ハツが朝から両手両足を忙しなく動かして焼き上げたレモンケーキを床に落としてしまうよりも、ダンが毎朝ベッド脇の小さな棚の一番奥から引っ張り出して眺めに眺めてキスをする若い頃のハツの写真を間違って燃やしてしまうよりも、僕はとんでもないことをしてしまったに違いない。
それに漸く気付いたのは、ダンに肩を押されながら家に入っていくニナが、爪先をえらく重そうにしているのを見付けた時だった。


「あ、あの、ニナっ」


ハツに散々抱き締められ、ダンに頬擦りをされ、どこか疲れた顔をしたニナが振り返る。ダンはまるで自分がニナのための召し使いかのように嬉々としてトランクを運んでいき、ハツは杖を片手にダイニングへと吸い込まれるように入っていった。
階段の手摺に手をかけたニナが、僕を見る。明日になれば一層甘く香ばしい匂いがするだろうに、ニナが帰って来たからとハツはアップルダッピーを焼き、カスタードクリームを煮詰めていた。それなのに、ニナの目にはいつもの輝きがない。アップルダッピーもカスタードクリームも、彼女の鼻を撫でているはずなのに。


「その、あんなことして、ごめん」


ニナの目に少しでも煌めきがあれば、僕は決して謝らなかっただろう。それほどに僕の腹の底は焼け焦げて焦げ付いてしまっていたし、今だって喉の奥に真っ黒い煙が込み上げてきている。それでも謝るのは、ニナには笑って貰わなくてはならないからだった。
明日は、彼女が生まれたその日なのだ。


「…………ううん、いいの、イアンは優しいもの、優しいからきっと、何とも思ってないわ」


手摺にかけた手をぶらぶらと揺らして、ニナは首を振る。思わずお腹を押さえたのは、ニナは許してはくれないのか、と、ニナの言葉を受け止め損ねたからだった。
ゆっくりと瞬きをして、ニナは小さく唇を噛む。それから何かを言おうとして僕を見たけれど、言葉を吐き出すことはしなかった。
ニナは、蛙チョコに逃げられたときと同じような顔をして、爪先を見つめていた。


「……ごめん、ニナ」


ニナは短い前髪を撫で付けて、僕を見る。やはり蛙チョコを逃がしてしまったような顔をした彼女は首を小さく振って、それきり口をつぐんでしまったのだった。






「何てことかしら、あの子ってば、今年も忘れているんじゃあないでしょうね」


オーブンとテーブルの間をしきりに歩き回るハツの眉間の皺をダンが見付けたら何と言うだろう。しかし、彼の視線はは先程から逆さまになった日刊予言者新聞とダイニングのソファ、それからテーブルに並んだ朝食と言ってしまうのが申し訳ないほどに豪華な料理の三つの間を、休む間もなく泳ぎ続けていた。


「私のお寝坊さんはいつになったら起きてくるのかしらね。もう直ぐオーブンも仕事を終えてしまうわよ」


シャツの裾に手を隠しながら、僕は俯く。今までの僕ならば、ハツが言い切る前に立ち上がり、僕が起こしてくると階段を駆け上がったことだろう。いや、それよりもずっと先に、ニナを起こしに行っていたはずだ。それなのに僕がそうしないのは、昨夜、ニナが僕の部屋に一度だって顔を見せず、一人きりで朝を迎えてしまったからだった。
朝になり、ニナの寝息が聞こえてこない部屋に僕はどれほど気分が重く深く沈んでしまっただろう。つい昨日まではそれが当たり前だったというのに、本棚の隣にも、僕のベッドの端にもいないニナに頭を抱えてしまった。


「きっと疲れたんだろう。汽車の旅は随分長いものだしね」

「それもそうだけれど……駄目ね、待てないわ。だってもうケーキは魔法で冷えてるし、ローストビーフだって焼き上がるのよ」


美味しくなるように、と振られたはずのハツの杖先が、僕に向けられている気がする。
ちらりとダンを盗み見る。彼はいつの間にか逆さまになっていた日刊予言者新聞をそのまた逆さまにしていて、真っ直ぐ正しい向きになった写真の中の見知らぬ魔法使いは、僕に向かって一度指差し、それから手を振った。
膝を撫で下ろし、根付いたように降り難い椅子からそろそろと降りる。途端にハツは満足げに笑い、何も言わずにオーブンの前に張りついた。やはりあの杖先は、僕に向けられていたのだ。


