの少しだけ不機嫌そうに眉を寄せた。
簪云々は、ひとまず置いておこう。だが、実の所、島に彼女を任せてみても良いのではないか、と、この三日間で薄々思い始めていたところがないでも無い。今まさに不機嫌そうな顔をしているように、彼女が笑みを浮かべることはまず無い。彼女を拾ってもう二年になるが、酒の席では頑なに酒を拒み、齢の祝いだと大将が着物を贈った際も、彼女はほんの少し頬の緊張を緩めただけである。大将やお館様はそれで充分だと子供のように喜んでいたが、俺は内心残念だと思っていたのだ。島の言葉を借りるわけではないが、笑えばもっと、何とやら。
しかし、今の現状に満足している大将やお館様にはこれ以上を期待出来ない。だからと言って、彼女を率いる立場にいる俺自身が彼女を笑わせようと躍起になることが良いとは思えない。男所帯でむさ苦しい武田軍に華を添えたいのは山々だが、俺は彼女にとって長なのだ。長たる態度で彼女に接してやりたい。それが今のところ出来ているかは別として。


「なまえ、大将は俺が見てる。行ってきな」

「……長は少し身体を休ませるべきではありませんか。このような言い方は失礼だと存じておりますが、私は、幸村様も、長も、心配です」

「お、おお……」


これが、無表情でなければ、もっと愛らしいというのに、本当に勿体ないお嬢さんである。
島の言葉を今更ながら噛みしめ、俺は一度落ち着こうと頭をかく。膝を抱えて俺を見上げるその姿は何ともいじらしいが、ここに笑みが足されるとどうなるのだろう。武田軍、素晴らしいものになるのでは。俺、仕事頑張れるのでは。
どこからともなく声がする。聞き慣れない声ではあるが、その声は確かになまえを探しているもので、俺はちらりとなまえを見下ろした。相も変わらず無表情で膝を抱えるその姿にいつか笑みが加わることを信じて、俺はなまえの肩に手を置いた。


「……なまえ、良い、よく聞いて」

「はっ」

「島の旦那に、近付くんだ。何も軍の詳細や城のことを探れとは言わない。ただ、近付くんだ」

「……な、にゆえ、そのような、」

「あっ、お、怒らないでくれよ?良いか、この乱世、何が怒るか分からない。出きるだけ利用出来る男は手込めにしておいた方が良い。でしょ?」

「…………手込めに」

「ああ。けどなまえ、身体は使わなくて言い。ただ、顔と、言葉と、態度で手込めにするんだ。顔と、言葉と、態度と、顔!」

「顔、ですか」

「うんそう!」


段々近づいてくる声に、なまえも気付いただろう。なまえー?とがさがさと生け垣を揺らしながら彼女を探す声に、なまえは虎のような表情で苦無を取り出そうとした。が、直ぐに俺の顔を見て、はっ、と手をおろす。慌てるその姿が、何とも微笑ましかった。
がさり。俺達の直ぐそばの生け垣が揺れて、つり目がちな瞳を持った端正な顔が飛び出してくる。あ!と声を上げたのはまさに飛び出してきた島左近その人で、なまえはほんの少しだけ眉を寄せ、それでも威嚇はしなかった。


「よ!なまえ!約束通り町へ行こうぜ!」

「……だってさ、ほら、行っといで」

「………………………………はい」


たっぷりの間を置いて、なまえはゆっくり立ち上がる。途端に顔を綻ばせた島の奴は、きっと悪い男ではないだろう。着替えねえの?俺は別にそのままでも良いと思うけどよ!となまえの肩を馴れ馴れしく抱こうとするのは些か許し難いが、それでもなまえを見る目に悪意は無いので良しとしよう。
島に連れられ小さくなっていく背中を見送りながら、近場の木に飛び乗る。何の話をしているのだろうか。小さく頷くなまえに話しかける島の横顔を見ながら、ふう、と息を吐く。
上手く、いくと良いのだ、が、


「………………あれ、」


ふと、視界に入る、大谷の姿。廊下の陰に隠れて、門をくぐり町へと下る二人の背中を見つめていた。
そして、彼は俺を見る。ぐっと拳を握りながら。


「…………いやいや、あわよくば側室に、なんて気じゃあ無いでしょーね……?」


たらりと流れた冷や汗に、俺は気付かぬ振りをして軽く手を振り返す。遠くから石田の旦那と大将の雄叫びのようなものが聞こえてきたが、俺は暫くその場から動けなかった。あの、よくやったと言わんばかりの拳は、一体。












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