「ねえあなた、酷い顔だわ!医務室に行った方が良いわよ!」


ぷかぷかと浮かんでは沈んでいく私の意識を引っ張ったのは、ジェインの小さな手とよく響く高い声だった。


「え、へ、平気、平気よ」

「平気じゃないわ、ニナ、鏡を知らないのね。鏡を見ればあなたの顔が映るのよ。確かめてみてちょうだいよ!酷い真っ青なんだから」


今日もお腹を膨らませたハシバミの鞄を持って、談話室を出ようとしていた時だった。ジェインは私の手をつかんで引き留めるなり私と向かい合い、小さな手で両頬を挟んでくる。その手がやけに熱く感じて、ジェインこそ熱でもあるのではないかと私は思った。
三つ編みを後ろの方で捻ってまとめているジェインのジンジャーの赤毛から、そこにさしていた白いゼラニウムがひとつ落ちていく。ジェインはそれを見た筈なのに、そんなものはどうでもいいと私の両頬を挟んだまま、ねえ、と後ろにいた二人、アンとリリスに声をかけた。私は未だ、どちらがアンで、どちらがリリスなのか分からない。


「ねえ、酷い顔よね?医務室に行くべきよね?」

「え、わ、私は……どう思う?」

「分からないわよそんなの……でも、でも確かに、顔色は……」


ぱしゃりと視線を泳がせて、二人は時折私の顔を見て、困ったように身を寄せていた。それを見ていると今度は気持ちが沈んできて、私は頬を挟んでいたジェインの手をとる。ジェインの手は、やはり熱い。
男子寮から、生徒が出てくる。ローブのフードのせいでそれが誰だかは分からなかったけれど、ここで立ち止まっていては邪魔になるだろう。私はジェインの手を一度だけ握って、平気だからと首を振った。


「ありがとう、ジェイン。でも、平気、平気なのよ」

「でも本当に真っ青なのよ?あなた、もしかしたら病気かもしれないわ」

「ううん、違うの、疲れてるの、少し疲れただけ。ほら、試験の、呪文の、練習で……」


私がそこまで言うと、ジェインの後ろで二人は何かを囁きあう。くすくす妖精が二人の肩に乗っているのを見つけてしまってからは、早かった。たちまちそれは私の方へと飛んできて、ローブの端に、スカートの裾に、肩に捕まって、くすくすと笑い出す。
真っ黒くて重い波が、二人の後ろから打ち寄せてくる。それは二人を、ジェインを通り越し、真っ直ぐ私へと向かってきた。それが酷く恐ろしいものだから、私は震えながらジェインの手を離す。
ジェインの丸い瞳が、そんな私を見つめていた。


「あり、がとう、私、行くね」

「あっ、ニナ!……もう!どうしてアンもリリスも医務室に行くべきだって言ってくれないの!」

「だって、……ねえ?」

「ええ、ねえ?」

「もう!知らない、知らないわ!二人とも知らないんだから!」


錆び付いてしまったかのような足を前に前に出しながら、談話室を出ていく。細くうねる通路を出て、広く、ひやりと冷たいホグワーツの廊下に出れば、そこで漸く波は消えた。
そろりと胸を撫で下ろしながら、両手で鞄を抱えて大広間へ向かう。廊下に飾られた果物の盛られた絵をぼんやりと横目に見ながら、さして遠くはないそこへ着くのは一瞬のことに思えた。
少し開いた扉を抜けて、人の疎らなその中から見慣れた姿を探す。すると直ぐにミネルバが此方に手を上げて、私は彼女のもとへと走った。今日のミネルバの親友は、天文学のレポートだ。


「ミネルバ、おはようっ」

「ええ、おはよう、良い朝ね、と言いたいところだけれど、ニナ、あなた酷い顔色よ?」

「……やっぱり、そうなの?」

「そうよ。元気爆発薬でも飲みに行く?五年生と七年生はみんな飲んでるんですって」

「ううん、平気、平気よ。……平気だわ」


ミネルバの隣に腰を下ろしながら、私は自分の頬に触れてみる。もしかすると、ジェインの手が熱かったのではなく、私が冷たかっただけなのかもしれない。
私の前に置いてあったお皿に、ミネルバはラズベリーを乗せてくれた。それをつまみながら、私は膝の上に乗せたハシバミを撫でる。ずっしりと重たいそこには今はオランダ魔女の自叙伝と、ドイツの魔法使いの歴史書が入っていて、今にもはち切れてしまいそうだった。


「まあ、もう少しで試験だけれど、今日は少し、休んだらどう?あなたずっと図書室に住んでるでしょう」

「ミネルバも、サミュエルもだわ」

「……そう、ね。でも、無理は駄目よ。午前の授業が終わったら、医務室か寮で少し休むこと」

「……うん、そうする、そうする」


もう寒くはないからと、ミネルバは少しの熱いアッサムにたっぷりの冷たいミルクをゴブレットに入れて、よく冷えたミルクティーを作ってくれた。それを少しずつ飲みながら、私は視線を落とす。
午前の授業が終わったら、練習しなくてはいけない。魔法の、練習を。


「あら、梟便だわ。ほら」


私の前に落ちてきた小さな小包を、ミネルバが器用に片手で受け止める。それはトムからの贈り物で、花の刺繍の白いリボンだった。
私はそれで髪を結い上げて、ローブのポケットを撫でる。そこにいるのは短い、小さな小枝のような、私の杖だった。






「なあ、箒借りて外で遊ぼうぜ」

「何言ってるのジャック、寝言は寝てる時に言ってくれないかな」

「だってさ、もう無理だって!これ以上やっても無理だって!」

「やってもいないのにそういうことを言うのはどうかと思うよ」


それにそもそも、僕は箒があまり得意じゃないんだ。
ため息混じりの言葉を吐き出して、イアンは廊下を歩きながらジャックの前に開いた魔法史の教科書を差し出す。そこにはジャックが何度も途中で放り出して眠りこけてしまう魔女の村が広がっていて、ジャックはそれに気付くなりイアンの手を押し退けた。


