「いいこと?サミュエル、アンドレには秘密の魔法を教えてあげるから、もうそんな顔をしないのよ」


ボーバトン出身の魔女は皆、ワルツを踊る直前のような足取りで歩くし、自分に声をかけてくる無礼で無知な魔法使いはどんな顔をしているのかしらと上から見下げるような視線で見るのだと、父さんは言っていた。


「に、兄さんには、秘密……?」

「ええ、アンドレには秘密。私とあなただけのとっておきの秘密よ」


フランス訛りの呼び名で兄さんの名を呟いて、そっと指先を僕の唇に当てた母さんはまさしくそのままその通りで、つんとわざとらしく上に向けた鼻先の下で唇を薄めて笑い、扉の後ろに僕を引き込むその足取りは弾むように軽いのにゆったりとしていた。
母さんの短くよくしなる杖が、僕の目の前に差し出される。良いのか、と戸惑う視線を送ったのは、いつも泣く度に魔力を暴走させては叱られ部屋に閉じ込められていたからで、決してその秘密が嫌だったからではない。むしろ僕は誰からも好かれる兄さんだって教えてもらえない秘密を知れることが嬉しくて、扉の後ろに隠れることすら我慢ならないほどだった。


「さあ、杖を握って、そうしたら優しく振るの。マカロンを作るよりもずうっとね。ドラジェをつまむようによ。そう、そうよ、とても上手」


母さんの手の中にあるうちは短く見えたそれが、僕の手に移るとたちまち長くなる。上から重ねられた母さんの手に合わせて杖を振れば、どう見たって下手くそな僕の振り方を褒め、ふ、と耳元で小さく笑った。
上の階から、ずしん、と低い物音が響いて、父さんの怒鳴り声がそれを追いかけていく。雷鳴のように大きくて低い怒鳴り声を物音の持ち主は恐れることなく、稲妻のように早い足音をたてて階段を下って玄関を飛び出していった。転がるような、げらげらという笑い声と一緒に。


「サミュエル、ようく覚えておいで。この秘密はとっておきの秘密なんだから、滅多に使わないことよ」

「どんな魔法なの……?」

「そうね、まずこの魔法はとても繊細で、恐ろしいもので、だけれど貴方の大きな一歩になるものなの」


僕の手から杖を引き抜いて、母さんは一人で振ってみせる。杖先から水や光が零れるでもないそれに何の意味があるのか分からない僕はただ黙って、母さんのつんと上を向き気味の横顔を見上げていた。
自信に溢れているとは、きっと母さんのような魔女のことを言うのだろう。今朝の日刊預言者新聞の一面に載っていた傾国の魔女と呼ばれたスウェーデンの魔女よりも、母さんは綺麗に笑ってみせた。


「今の若い魔女なんかは好きな人を振り向かせるために使うけれど、これはね、上手くいけば本当はもっと特別な魔法になるの」

「……上手くいかなかったら?」

「何にも。どうにもならないわ。ああでも気を付けて、ほんの少し、あることをすると綺麗に光ってしまうのよ」

「…………光るんだ」

「ええ、光るわね。でも、あることをしないとそのままだし、しても綺麗に光るだけ。だからそんなに不安そうな顔をしないで、平気だから」


僕を安心させるように瞳をきゅっと細め、母さんは僕の髪を撫でる。僕よりもずっと白くて日差しを浴びる度にきらきらと光る母さんの肌が、日差しを浴びてもいないのにきらきらと光っていた。これは、その特別な魔法を失敗したからなのだろうか。


「貴方がいつか、本当に必要な時に使いなさい。そうじゃないと、きっと後悔することになるわ」

「……うん、分かった。それで、どんな魔法なの?」

「これはね、これは……」


父さんが贈ってくれたのだというカーマインで縁取った唇からぽろりと静かに落ちてきた言葉を、僕は一生忘れることはないのだろう。

魔法薬学の教室よりも鼻の奥がつんとする匂いに包まれながら、僕はベッドの上で寝返りをうつ。まるで見えない何かが瞼を押さえつけているかのように瞼が重くて、目を開けることが出来ない。それでもどうにか瞼を持ち上げて見えたものは、サイドテーブルに置かれたベリー色のキャンディーだった。