「……僕が起こしてくるよ」


がさがさと、ダンが何故だかまた日刊予言者新聞を逆さまにして、魔法使いは写真から放り出されてしまった。
ダイニングを出て、階段の前に立つ。ニナの部屋のドアは覗きこむ隙間もなく、音もたてずにぴたりと閉じていた。その中でニナが何を考えているのか、僕は酷く不安でたまらなくて、階段を上る足がいつになく重かった。
微かに匂いたつ部屋の前に立ち、恐る恐る手を伸ばす。ドアノブに触れようとして、一瞬考える。それから、こん、と一度だけノックした。ドアは相変わらず、黙りこんでいる。


「……ニナ、起きてる?」


いつもなら直ぐにでも開けてしまうそのドアを、どうしても開けることが出来ない。
出来る限り、真っ直ぐと震えない声で名前を呼ぶけれど、ニナには聞こえていないのだろう。物音ひとつ響いてこないドアに耳を寄せながら、今度は二回ノックをした。ごとん、と何かが落ちる音がして、頭の中でニナのベッドから本が落ちていく光景が広がった。


「ニナ?」


もう一度だけ、こん、とドアを叩く。ベッドが軋む音がひとつ転がって、ドアの前へとやってくる。けれど、ドアはやはり黙りこんでいて、ニナも応えない。
息をひとつ飲み込んで、指先でドアノブを引っ掻くように捻る。気持ちに反してドアが軽いものだから、無性にそのドアを壊したくなってしまった。


「……ニナ?」


ニナはいた。部屋の真ん中、ベッドに背中をもたれかけて、膝を抱えて座っていた。
ダンと同じダークブラウンの瞳が持ち上がり、僕を見る。それを見た瞬間、僕は思わず喉を震わせた。ニナの瞼は、うすく、涙に腫れていたのだ。
むくむくと、腹の底から僕を窺うように顔を出す。とても真っ黒くて、汚いものだ。それを吐き出してしまえば、僕はたちまち小さな孤児院の一室に閉じ込められていた僕に戻ってしまうのだと分かって、きつく奥歯を噛み締めた。深い記憶の底に沈んでいたはずの孤児院の子供達が、僕が頭をおかしくさせてしまったあの二人が、いつの間にか僕をじっと見つめていた。


「……ニナ、泣いたの?」


それでも、僕は彼等に近寄ることは出来ない。ニナを思い通りにさせるなんて、出来るはずがない。
むくむくと顔を出したそれを見ずに、僕はニナの前に座り込む。膝を抱えたニナは黙って僕の爪先を見つめ、膝を見つめ、それから前髪を見た。そして漸くダークブラウンの瞳に僕の瞳がうつり込んで、ニナは小さく、身動ぎよりも小さく頷いた。
ストロベリーブロンドの柔らかな髪が、瞬きの隙間に揺れている。目をそらしていた真っ黒くて汚いものが、ストロベリーブロンドの顔を覆い隠していくのを、僕は眺めていた。


「……ニナ、僕が悪かったから、」


膝に乗せられたニナの手を撫でるように、自分の手を重ねる。ニナの手が熱く感じるのは、僕の真っ黒くて汚いものが今や身体中を這い回り、熱を食べていくからだろう。あとは、それが腹の底から這い出て、喉を通るだけだった。
ニナのダークブラウンに、僕がいる。微かに赤く見えたのは、どうか気のせいであって欲しい。


「ごめんよ、ニナ、お願いだから、どうか僕を許して」


まるで子供が母親にすがるように、僕はニナの手を握る。いつもは生温く混ざる体温が、今は薄い膜の壁があるかのように、混ざらなかった。
まるで、僕の心を見透かして、ニナが僕を拒絶しているようだ。


