「……スラグホーン先生、となると俺の生ける屍の水薬は……」

「どうにもこうにも、あれじゃあただの屍の泥薬だったな、全く。まあ、他の道もある」


どん底もどん底、トロール程ではないにしろ、不可という文字が頭の上をくるくると飛び回って俺から離れないのは、ふくろう試験のひとつでもある魔法薬学の結果を、それとなくスラグホーン先生に伺ったせいだった。
魔法省の役員が、五年分の焦げ付きにしては分厚すぎるそれに目を細めた瞬間、あ、と何となく感じていた不安が、今では不可という言葉になって俺を追い詰めている。それは幾つか目の前に伸びていた道のうち、大きく太く、照らされていた道を遮って、俺は思わず頭を抱えて唸った。
闇祓いへの道が、まさに今閉ざされたところであった。他の道というのは、闇祓い以外、ということだ。


「……スラグホーン先生、ら、来年もどうにか、お願い出来ませんかね……!?」

「役員が不可と認めればどうすることも……まあ、夏休みになれば成績が届く。それまで待ちなさい」

「…………はい。あの、どうにかなりそうなら、よろしくお願いします……」

「分かった分かった、覚えておこう。ミスター、あー」

「アンドリュー・メイフィールドです」

「ああ、そうじゃ、ミスター・フィールド」


フィールドだなんてキーパー向きな名前、ハッフルパフにはいないのだが。
この五年間、スラグホーン先生のあるかどうかも分からない慈悲にすがりついて魔法薬学を凌いできたようなものだ。どうにかここまでこれたということは慈悲があるということだとニコラスは言っていたが、何度となく俺を見付けては雑用を押し付けられてきた身としては、いまいち素直に頷けないところもある。それでもニコラス曰く慈悲深いスラグホーン先生に、情けない顔で頭を下げるだけ下げて、その場を後にした。
何にせよ、魔法薬学含め、ふくろう試験は全て終わってしまったのだ。夏中に教科書のリストと共に、結果も届くことだろう。せめて可の文字が書かれていることを祈りながらを待つしか、今の自分に出来ることはない。どうひっくり返して読んだところで、良いとは言えない成績表が届くことは分かってはいたが、祈らずにはいられないのだ。


「あと、は、クィディッチくらい、だなあ……」


ぶらぶらと歩きながら、独り言を呟く。弟がいればもっとしゃんと歩けとばかりに蔑んだような目で見られただろうし、ピーブズがいれば独り言を呟いたことを笑われただろう。それでも今は誰ひとりとして俺を見てはいなかったし、そして俺のことを考えてもいない。踵を鳴らしながら歩いて、可の文字の向こう側にあるものだけを考えた。


「頑張るって、約束したからなあ……」


せめて、クィディッチだけはどうにかしなくてはならない。それが紳士というものだろうと、俺は思っている。同学年の魔女達は誰ひとりとして俺を紳士だとは言わないが、彼女は、ニナは違うのだから。
彼女が俺を紳士だと信じているとは、勿論思わない。ニナにとっての俺は良いところそこそこ仲の良い上級生で、どん底で悪く考えたところでどうにか話すのが苦ではない上級生に留まってくれる仲だろう。それでも、同学年の魔女達よりはずっと良かった。
見た目も中身も色々な意味で魔女らしくなりつつある彼女達は、赤毛のゆるい巻き毛の魔法使いはお嫌いらしい。ことあるごとにからかわれるのですっかり慣れてはいたが、それでも日毎に俺のくすんだ赤い誇りは削られていくものだ。くすくすと笑ってクィディッチ馬鹿だの赤毛の魔法使いはガリオンに嫌われるだの、好き勝手言う魔女達をかき分けて、真っ直ぐ俺のもとへ駆けてきてくれるニナの何と可愛らしいことか。例えニナの中で俺が一等上にいなくても、俺の中ではニナは特別上等なソファーの上に座っていて、尚且つ俺はそんな彼女に毎日毎日お菓子を与えるのも厭わない程なのだ。実際、会う度にポケットの中身を確かめてヌガーやビスケットを与えてはいたが。