「…………授業、出たく、ないな」


くすんだ赤毛の前髪を引っ張って、ベリー色を隠してしまう。そのまま枕に顔を埋めて目を閉じれば、真っ暗闇の瞼の裏で僕を手招きする眠気がそこにいて、僕は何も考えずそれを追いかけた。
眠りに落ちる前に、医務室の外、廊下の先、ずっとずっと遠い場所から、笑い声が聞こえた気がした。だから言ったのに、と、僕を笑う、その声が。


「……消えたい、」


瞼の裏の真っ暗闇の中で、カーマインの唇だけが浮いている。兄さんにも秘密のその魔法は失敗したはずなのに、僕の周りから何もかもを奪っていったのだった。






「ニナ、いい?次の変身学では絶対に成功させるわよ」

「……うん」

「あああ、落ち込まないで、落ち着いてやれば大丈夫よ。心配することはないわ」


ミネルバの白くて細い指先が、慰めるような手付きで私の肩を手繰り寄せる。ハシバミの鞄を抱えた私はミネルバの方へと一歩分歩み寄って、いつもより小さな歩幅で歩く彼女の隣をふわふわとした足取りで歩いた。
瞬きをすると、金に変わらず黙りこんで私を見上げる銀の針と、ボタンに変わらずころころと転がるだけのクルミが睫毛の先で揺れる。カナリアイエローのリボンをミルクの色に変えることは出来たけれど、それは本当はユニコーンの子供の鬣のように真っ白になるはずだった。


「私、魔法って、魔法、苦手だわ……」

「何言ってるのよ、魔女なのに。それに、全く出来ていないわけじゃないんだもの、コツを掴めば出来るはずだわ」


貴方って、むらがありすぎるのよね、きっと。
そう言いながらミネルバは私の肩をぎゅっと抱き寄せて、最後に肩から肘を撫でて手を離した。そんなものだろうか、と思いながらずっしりと重たい爪先を見つめて、やはり、そんなものなのだ、とひっそり頷く。もうずっと、爪先は重いままだった。


「ねえ、今から私と何処かで練習しない?ついでにレポートもやり直したいし、今日学んだことももう一度教科書を見ながら確かめたいし……」

「や、やり直すの?どうしてやり直すの?」

「えっ?どうしてって、どうしてそんなことを訊くの?」


重かった爪先のことを忘れて、ミネルバと見つめあう。彼女の瞳の中には目を丸くした私がいて、私の瞳の中にも目を丸くした彼女がいるだろう。
ふ、と先に笑いだしたのは、バレンタインを知らない私を見たときのように肩を震わせはじめたミネルバだった。


「も、もう、止してっ、そんな目で見つめないでっ……!」

「だっ、だって、だってミネルバがっ、ふふふっ」

「私のせいにしないで頂戴っ、ニナが、ニナがっ、あははっ!」


不思議そうに私達を振り返る生徒の視線も気にならないのか、グリフィンドールの上級生がミネルバの隣を通り過ぎていったその時、彼女はとうとう膝をおり、その場にしゃがみこんでしまった。くつくつと蓋の閉まりきらない大鍋が沸騰しはじめたような笑い声を漏らすミネルバは、ローブの裾が汚れることも頭から抜けてしまっている。


「ミネルバ、立ってよ、もう、笑いすぎよ、ふふっ、笑いすぎなんだからっ」

「ふ、あははっ、だって、ねえ、もう、ニナったら……!」

「ミネルバ、ローブが汚れるわ、ねえ、ローブが汚れるから、」


いつもは私が言われるはずのその言葉を口にすることが、何となく誇らしく感じる。ほら、と私より背の高いミネルバの手を引いて彼女を立ち上がらせれば、ミネルバはしっとりと濡れた目尻をそっと指先で拭いながら疲れたとでも言いたげなため息を吐いた。それでもそのため息も、指先も、まるでそうでもしないといけないくらいに綺麗なものだったから、やはりミネルバはミネルバで、私を正す側なのだ。私には、あんなに細く綺麗に伸びる魔女のため息を吐くことが出来ない。


