「ヒュー、まだ起きてるの?」


ぐるぐると瞼の裏で、ロンドンを歩いていた。ローブなんか着ていない、薄手のコートにハンチング帽をかぶった大人のマグルを通り過ぎて、自分の住むグルグモンドへの道に出た。その時だ、不意にカーテンが揺れて、サイドテーブルに置いていた蝋燭の灯りに照らされたイアンが顔を覗かせたのは。


「そっちこそ。……ジャックは?」

「僕は魔法史の勉強。ジャックは夢の中で試験に追われてる」


何でもないふりをしてマグル界から意識をホグワーツのハッフルパフ寮の一室に戻して、本を閉じる。裏表紙には何も文字がなく、それが何の本なのか全く分からなかった。
カーテン越しに、ジャックの小さな唸り声が聞こえてくる。蝋燭の灯りが揺れる度にそれは大きくなったり小さくなったりしたが、止むことはない。イアンの言う通り、夢の中で試験に追われているらしかった。
ふ、と鼻でジャックを笑ったイアンが、視線をこちらに戻す。その目は確かに本の裏表紙を見ていて、彼はそれが教科書ではないことを知っている顔をしていた。


「ヒューは本当に本が好きだね、見た目に寄らず」

「……そうか?」

「最近はずっと読んでるよ。ジャックが拗ねてた」

「…………ん」


イアンはそう言って、まあ僕も本は好きだよ、と溢すように言う。
イアンは多分、気付いているのだ。けれど気付いているということを俺にひけらかすことも無く、それとなく伝えることで、俺が自分から口にすることを待っている。優しいようで残酷にも見えるそれに、内心いつも怯えていた。人に悪く思われることは、とても怖いことだと、知っていた。
瞼の端に、項垂れる父さんが見える。それは瞬きの間に消えたが、その代わりこちらを見つめる叔父さんがそこに立っていて、もう瞬きも出来なかった。


「そろそろ灯りを消すけど、良い?まだ起きてる?」

「……いい、消そう。もう、遅いから」

「ん、そうだね。じゃあ、消すね」


そう言って、イアンは細い息を蝋燭に吹き付ける。ぼう、と小さな音を立てて消えた灯りの向こう側でイアンがおやすみと呟いたのが聞こえたけれど、何も聞こえなかったふりをして、布団を頭までかぶった。
背中の下で潰れた本を、音を立てないように引っ張り出す。暫くもすれば目は暗闇に慣れてしまって、背表紙に光る『ヴィーラと歩くマグル界』が星のように暗闇に浮いて見えた。
目を閉じれば、項垂れた父さんが見える。すっかり痩せてしまった父さんの背を撫でるのは酷く寒がりの叔父さんで、叔父さんはその日もマフラーを首に巻き付け、震える大きな手で父さんの背中を撫で続けていた。変わり者だと言われ続けた父さんはいつしか嫌な奴と呼ばれ、酷い魔法使いと呼ばれ、そしてそれから。


「……イアン、」


瞼を開いて、寝返りをうつ。するとイアンも寝返りをうったのか、ベッドが軋む音がして、ジャックの唸り声が一瞬止まった。


「イアン、おやすみ」

「うん、おやすみ、ヒュー。朝、起こしてね」

「分かった」


ぽつりぽつりと、短い言葉を投げては返して、それからまた目を閉じた。そこにいるのは大人のマグルと、そのマグルをぼんやりと見上げて道端に座り込むダークブラウンの長い髪を持った後ろ姿で、その後ろ姿はゆっくりと立ち上がり、踊るような足取りでグルグモンドへの道を通り過ぎていったのだった。
また始まったジャックの唸り声を聞きながら、俺はとっぷりと揺れる夢のマグル界へ落ちていく。落ちきる前に誰かが枕を投げつけるような音がして、唸り声の代わりに叫び声が聞こえたけれど、俺はもう何も考えず、夢の中へと落ちていくのだった。