「……スリザリンが、何だってんだ!」


ぐ、と拳をつくり、大きな独り言を溢す。廊下の角からグリフィンドール生が不思議そうに顔を覗かせたのを見付けたが、俺はそれに構わず、来るスリザリン戦に向けて、薪をくべるように闘志を燃やしていた。





「おいアンディ、いい加減部屋に戻るぞ」

「……俺のことはへなちょこシーカーと呼んでくれ……」

「おい、もじゃもじゃ赤毛のへなちょこシーカー、部屋に戻るぞ」

「そこまで言えとは言ってねえよ!」


そしてその闘志は薪をくべ過ぎたせいか、多過ぎるそれに潰されて火を絶やしてしまったのだった。


「まだ引きずってんのかよメイフィールド。ブラウン、慰めてやれよ?」

「俺達は部屋に戻って明日の準備だからな。俺まだトランクに半分も詰めてねえんだ」

「明日から夏休みだってのにベッドの上で店が開けるぜ!」

「お前のシャツなんか誰も買わねえだろ。じゃあなメイフィールド、ブラウン、さっさと終わらせて戻ってこいよな」


ばしん、ときつく背中を叩かれるが、俺は顔を上げずに唸り声を漏らすことしか出来ない。同寮生達にとって、それはさしたる問題ではないのだ。グリフィンドールに四百点差で負けたチームが、スリザリンに五百点差で負けたところでそれは取り立てる程の問題ではないのだ。
今回は箒から落っこちなかったものの、スニッチを探して競技場を飛び回っている間にスリザリンチームのシーカーがスニッチを捕まえる瞬間を見てしまい、俺はいたたまれない気持ちでそのまま職員席へと降りた。スラグホーン先生は愉快そうに大きな腹を揺らして手を叩いていたが、ビンズ先生だけが小さく丸まる俺をローブの後ろに隠してくれて、こっそりと萎びたビスケットを与えてくれたのだった。


「さっさと立ち直れよもじゃもじゃアンディ。ママに慰めてもらわなきゃ駄目なのか?ママが泣くぞ?」

「母親を出して傷を抉るのは止めろよ!」

「じゃあどうして欲しいんだよ。良いだろ別に、ディペット校長がチームに十点追加してくれたんだ。それでも最下位だったけど」

「あれはキャプテンにだよ!」

「ああそうか。そうだった」


修了式でのお情けを思い出しながら、ニコラスは視線を天井に向けたり暖炉に向けたり、それから爪先に向けて、ぼんやりと頭をかく。彼にとってもさしたる問題ではないことを、彼のダークブラウンの落ち着きのない視線が教えていた。
別に、五百点差で負けたことは問題ではないのだ。グリフィンドールに負けた時点で俺の誇りなんてものは箒から落っこちた時に一緒に落っこちてしまっていたし、スリザリンチームの揃えられたクリーンスイープ三号を見た瞬間に、あ、負ける、と悟った。
問題は、別にあるのだ。ニコラスによく似たダークブラウンの、小さな妖精の女の子と交わした言葉にあるのだ。


「あああ、もう嫌だっ……!」

「……なあ、これまだ続くか」

「あと三時間はかかるかな!部屋に戻りたいなら戻ってくれ!どうぞ!」

「それではお言葉に甘えて」


思わず頭を抱えた手をそのまま部屋への通路に向ければ、ニコラスは後ろ髪も引かれずさっさと立ち上がる。何て薄情な魔法使いなのかと目を疑ったが、最後に背中を叩いたニコラスの手は他の生徒達よりもずっと優しいものだったので、俺はやはりこの魔法使いこそ親友なのだと彼の背中を見送った。一度たりとも振り返りはしないが、親友なのだ。


