「おい、もういっぺん言ってみろ」


たまたま虫の居所が悪い時がある。朝だというのに霧がかって窓の向こうが見渡せないように、そういう時は霧がすっかり晴れるまで気長に待つものだ。例え気が短くて、霧の向こうまで景色を迎えに行こうとするのが自分の常だとしても、待たなくてはならない時があることくらいは知っている。母親と父親のどちらがお互いのことを愛しているかだとかいうくだらない争いや、そんな時に姿くらましをするかのように息も姿も消してドアの向こうで機嫌を悪くする弟にも、いつだってヒッポグリフの綱をしっかり握るように落ち着いて気長に事が収まるのを待っていた。


「……わ、るかったよ、今のは俺が言い過ぎた。だから、ほら、兎に角食っちまおう」


一度だって本物を見たことが無いからか、頭の中にいるヒッポグリフはインクで出来ている。そいつをしっかり捕まえて、大きな匙たっぷり三杯分の蜂蜜をかけたオートミールを差し出して、今にも暴れだしそうなヒッポグリフをどうにか引っ込めた。
俺とは違い、癖のあまりないチョコレートのようなダークブラウンの前髪の下から、髪と同じ色をした瞳が覗いている。クィディッチの練習に無理矢理付き合わせておきながら、嵐のような雨が降ってくるなり自分だけさっさと箒で城に戻ってきてしまった時に、見たことのある目付きをしていた。
ヒッポグリフを捕まえる気なんて、端から無いという目付きだ。


「良いから言ってみろ、もういっぺん、言ってみろよ」

「……ニック、悪かったって、本当に悪いと思ってる。心にもないことを言っちまったんだよ、なあ、」

「つべこべ言い訳すんじゃねえ!さっさと言いやがれもじゃもじゃ赤毛!」

「んだとてめえ!言ってやるよ!ああ言ってやるとも!スペイン魔女みてえな味覚しやがって!今にその腹にマフィンみてえな肉がつくからな!」

「俺のどこに肉がつくって!?この役立たずシーカーが!」

「それは言わない約束だろうニコラス!?」


目の前で自分にしか見えないインクが飛び散ったのは、俺がヒッポグリフの手綱を離したからだった。
わ!とダークブラウンの魔法使い、ニコラスに飛び掛かれば、両隣のテーブルから悲鳴ではない声があがる。手拍子をしながら俺達の名前を交互に叫ぶのはグリフィンドールで、呆れたように大きなため息を吐くのはレイブンクローに違いなかった。


「謝れよ!」

「お前が謝れ!」


掴めばするりと逃げていきそうな艶のあるダークブラウンの髪を必死に絡めとって、指に巻き付け引っ張れば、ニコラスは耳を掴み引っ張りあげてくる。思わず顔が引きつったが、今更止めてくれとも言えず、負けじと脛を蹴りあげた。
もじゃもじゃ赤毛の役立たずシーカーは、これでもやる時はやるものなのだ。


「くそニコラス!豚になる呪いかけてやる!」

「言ったな!じゃあ俺は役立たずシーカーを箒で飛ぶより速くぶっ飛ばしてやる!」




「まさか本当にぶっ飛ばされるとは……」


もじゃもじゃ赤毛の役立たずシーカーは、どうやらやる時もやれないらしい。
新学期早々これ以上騒ぐなら外でやれ、新入生に示しがつかない、と言い出したレイブンクロー生を思い出しながら、足元に絡み付いたように引っ掛かる木の枝を逆さまに見上げる。言葉通り箒よりも速く、そして遠く、湖の側までぶっ飛ばされてしまい、足が引っ掛かり木から降りることも出来ない。頭に血がのぼらないよう時おり身体を起こして足に絡まる木の枝を引っ張ってみるが、どうにも俺はこの木に好かれたらしく、引っ張れば引っ張るほど絡み付いてくる。


「がああっ!無理!何だこれ!」


腹の筋肉がもう無理だと震えたので、諦めて逆さまにぶら下がる。長針半周分はここにぶら下がっているというのに誰も探しにこないのは、きっとニコラスが未だに頭の中のヒッポグリフ共々暴れているか、あまりに機嫌が悪いせいで関わりたくないからだろう。
どちらかと言えば感情を表どころか全身に出してしまう俺に対して、レースよりも薄い白い膜に透かして見える程の感情しか見せないのがニコラスだった。笑うときは笑うし、怒るときは勿論今このようにぶっ飛ばされてしまうのだが、それでもニコラスが分かりやすく感情を出すことはあまり無い。見る目なんてものをどこかに落としてきた周りの魔女達はそれが紳士的なのだと言うが、俺からしてみれば周りを笑わせ、気遣い、何事も然り気無く振る舞えている自分の方がよほど紳士的な魔法使いに思える。果たして、本当にそんな振る舞いが出来ているかは別として。