「ねえ、やっぱり私、出来ない、出来ないのよ、私、何にもっ……」

「出来るわ、出来るわよ、私が出来るって言うんだから、あなたは出来るのよ」

「……み、ミネルバ、」

「……マクゴナガルのそういうところ、素敵だと思うよ」

「ありがとうメイフィールド、光栄だわ」


今にもぽろりとひと滴零れ落ちてしまいそうなダークブラウンの瞳が、私を見上げてゆらゆらと揺れる。頼りなげなそれを見ると今すぐにでも抱き締めて背中を撫でてあげたくなってしまうのだが、ここ最近の私はどうにもニナに対してそういったことをし過ぎているらしい。もうそろそろ止めた方が、とメイフィールドだけではなくグリフィンドールの友人達にも言われてしまったので、私はそっぽを向くように変身術の教科書に目をやり、ニナを見ないようにした。
湖の側までくれば、馬鹿にしてくる子もいないから。中庭のベンチの上に転がった白い胡桃釦を手のひらの上で転がしながらニナが言ったのは、そんな言葉だった。彼女はくすくすと笑いながら中庭を通り過ぎていくスリザリン生に、あの、私が初めての減点をくらう原因となった喧嘩相手の、ヴァルブルガ・ブラックに気付いていたのだろう。白い胡桃釦は、本当は金色に変わるはずだったのだ。
ヴァルブルガ・ブラックの取り巻きといったら。大きすぎるくすくす笑いを、ルクレティア・ブラックはもっと強く止めるべきだったのだ。少なくとも彼女はヴァルブルガ・ブラックよりかは幾らかまともに思えたけれど、それでも心の中では何を考えてるか分からない。廊下を曲がるなり一番大きな声で笑ったかもしれないし、寮に戻るなりアブラクサス・マルフォイにこっそりと耳打ちしてるかもしれなかった。私はほんの少しだってスリザリン生に興味を持ちたくはないから、実際はどうなのか知りもしないけれど。


「……何が悪いんだろう」


変身術の教科書を開いておきながら湖の底にあるスリザリン寮へと飛んでいた意識を、私は慌てて引っ張り戻す。ニナは中庭の時から何一つ変わらない胡桃釦を手のひらの上で転がして、ぽつりと言った。


「私、私もしかして、本当に、」

「ニナ、一度落ち着いて。ほら、そんな顔をしてあたら水魔に引きずり込まれるよ」


その先を言わせてはいけない、と気付いたのは、私だけではなかったらしい。メイフィールドは直ぐ様ニナの肩を抱くように撫でて、ニナの手のひらから胡桃釦を奪い、ポケットにしまい込んでしまった。彼は元来紳士だが、ニナに対しては紳士過ぎるくらい、紳士な魔法使いだと私は思う。


「ニナ、あなたは呪文も間違っていないし、杖の振り方だって合ってるの」

「……じゃあ、やっぱり私、」

「違う、違うのよニナ、そうじゃないわ。私は思うのだけれど、あなた、杖を振りながら余計なことを考えているんじゃない?」

「…………余計な、こと、」

「ええ、そう、余計なこと」


私の言葉を繰り返し呟いて、ニナは杖を見る。ニナの小枝のような小さな杖は微かに震えていて、今にも手から滑り落ちて湖に沈んでしまいそうだった。
ニナは決して、頭は悪くないのだ。スペルミスは多過ぎると言ってもおかしくはない程に多過ぎるし、レポートは話が彼方此方へとんでしまって終着点が見えないけれど、それでも頭は悪くないのだ。あまり続かないらしい集中力の間では彼女のレポートは真っ直ぐと進むし、私が思いも付かない想像力に富んだ答えが返ってくる。スペルミスは気を付けるしかないが、それでも彼女は真面目にやれば、全て上手い具合に飲み込んで、咀嚼して、自分のものに出来るのだ。
ただ、彼女が持っていた小さくて透き通っている自信を、スリザリン生が代わる代わる吹き飛ばしてしまうだけで。