「……どうして」


僕がひそりと隠しているものを見付けたかのように、ニナは呟く。薄らと濡れたダークブラウンが、何かを渦巻いているが、それが何なのか僕には分からない。甘いミルクが飲みたいだとか、新しく買ったワンピースを見て欲しいだとか、ニナの口から言葉になって溢れ落ちるより先に見えていたものが、今は何も見えないのだ。手だけではなく、彼女は全てを薄い膜の壁で覆い隠してしまったのだろうか。
僕は、あんな奴、と、思えてしまって仕方がないのだ。謝るつもりなんてもの、睫一本分だって、持ち合わせていないのだ。
だって、ニナは、僕のためにそんなに泣いてくれるだろうか。


「どうして、トム、どうして」

「…………僕、」


真っ黒くて汚いものが、僕の持つ真っ赤な瞳をどこからか引きずり出して、それをくわえこんだ。小さな丸い赤が僕の揺らめきを感じ取って、むくむくと大きくなっていく。
喉の奥が、ひりひりと痛い。怒りとも悲しみとも違う、決して気分の良くないものが、長く細い針になって張り付いていた。


「どうして、」


とうとうそれを吐き出してしまいそうになった僕に、ニナは気付いたのだろうか。
ニナの手が、僕の手を握ろうとして、けれど怯えるように僕から離れ、彼女の小さなその手は彼女の顔を覆ってしまう。ニナの長い、ダークブラウンの睫が震えていた。


「どうして、おかえりって、どうして言ってくれないのっ……」


ダークブラウンの先がふるりと震え、小さな滴が光る。
ニナは、泣いていた。


「……え、」

「私が、私が帰ってきても、トムは嬉しくないの?おかえりって、言ってくれないもの、一度だって、笑ってくれないものっ……」

「待って、ニナ、違うよ、待って……」

「私、とっても、本当にとても、会いたかったのに、トムに会いたかったのに、なのに、トムは私を、私を迎えてくれないから、」


思わず、ニナの手を掴む。覆われていた瞳が僕を覗いて、途端にぽろぽろとニナの瞳から滴が三滴も溢れ落ちていった。
頭の中は、季節が瞬く間にいくつも駆けていったかのように荒れ果てている。何もかもを吹き飛ばしてしまいそうな風が、その通り何もかもを吹き飛ばしてしまって、真っ黒くて汚いものも、長く細い針も、そしてストロベリーブロンドでさえも、僕の中から消えてしまった。
ニナの手を掴んだ僕の手が、生温く溶けていく。ニナの睫が、大きく揺れた。


「……僕、言ってなかった?」

「い、言ってない、言ってくれなかったわ」

「そっか、僕、そうか、」


息を吐けば、それは星となって消えていく。そんなことあるわけがないが、それでも今の僕にはそう思える。これを他の誰かは、きっと気味悪がることだろう。眉をひそめて、ミセス・コールのように、僕を遠ざけるだろう。
けれど、ニナのダークブラウンの瞳には、見えるのだ。そうして僕に、とても綺麗だと、笑ってみせるに違いないのだ。


「ニナ、ごめんね、僕が悪かったんだ」


星を吐くよりもずっと楽に、言葉が出てくる。
ニナの手を引いて、背中に腕を回す。それからニナの肩に顎を乗せて、僕は天井を見上げた。
僕は、他でもない自分に、真っ黒くて汚いものを塗り付けていたのだ。ストロベリーブロンドでも、他の誰でもない、僕自身に。
そして、ニナは僕のたった一言が欲しくて爪先を見つめていたのだ。


「おかえり、ニナ。会いたかったよ。僕は、本当に、君に会いたかった」


背中を撫でれば、ニナは僕の肩に額を擦りよせ、小さく頷いた。今まで感じたことの無い何かが爪先から頭の天辺を満たして、僕の中で渦を巻いている。それを何と呼ぶのか、僕には分からない。ひとつだけ分かるのは、それはこの先、ニナだけが僕に与えることが出来る何かなのだということだった。


「おかえり、ニナ。それから、誕生日、おめでとう」


拗ねたのか、満足したのか。ニナは黙って僕の肩に顔を押し付けるだけで、何も言わない。けれど、確かにそこにあった薄い膜の壁が消え去った今、僕は彼女の返事を吐き出させる必要は睫一本分たりとてありはしないのだ。
ニナの髪に落ちてきた、白い花を捕まえる。昨日枯らしてしまった花の代わりにそれをニナの髪に飾って、僕はニナの髪を撫でた。
ダークブラウンのなめらかなそれは、いつもの花の匂いが座っていた。



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