「…………さて、どうするか」


逆さまにぶら下がっているせいでひっくり返ったローブが、顔を隠してしまう。血が上ってきた頭を限界の近い腹筋を使ってどうにか起こし、ローブのポケットを探ってみる。逆さまにぶら下がり、ひっくり返ったそこにしがみついていられるものを、俺は持ってはいなかった。
地面を見下ろすと、真下にヌガー、その側にキャンディ、キャンディから杖一本分離れた場所に先の曲がった羽根ペン。それから、そんな羽根ペンから箒一本分の場所に、俺の足にしがみついて離れない枝によく似た杖が落ちている。ポケットの中身は全部丸ごと地面にばらまかれていた。


「アクシオ!……無理だな!無理だ!分かってたけど!」


意味はないと思いながら試しに呼び寄せ呪文を唱えてみるが、視線の先に転がっている杖は返事すらせずにそっぽを向いている。足に絡まる枝をどうにかしないことには、降りられないようだった。
気のせいだとは思うが、ますます細い腕を絡ませて逃がすまいとしがみついてくるように見える枝を見つめて、ため息を吐く。誰でも良いから知り合いが通りやしないかと思ったが、何せ湖の側である。わざわざ通りがかるには少しばかり遠過ぎた。


「…………おっ、と?」


ニコラスに聞こえるよう大きな声で謝罪の言葉を叫ぶしか無いのだろうか。そんなことを考えていた時、不意に落ちた葉や枝を踏みしめる音が聞こえて、視線を動かす。
逆さまに見えるホグワーツ城から、小さな影がゆっくりやってくる。木に触れたり、地面を眺めたり、それから時おりスカートの裾にくっついた何かを払うようにしながらやって来たその小さな影は、つい先日の夏休み明けに入学してきた新入生のものだった。
組分けの儀式のため、ダンブルドア先生に従ってぞろぞろと大広間へと入ってきた小さな群れを思い出す。小さな影が持つダークブラウンの髪と、魔女が羨むだろう大きすぎない小さめの鼻を持つその幼い魔女は、確か弟の直ぐ前を歩いていた魔女だった。


「…………うちの寮だったのか」


目を凝らして、首もとのカナリアイエローを探し当てる。残念なことに弟はレイブンクローになってしまったが、彼女は俺が可愛がるべき後輩になっていたらしい。
それにしても、まだ入学して間もない新入生が城の中を探検するのは分かるが、城の外を出歩くにはまだ早い気がする。ゆっくり、そろそろとやってくるその姿は、スカートの裾に小さな違和感の粒をぶら下げながら歩いているように見えた。しかし、それでも違和感の粒の持ち主が、誰でも良いからの中にしっかり含まれている誰かに違いない。
ぐ、と身体を起こして、ぶるぶると限界を告げる腹を右手で押さえ、左手で足に絡まる枝を掴む。足から離そうとすればきつくしがみついて離れないくせに、身体を起こすために支えにしようとすれば途端にみしりと嫌な音を立てるのだから、こいつは暴れ柳のように意思があるらしい。


「マルフォイ、マルフォイなんて、嫌いっ……」


思わず飛び出しそうになった舌打ちを、そうっと飲み下す。みしりと嫌な音を立てて俺の手を払おうとするくせに足は離さないそいつをひと睨みして、彼女に視線を移動させる。ダークブラウンの長い髪を揺らしてやってくる彼女の小さな唇は、真冬のように震えていた。違和感の粒が、俺を見つめている気がした。


「あー……、」


どうしたんだ、と、何があった、と、話しかけるべきなのだろう。それで、杖をひと振り、小さなキャンディやカナリアイエローによく似合う花を出しでもすれば、あのダークブラウンの瞳はきっと嬉しそうに光るだろう。
ローブのポケットに手を突っ込んで、地面を見る。ヌガー、キャンディ、先の折れた羽根ペンに、それから杖。あのダークブラウンを光らせるための物は、全てローブのポケットの中から落っこちていた。