「ニナ、目を閉じて、それから私の声だけ聞いてね」

「……マクゴナガル、何するつもり?」

「良いから見てて。ニナ、良いわね?」


ニナは何も言わず、黙って頷く。それからダークブラウンの長い睫毛を震わせながら、目を閉じた。


「あなたは魔女よ。素敵な魔女よ。あなたには素敵な友人もいて、家族もいて、先輩にも恵まれている」


ゆっくりと静かに、私は言う。冷たすぎない風が吹き抜けて、ニナの短い前髪を揺らしていった。


「あなたの邪魔をする魔法使いは、ここにはいない。あるのは湖と、私と、メイフィールドと、それからあなた。他には何もないの」


ニナの手が、杖を握る。それからメイフィールドはそろそろとポケットから胡桃釦を取り出して、ニナの前に掲げた。
ニナの肩を叩けば、ニナは目を開ける。きらきらと光っているのは、湖の光が反射しているからだろうか。ニナのダークブラウンの瞳はメイフィールドの手の上にある胡桃釦を真っ直ぐ見つめていて、杖はしっかりと握られていた。
間違ったって、メイフィールドのシャツの釦が妙な色になるだけなのだ。ニナは初めから、何も怖がることはないのだ。少なくとも、スペルミス以外は。
しかし、ふと、私は思い付く。ニナから匂いたつ甘い花が、私を手招きしていた。


「ニナ、花を頂戴」

「え、マクゴナガル、」

「私、花が欲しいわ。金の釦よりも、花が見たいの」


何を言うんだ、とメイフィールドが私を見る。私も自分で、何を言っているのかと思った。目の前にあるものを変化させることも難しいが、無いものを出現させるのはもっと難しいのだ。そしてそれは、一年生の習う魔法ではない。
けれど、それが出来ればニナはどれほど自信を持つことが出来るだろう。ニナがその魔法の凄さを分かっているかは知らないが、ニナの小さくて透き通っている自信はどれほど大きく、確かなものになるだろう。
私はニナを、素敵な魔女と知っていた。優しくて、どこまでも穏やかで、花のような魔女なのだと。
私は、知っていたのだ。


「オーキデウス」


ニナの杖が、宙を掻く。いつかアルヴィ・エインズワース先輩が汽車の中でメイフィールドに見せた魔法を、ニナは覚えていた。一度だって授業に出て来てはいない、その魔法を覚えていたのだ。
ニナの杖の先から、小さな蕾が幾つか現れる。それはぎゅっと身を縮めて、伸びをするように茎を生やし、それから小さな花を咲かせた。ひらひらと落ちてくるそれは私がニナにあげた髪飾りと同じで、白く、可愛らしく私を見つめていた。
私は、知っていたのだ。ニナにはどんな魔法だって、使えることを!


「……出来た、出来たっ!」

「ええ、ええ!出来るわよ、当たり前じゃない!だから言ったじゃない!」

「サミュエル、出来たっ!私、出来るわ、魔法が使えるわっ!」

「う、ん、凄い、ニナ、凄いよ。本当に凄いよ」


目を見開いて驚くメイフィールドにデイジーをひとつ渡しながら、ニナは杖を見つめる。その瞳は今や湖の光を取り込んでしまっていて、内側から灯るように光っていた。
膝の上に落ちていたデイジーを拾って、私はそれを胸ポケットにさす。小さなそれは私を見上げて、満足げな顔をしているように見えた。
メイフィールドが、目を見開いたまま胡桃釦をニナの前に差し出す。ニナはするすると呪文を唱えて、杖先を胡桃釦にこつりと当てた。
細やかな装飾の施された金の釦を見れば、きっと、ダンブルドア先生はハッフルパフに点をあげずにはいられないだろう。


「……私、出来るんだわ、魔法が、使える」


確かめるように、ニナは言う。メイフィールドはニナに金の釦を手渡しながら、目を細めて笑っていた。ニナは受け取った金を見つめ、ダークブラウンの瞳をゆらゆらと揺らし、ふふ、ともらすように笑った。私はそんな彼女を見て、奥歯を噛み締めて頬が緩みすぎるのを堪える。だから言ったじゃない、と。
ただ、メイフィールドのシャツの釦まで金になっていたのは、今は私だけの秘密にしておこう。


「ミネルバ、私、筆記も、勉強するわ、トムに嫌われないように、勉強するわ」

「ええ、そうね。私もあなたに負けないくらい勉強するわ」

「マクゴナガルは誰にも負けてないと思うけれど……」

「私も、私も思う……」


三人で顔を見合わせて、誰かが湖を蹴った。揺れる水面の向こう側に沈むスリザリン生に、ニナの金の釦と、それからついでに変わる予定ではなかったメイフィールドのシャツの釦も投げ付けてやりたかったけれど、私はそれも秘密にして、自ら水面を蹴って揺らした。
それを見たニナのダークブラウンの瞳の煌めきを、ヴァルブルガ・ブラックが見ればいい。私は、そう思った。



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