「ああもう、嫌だわ。疲れちゃったじゃない」

「知らない、知らないわ、私のせいじゃないもの」

「それはどうか分からないけれど……。それより、ニナ、どうかしら?私とレポート、じゃない、練習する?」


一体どうすれば、そんなに嬉しそうに鞄からレポートと羽根ペンを覗かせることが出来るのだろう。
きっと先生に言われた長さよりもずっと長いそれを鞄に押し戻しながら、ミネルバは私を振り返る。真っ直ぐ伸びた脚をマダムペペの薬を混ぜる手のようにぴんと動かして歩くミネルバの肩に、ほんの少しだってローブの裾を汚す彼女は感じられない。
ハシバミの鞄をきつく抱き寄せるように抱え直して、爪先を上げてみる。数歩遅れて彼女の後を追いかける私の爪先には、ずっしりとした重みが戻ってきていた。


「ううん、あのね、私、ひとりでやるわ」

「……湖の畔はきっと寒いから、賢明じゃないわね」

「平気よ、そこまで行かないつもりなの。あまり寒くない所よ、寒くない場所に行くつもり」

「あら、それって私と図書室へ行っても良いんじゃない?」

「…………だって、ミネルバ、ミネルバはね、目の前で満点のレポートを見せ付けられたことってある?あれってとても落ち込むのよ?」


私、自分のレポートと見比べる度に肩が落ちちゃうんだから。
ぎゅ、と肩を竦めてそう言ってみせれば、ミネルバは一瞬目を丸くして、それから瞬きの後にくしゃりと目を細めた。そのほんの一瞬のうちに、きっと色んなことを考えたのだろう。私を見つめる大きな瞳の後ろに、それでも一緒に、と心配性なミネルバが隠れていることに、私は気付いていた。小さな弟がいる彼女は、弟と同じように、私が心配なのだ。
私の爪先が重いことを知らなくても、その理由だけは分かるだろうミネルバの瞳がぱしゃりと泳いで、私の足元に落ちていく。落ち着かない爪先を隠すように彼女の隣に歩み寄り、それから追い抜いた。


「また後でね、ミネルバっ」

「あ、ええっ、また後で」


これ以上ミネルバの瞳の後ろ側を気にしていると、爪先がどんどん重くなってしまう。まるで深い沼へ引きずり込まれてしまうような重みが怖くて、慌てて逃げるようにミネルバに手を振った。
スリザリン生の群れを横切って、今日は黙りと動かない階段を下っていく。そんなに急いで何処へ行くのかと壁に掛けられた絵の中の魔法使いが絵から絵へと移りながら私を追いかけてきたけれど、私は爪先が沈まないように先へ先へと足を動かす。


「あっ、ラヴィー、何処行くの?そっちはあまりお勧め出来ないけど」

「あの、あの、ちょっとだけ、ちょっとだけだからっ」

「気を付けろよ!ピーブズもいたからな!」


階段を下りきった先からやって来たイアンとジャックとすれ違い、小さく手を振ってきたイアンに手を振り返す。いつもよりもずっと遅れて後ろを歩いていた藍色はすっぽりとローブのフードを被り、私を見ることも、杖の先を出すこともない。チョコレートの甘い匂いだけが、私を追いかけてきた。
ぐず、と重くなった爪先で、廊下に転がっていた小石を蹴飛ばしてしまう。は、と立ち止まって恐る恐る振り返ると、まだ私に手を振るイアンと、それからそんな彼を放って階段を上っていくジャックが見えて、私は鞄を抱え直した。