「お、ニナ」


そして、俺を振り返りはしないニコラスは、女子部屋の通路から出て来た彼女、ニナのために簡単に立ち止まってしまった。


「ニコラス先輩っ、もう戻るんですか、ニコラス先輩」

「明日も早いからな。ニナも早く寝ろよ」

「はいっ」


こっくりと頷いたニナの頭を乱暴に撫でて、ニコラスはやはり俺を振り返らずに部屋へと戻っていく。それを見送った小さな背中はふんふんと鼻唄をうたいながら談話室に置かれていた誰のものでもない本を手に取り、背表紙を撫でては感触を確め、そして幾つかあるその中の一冊を選んで胸に抱えた。どうやら彼女は中身ではなく、背表紙の感触で本を選んだらしい。
ソファーの背凭れに沈みながら、出来れば気付いてくれるな、と目を閉じる。ニナに話しかけたくて仕方がなかったが、俺には彼女に話し掛ける権利がないのだ。
沢山頑張ったら一緒に出掛けるのだと約束をした俺は、何一つとして結果を出せなかった俺は、そんな権利を持ち合わせていないのだ。


「あっ、アンドリュー先輩」

「ぐ、」


しかし、ニナのダークブラウンの瞳はこういう時とてもよく働くらしい。いつもはどこか気の抜けた、廊下の壁や天井の染みを眺めては首を傾けているニナが、本を胸にぱたぱたと真っ直ぐ此方へ駆けてくる。それをソファーに深く沈みながら薄目で眺めていれば、ニナは何の疑いもなく俺の前までやってきた。彼女は寮対抗杯でハッフルパフが最下位だったことなど感じさせない穏やかな顔付きで、俺の膝に片手を乗せながら俺の顔を覗き込んできた。
紳士ではない魔法使いの自分が、俺をうかがっている。


「アンドリュー先輩っ、ここで寝ちゃ駄目ですよ」


ぐ、と奥歯を噛み締めて、俺は持ち上がりそうになった唇を引き締める。まるでユニコーンに囁くような声でそう言った彼女は、半分は俺が寝ていると思っていて、もう半分はそれでも起こさなければと思っているらしかった。こしょこしょと話す彼女の様子を薄目で見ていたなんて、思いもしないのだろう。このまま寝たふりをすれば、ニナはどうするのだろうか。
しかし、そんな純粋な彼女を騙すのは気が引ける。ましてや、何一つとして上手くいかなかった今の自分にそんなことが許される筈もない。何せ俺の生ける屍の水薬はトロール並みで、そしてもじゃもじゃ赤毛のへなちょこシーカーなのだから。


「……寝てねえよ」

「あっ、……えへへ」


そろりと目を開けてそう言えば、ニナは膝に乗せていた手でぱちんと自分の口を隠し、騙された、と照れたように眉を下げて笑う。その様子に思わず紳士ではない魔法使いの自分が腕を動かしそうになって、俺は慌てて自分の頬を叩いた。
ばしん!と勢いよく頬を叩いた俺に、ニナは目を丸くして肩を跳ねさせる。そんな彼女に胸の辺りが締め上げられた気がして、誰か今すぐ部屋から出て来て俺を殴ってくれやしないかと思ってしまった。


「ど、うしたの?どうしたん、ですかっ?」

「いや、ちょっと、自分を抑えたくて……」


俺の言葉の意味が分かるはずのないニナは不思議そうに首を傾けて、それから小さな右手を持ち上げた。あ、とその手を眺めている間に彼女は俺の頬を撫でていて、また紳士ではない魔法使いの自分が俺をうかがっていた。
今抱き締めないでいつ抱き締めるのだ、と。