「……だ、誰か、いるの……?」


このままではどうしてやることも出来ない。むしろどうにかしてもらうことしか出来ない。そんなことを考えていれば、先程のうなり声のような俺の声が聞こえていたのだろう。
は、と慌てて息を止めて、彼女を見る。木の向こうにいる彼女はまだ俺を見付けておらず、不安そうに眉を下げて辺りを見回していた。ここで杖を取り出そうとしないのはやはり新入生らしく、空いた両手はふらふらと漂っている。
小さな手が、木に触れて、そろそろと寄りかかる。今にも泣き出しそうなその顔に、小さな小さな弟が重なった。俺のことを好いていて、一人で歩けば転んでしまいそうなほど、頼りない頃の弟だ。


「……あ、」

「あ、」


俺よりも少し長いくすんだ赤毛が消えて、木陰からダークブラウンの瞳が俺を捕まえる。
咄嗟にとった行動は、ぶら下がったままローブで顔を隠すことだった。


「……だ、だあれ?」

「……だっ、誰でもない!」

「…………どうして、どうしてぶら下がっているの?」

「ぶっ、ぶら下がってない!」


弟と重なったからだろうか。新入生で、それも同じ寮の後輩だからだろうか。途端にこんな状況を見られたことが恥ずかしくなり、必死に顔を隠す。
そんな俺が怪しく思えるのは、仕方のないことだろう。彼女は落ちた枝を踏みしめながら足音を近付かせ、はたと立ち止まる。そろりと隙間から覗き見た彼女は、俺の直ぐ真下から俺を見上げていた。
丸い瞳が、ゆらゆら揺れている。長い睫毛で覆われたそこに情けなくぶら下がる自分がいるのだと思うと無性に叫び出したくなって、ローブの中でそっと顔を手で覆った。


「…………えっと、……あの、」

「誰でもない!ハッフルパフなんかじゃないからな!ぶら下がってるわけでもないから!これが普通、俺の、真っ直ぐ!」


何という子供騙し。従順過ぎるせいで問題を起こすとも言われている屋敷しもべ妖精ですら、疑いの目を向けるに違いない。


「……真っ直ぐ、それが、真っ直ぐなの?凄い、逆さまなのね、私とは、正反対なのねっ!」


そして彼女は、そんな屋敷しもべ妖精よりも従順で、素直に違いない。
ダークブラウンの瞳を大きく開いて、瞬きをふたつ。きらりと飛び散るように光が弾けて、彼女は俺をまるでおとぎ話の絵本から飛び出してきた生き物を見つめるような目で見上げてきた。
思わず、ローブの中でまた顔を手で覆う。咄嗟に吐き出した嘘の幼稚さや、そんな幼稚な嘘のせいで、俺が本当はただの足が引っ掛かり身動きの取れない上級生だと知った彼女が残念がることを想像すると、初めてのクィディッチの試合で箒から落っこちた時のように恥ずかしくなってしまった。


「あなたはなあに?ゴースト?ゴーストなの?私、まだゴーストに会ったことないの」


そんな俺の恥ずかしさなんて、ローブの中にすっかり隠れて見えやしない。瞬きを繰り返して光を弾かせる彼女は嬉しそうに俺を見上げながらその場で足踏みをして、興奮を飲み下そうとしている。こつんとヌガーが蹴飛ばされたが、彼女はそれすら気付かないほど俺だけを見つめていた。
ゆっくりゆっくり、黒い霧が立ち込めてくる。俺にしか見えないその霧は、彼女を無駄に期待させてしまったことへの罪悪感に違いなかった。


「……俺は、ゴーストじゃ、ない、ぞ」

「…………違う、の?」

「……あー、その、俺、」


早いところ謝って、この状況を何とかしてもらうべきだ。下手に意地をはらずに、さっきのことは咄嗟に出た嘘なのだと。まさか、そんな嘘を信じるとは思いもしなかったが。
口を開いて、ローブの中から彼女を見下ろす。長い睫毛が下を向いて、視線は爪先に落っこちていた。
今にも、泣き出しそうな、弟の顔だ。


「お、俺!ゴーストじゃなくて、そのー、ほら、あれだよあれ!水魔!」

「……水魔?」

「の!守り人だ!」

「守り人、……水魔の守り人っ」


そんな顔を見せられてしまったら、もう嘘を吐き出すしかないではないか。
アルヴィがいたら、きっと直ぐ様膝をつき、彼女の手をとることだろう。妖精が羽を開くように笑った彼女を見て、これは仕方のない嘘なのだと自分で自分を納得させる。
すい、と持ち上がった瞳が、揺れる俺のローブを捕まえる。感心したように見上げてくる彼女に、中を覗かれてはたまらないと慌てて口を開いた。