「止めろよ!ヒュー!イアンに何とか言ってくれよ!」

「………………」

「ごめんねジャック、ヒューは君と違って試験に前向きだから。君と違って」

「お前ら!試験が終わったら覚えとけよ!」


ジャックに名前を呼ばれたけれど、俺は黙って闇の魔術に対する防衛術の教科書を読んでいた。ホグワーツに来て良かったと一番初めに思えたのはこの教科があったからで、やっぱり来なければ良かったと一番初めに思ってしまったのはジャックが俺とは正反対に教科書を読む教科はどれもこれも嫌いだと知ってからのことだった。
イアンを盗み見るように見れば、彼はいつもの涼しげな顔で魔法史の教科書を読んでいる。それに気付いたジャックはニガヨモギを噛み締めたような顔をしながら、イアンの隣を歩きながらイアンの持つ教科書を覗きこんだ。ジャックは嫌だ嫌だといつも騒ぐが、諦めるのは早いのだ。それが彼の良いところだと、俺はちゃんと知っている。
無言で教科書を読みながら、廊下を歩いていく。午後からあったはずの飛行訓練は試験前だからか妖精の呪文の授業に代わり、ホワイトリー先生の待つ教室へ向かっていた。早めに席を取らないと、最近は後ろの隅のお喋りや居眠りに向いたその席がとても人気なのだ。


「お、!?っと、っと、」

「ジャック、平気?」

「あー、大丈夫、躓いただけ」


教科書を覗きこみながら歩いていたからだろう。三歩前を歩いていたジャックは躓いて、よろよろと廊下の端へとふらつきながら手をついた。顔を上げるとジャックが爪先を気にしながら視線を下げる向こう側に、湖へと抜ける扉が見える。開け放されたそこから見えるのは木々の緑と、遠くに見える湖と、それから、真っ白な顔をして歩いてくるニナ・ラヴィーだった。


「あ、ラヴィーだ」

「え、どこ?……あ、本当だ」

「ほら、やっぱり外で遊んだ方が……」

「ジャック、ラヴィーはそんな子じゃないよ。ずっと試験のために勉強してるんだから」


イアンはそう言って、ジャックの背中を小突く。イアンは知っていて、ジャックは知らないのだ。ジャックはそうか?と納得がいかないように首を傾けながら、扉を抜けて城内に入ってきたニナを見る。
真っ白なニナはそのまま直ぐに曲がり角を曲がり、妖精の呪文の教室とは違う方へと歩いていった。そもそも自分達がやけに早いのだから、ニナがそちらへ行ってもおかしなことではないだろう。けれど、イアンはそれが残念だったようで、歩き出したジャックに続きながら肩を落としていた。


「残念、ラヴィーも一緒に行くかと思ったのに」

「だってまだ早いだろ?な、ヒュー」

「あー、まだ、あと、何分だろうな」

「三十分だよ、二人とも。……医務室にでも行くのかな」

「は?なんで?」


ローブのポケットから懐中時計を取り出してため息を吐いたイアンに、ジャックが振り返る。やはりイアンは知っていて、ジャックは知らないのだ。


「いや、だって、今朝女子が騒いでたから。ラヴィーの顔が真っ青だったって」

「へえ、どうしたんだろうな。見舞い行く?」

「そこまで悪いのか知らないけれど、医務室で過ごすことになったらお見舞いに行こうかな」


まあ、多分平気だとは思うけれど。
真っ白な顔をしたニナを思い出しながら、イアンの言葉に耳を傾けていた。教科書の上には盾の呪文が乗っていて、それに有効な魔法生物が描かれている。けれどそれは頭に入ってこず、耳元では今朝のニナの言葉が何度も何度も繰り返されていた。
呪文の練習を、あんなに真っ青になるまで、真っ白になるまで、彼女は、やっていたのだろうか。
鞄に入れたマグル界の本を、確かめるように外から叩く。彼女が住んでいるというロンドンの外れの地図が載ったその本を、俺はもう五回は読んでいた。大広間で読んだ『ヴィーラと歩くマグル界』も、湖の船着き場で読んだ『マグルの胃袋』も、談話室で読んだ『スコットランド魔女のロンドン滞在記』も、全部、全部五回は読んでいた。
少し怯えたような、それでも嬉しそうに細められたダークブラウンを、俺は覚えている。約束と言って杖の先を触れさせたことも、覚えている。
あんなことしなければ、と、何度も、夢の中ですら、考えていた。


「ヒュー!どうした?」


ぱん!と、自分にだけ聞こえる音で、全てが弾けて消える。顔を上げるともう箒四本分は離れたところにジャックとイアンはいて、二人は不思議そうにこちらを振り返っていた。
鞄を、静かに撫で下ろす。魔法界で生まれ育った二人の魔法使いは、マグルになんか杖の先ほどだって興味がない。そんなもの、と言われるのが、思われるのが、そんな目で見られるのが、とても怖かった。


「……何でもねえよ」

「そうか?じゃあ行こうぜ、後ろの席が取られちまう!」

「ジャックだけ前に座りなよ。僕とヒューは後ろに座るから」

「何でそういうこと言うんだよイアンは!」

「だって君が隣だと騒がしくて集中出来ないんだもの」


二人の三歩後ろを歩きながら、俺はひとりローブの内側から杖を取りだし、それを眺める。杖先をあわせたのは彼女、ニナだけだと、ジャックは勿論、イアンでさえも、知らなかった。




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