「ニナ、」

「アンドリュー先輩、明日から、明日から夏休みですねっ」

「あ、はい」


伸びかけた手を、慌てて引っ込める。何も知らないニナは睫毛を揺らして嬉しそうに笑い、俺の頬から手を離した。


「沢山、考えましたっ。私、たっくさん、考えました」

「……何を考えたんだ?」

「アンドリュー先輩と行きたいところっ!」


ぱ、と、右手を広げて、ニナは言う。ああ、と俺は頭の中で項垂れて、紳士ではない魔法使いの自分はそそくさと頭の奥の扉の向こうに引っ込んでしまった。丁寧にも鍵をかけてまで。
本屋さんに、美味しいチェリーパイのお店に、服屋さんに、箒専門店に。ひとつひとつニナは指折り数えながら、天井を見上げる。時おり壁やそこにかけられた時計に向かうダークブラウンの瞳は、本屋の本棚を眺め、焼きたてのチェリーパイにカスタードクリームをかけ、夏にぴったりな白いワンピースを探し、新作の箒を見つめているのだろう。きらきらと睫毛の先から煌めきがこぼれていくのを、俺は情けない気持ちで確めていた。


「でもねっ、でも、やっぱり、一番は見付からないんです」

「……そうか。うん。……あのさ、ニナ、俺、」


頑張ったけど、全然、駄目だったんだ。
言おうとして、口をつぐむ。ニナの右手は俺の膝に乗せられて、彼女はそのままぐっと身を乗り出した。鼻先に揺れる彼女の長い髪がぶつかって、それはさらさらとニナの肩におりていった。
チョコレートのようなニナの瞳が、俺を見つめている。目にかかる前髪の先をちらりと見たニナも、俺をもじゃもじゃ赤毛のへなちょこシーカーだと思いながら、観覧席に座っていただろうか。そうではないといい。せめてニナだけでも、そうでなければいい。


「だって、だって、アンドリュー先輩が一緒なら、きっと、絶対、どこだって楽しいです」


ニナがそんなこと、指先程だって思う筈がないと、俺は知っているのに。


「アンドリュー先輩、沢山頑張ったから、アンドリュー先輩の行きたいところも行きましょうねっ」

「でも、俺、全然、試験も、試合も、」

「頑張ったんですよね?沢山、沢山頑張ったの、知ってますよっ」


にこにこ笑って、ニナは跳び跳ねている。ニナが跳ねるたびにふわふわと甘い花のような匂いが広がって、頭の奥の扉を弾き飛ばして紳士ではない魔法使いの自分が飛び出してきたのを、俺は引き留めることも出来なかった。


「ニナーっ…………!」


勢いよく、ニナの手を引いて彼女の背中を抱き寄せる。わ、と声をもらして倒れこんできた彼女をぎゅうぎゅうと抱き締めれば、ニナは小さく呻き、しかしそれでもすぐに笑った。
生ける屍の水薬がただの屍の泥薬でも、息のぴったりとあったクリーンスイープ三号達のスリザリンチームに負けても、それでもニナはよく頑張ったと、笑ってくれるのだ。


「ああもう、可愛い、本当に可愛いっ……!」

「アンドリュー先輩、お出掛け楽しみですね、とっても楽しみですねっ」

「俺が何処へでも連れてってやるから!何処へでも!何でも買ってやる!」

「ふふ、じゃあ、じゃあ一緒にチェリーパイ、食べましょうね」

「そういうところが可愛いっ……!ああーっ!お前はもうっ!」


ニナの右手が背中に回されるのを感じながら、俺はどうすればグリンゴッツから自分の全ガリオンを親に気付かれずに持ち出せるか、そればかり考えていた。俺の叫び声に何だ何だと巣穴からニコラス達が出て来て、俺をぶん殴る頃には俺は頭の中で母親にも父親にも叱られ、弟サミュエルからは睨まれ、挙げ句グリンゴッツの小鬼にまで冷たく追い払われていたが、それでも俺はニナに何かを買い与えなくてはならないという使命感を消すことは出来なかったのだった。




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