「そっ、それより、どうした?どうしてこんなところにいるんだ?」

「……えっと」

「まだ一年生だろ?迷子にでもなったらどうするんだよ。一人でこんなところまで来たら危ねえぞ」


弟と重なったからだろう。兄にでもなった気分で、俺は逆さまになったまま得意気に注意する。これが杖片手に、逆さまの逆さまならもっと格好がついたのだが、杖はヌガーと一緒に転がっているし、何せ今は水魔の守り人なのだから仕方がない。
しかし、彼女は何故だかまた視線を落っことした。爪先にまっ逆さまに落ちていったそれにローブの中でひとり慌てる。彼女の視線が泳ぐには狭過ぎる爪先の上を行ったり来たりして、それからきゅっと唇を噛んだのを見て漸く思い出した頃には、小さな違和感の粒をぶら下げて、唇を震わせていた彼女が戻ってきていたのだった。


「……とっても、とっても嫌な子がいるの」


やってしまった、と頭を抱えたときにはもう遅かった。
観客席から飛んでくる棘しかない言葉に我を忘れているうちに、レイブンクローカラーのマントが目の前を横切っていったのは、確か去年のことだった。誰かが俺の名を叫んでるうちにスニッチが俺ではない手の中に収まったように、頭を抱えた頃には後悔しかない。逆さまの視界の中でスニッチのように小さく丸まってしまった背中を見下ろして、思わず目を閉じた。ああ、何てことだ。こんなことだから弟にも好かれないんだ。
目を開くと、小さな背中が膝を抱えて揺れている。微かに鼻をすする音が聞こえて、また頭を抱える。


「……帰りたい」

「……そんなこと、言うなよ」

「お家に、トムのいるお家に、帰りたいっ……」


彼女のスカートの裾に、行き場のない感情の渦がべったりと引っ付いている。それを彼女も感じているのだろうか。小さな手でスカートの裾、それからローブの裾を払いながら、地面の上に座り込んでいた。
逆さまの彼女を、黙って見下ろす。無性に胸の辺りがざわめくのは、彼女が小さく丸まったからだろうか、弟と重なるからだろうか。彼女の訴えが、血がのぼり始めた頭に入り込んで抜け出せなくなる。ローブの中からそろりと彼女めがけて手を伸ばしてみたが、届くことはなかった。


「……家は、そんなに楽しいか?」

「……トムが、いるもの。トムがいれば、楽しいもの」

「けど、ここにいれば魔法が使える。箒だって乗れるし、魔法史、は楽しくないけど、闇の魔術に対する防衛術とか、もう習ったか?」

「…………まだ」


ダークブラウンの丸い瞳が、ふわふわと浮かんでくる。もう爪先に沈めまいと、俺は慌てて話を続けた。


「初めはつまんねえけどな、だんだん面白くなってくるぜ。他の授業もさ、天文学とか、魔法薬学とか、家にいたら気付かなかったこととか、沢山学べるんだ」

「……でも、でも私、」

「でもじゃねえって、な!家になんかな、休みになれば帰れるんだ。でも、ホグワーツはたったの七年しかいられないんだぞ?七年なんかな、庭小人の髭みてえに短いんだぞ?」

「に、庭小人、見たことない……」

「奇遇だな!俺もだよ!」


ローブの中で、にっと笑ってみせる。彼女にはそんな俺なんて見えやしないが、それでも何かは伝わるものらしい。ふわふわと浮かんでいた瞳がほんの少しだけ笑んで、頬がローズミストに染まる。
感じたことのない満足感が、指先、爪先からのぼってくる。逆さまだからだろうか。血がのぼっているだけだろうか。のぼってきたそれは胸のまん真ん中に集まって、彼女の頬のように染まった気がした。


「……もう少し、私、もう少し、頑張ってみる」

「おう。それは良い選択だ」

「…………頑張るから、見てて、見ててくれる?守り人さん」


いつの間にか膝を抱えて俺を見上げていた彼女が、ことりと首を傾げて訊ねてくる。こんなこと、一度だって弟にされたことがあっただろうか。俺が覚えているのはドアの向こう側から俺を睨み付けるように見詰めてくるグレーの瞳、ただそれだけで、何故だか口の中が酸っぱく感じた。
ローブの中で、もう一度手を伸ばしてみる。ゆらゆら揺れたローブの隙間から、彼女は俺の手を見付けたのだろう。ゆっくりと立ち上がった彼女は小さな手で俺の手をそっと捕まえて、瞬きをした。彼女の長い睫毛から、花が散った気がした。


「見ててやるよ。お前がこのホグワーツを楽しんでるか、見ててやる」


ぎゅ、と手を握られて、ゆるく握り返す。年下の女の子というものは、こんなに小さな手で何を掴めるというのだろう。朝にかけた呪いが夕方にはとけてしまうように、不思議でならない。
そろそろと離れた小さな手が、ダークブラウンの短い前髪を撫で付ける。ひょこりと俺を見上げるその前髪を俺も撫でてやりたいと思ったが、彼女は唇を噛んで一歩下がる。それからこつんと爪先を鳴らして、それが合図だったかのように彼女はまた頬を染めた。


「守り人さん、私、私ね、ほんの少しだけ、此処に来て良かったと思えたわ」

「おう、そっか」

「約束よ。きっと、約束。私のこと、見ててね。見ててくれなきゃ、嫌だからね」


彼女は笑わない。笑わないが、瞳は大きく光っている。妖精の羽の煌めきをめいいっぱい詰め込んだその瞳は、もう何もぶら下げていない。
首もとのカナリアイエローを撫でて、彼女は踵を揃えて姿勢を正した。それから思い出したように襟を直し、スカートとローブの裾を払い、一度瞼を下ろす。
上がった瞼の下から現れたのは、初めてホグワーツ城を前に息を飲んだ俺と同じ瞳だった。


「ありがとう、守り人さんっ」


私、きっと頑張れるわ。
大きな笑みではないものの、彼女はそう言って小さく笑う。今でも俺を水魔の守り人だと信じているのか定かではないが、彼女にとってそんなものは掴んだ瞬間指の上で溶けだしたチョコレートのようにどうでもいいものなのだろう。舐めてしまえば済むように、気にしなければ済むものだ。
かつん。踵を鳴らして、彼女は最後に背伸びをする。捕まえたのは俺の手首で彼女はぐっと首を伸ばして俺の指先に触れた。


「またね、守り人さんっ。いつか、いつか湖を案内してねっ」


何でも無かったかのように手を離し、彼女はひらりとスカートの裾をはためかせ、俺から離れていく。彼女がたっぷり瞬き三回分俺を見詰めて、夢の中へ飛び込むような足取りでかけて行くまで、俺は何も言えずにぶら下がっていた。


「…………嘘だろ」


血が、雨のあとのテムズ川のように流れてくる。どんどんどんどん頭に流れ込んできたそれをどうすることも出来ない俺は、知らぬ間に緩んでいた枝にも気付けなかった。
ローブの中で、本日何度目かの頭を抱える。ふ、と額に触れた右手の指先を慌てて離せば、途端に体が浮遊感を覚え、あ、と思う間もなくまっ逆さまに地面に落とされた。


「い、ってえ……!」


思いきり打ち付けた腰と背中を擦りながら、地面に転がる。咄嗟に掴んだのは地面に放り出されたまま黙って事を見詰めていたヌガーで、俺はそれを握り締めながら手を見つめる。
ヌガーを掴んだその手は、指先は、彼女の小さな唇が触れたのだった。


「なんっだよ、あの可愛い魔女はー……!」


城に戻ったら、謝ろう。ニコラスに、直ぐ様謝ろう。それから彼にぶっ飛ばされた後に何があったのか、杖の先から尻まで話すのだ。もじゃもじゃ赤毛の役立たずシーカーが、どれだけ素晴らしい木の上の時間を過ごしたか。
ヌガーをローブのポケットにしまいこみ、キャンディを拾い上げ、それから羽根ペンと杖を取る。俺は水魔の守り人に使われるのか、と杖がくだらない嘘を咎めているような気がしたが、黙って全部ポケットに放り込んだ。
ローブについた汚れを払い、首もとのカナリアイエローを整える。だらしなく出ていたシャツはそのままに、彼女の真似をして踵を揃えて立ってみた。
此処から見えるホグワーツは、なかなかに大きい。小さな彼女には、もっと、大きく見えたことだろう。


「っし、今年こそ!優勝するぞ!」


ばさばさと、森梟が驚いて飛んでいく音を聞きながら、大股で歩き出す。頭の中は、ニコラスにどう話し出すかでいっぱいだった。

それから彼女、ニナ・ラヴィーと仲良くなるまでそう日は掛からないことを、この時の俺はまだ知らない。


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