「…………ピーブズ、に、気をつけ、なくちゃ」


藍色の彼は、チョコレートの匂いは、いつの間にか姿を消していた。


「……あ、本、」


ほんの少しだけ喉の奥がちくちくとして、そろりと首もとのカナリアイエローを撫でながら視線を落とす。
抱え直した鞄の中に、口に入れるととても苦くて飲み込めそうにない色をした小さな本が入っている。フランス魔女の間で流行るものは石鹸だろうと靴だろうと、本であろうと見た目が凝っていて、苦い苦いそれですら背表紙には花の刺繍がされていた。フランス魔女の魔法は、とても細かいらしい。
本を忘れてきていなかったことに息をついて、蹴飛ばした小石をもう一度蹴飛ばしながら廊下を抜けていく。さらりとした風が額を撫で上げたので顔を上げると、廊下の向こう、終わりに光る芝生が見えて、湖へと抜ける道が見えた。


「……雨が、降ったのかな」


イアンとジャックが気を付けろと言ったのは、この事なのだろう。
雨を吸ってぬかるむ地面を踏みしめて、そろりそろりと爪先を進めていく。瞬きをすると地面の底へと飲み込まれてしまいそうな気がして、思わず手に力が入る。爪先は、重いままだった。
遠くから、甲高い悲鳴と笑い声が響いてくる。それにも顔を上げずに地面に目を凝らしながら、湖へと抜ける道を右に逸れていく。ずっと前に一度だけ、箒の上から見たことがあったのだ。アンドリュー先輩やニコラス先輩達と箒で飛んだあの日、湖への道を右に逸れたその場所に、ヴィーラの靡く髪のように綺麗な芝生が寝転ぶ小さな庭を。
きっと、魔法薬か、薬草学で使う庭だろう。


「わっ、」


スラグホーン先生に訊いてくれば良かったかもしれない。そうしたらきっと、彼はあのヴィーラの髪のような芝生の答えをくれただろう。そう思いながら歩いていれば、不意に踵が何かを踏みつけ、ずるりと右足が滑っていく。慌てて何かを掴もうとして手を伸ばせば鞄が腕の中から滑り落ち、ばらばらとインク瓶や羽根ペン、鞄の底ですっかり忘れられていたラズベリー色が転がり落ちていった。


「わ、わっ、」


尻餅をついてすっかり泥で汚れてしまえば、きっとミネルバは私を叱るだろう。何があったのかと聞かれ、何かされたのではと心配させてしまうかもしれない。小さな弟と重なる私がいくら平気だと言っても、次からは図書室でミネルバの良く出来すぎているレポートを眺めながら羽根ペンを握る羽目になってしまうのだ。
ぐ、と踏ん張って、せめて転ばぬようにと鞄を放り出す。もっと早くそうしていればと思った時には遅く、今度はぐらりと前に体が傾いた。尻餅ではなく、顔が泥だらけになってしまう。
くすくす妖精が、そんな私を後ろから押しているように思えた。


「っ、…………あ、あれ?」


思わずぎゅっと目を閉じて、息を止めた時だった。
ぐ、と細い何かがお腹に回り込んできて、地面に倒れ込む直前だった私の体はぴたりと止まる。くすくす妖精が小さな顔を真っ赤にして、嬉しそうに私の目の前を飛んでいた。小さな彼女は、笑いを必死に、耐えている。
爪先が、重い。転んでいないのに、ずぶりずぶりと沈んでいく。視界の端にうつり込んだプラチナブロンドと深い緑が、私を飲み込んでいく。


「……何やってるんだ、スクイブ」


濡れた芝生の上に、苦い苦い色をした本が転がっている。チョコレートの匂いがした気がしたのは、フランス魔女の細かすぎる魔法がかけられたその本の色がビターチョコレートのようだと漸く気付いたからだろう。
耳元で、空気が揺れる。振り返ってはいけないと思っていても、私は振り返ってしまった。
私のお腹に腕を回していたプラチナブロンドは、心底楽しそうにアイスブルーの瞳で私をすっかり飲み込んだ。


「ま、マルフォイっ……」


くすくすと、妖精が笑う。ジャックの言葉が今になって、真っ赤なインクで頭の中に大きな文字になっていく。
ピーブズもいるから、というその言葉に付け足されたのは、アブラクサス・マルフォイの名前だった。




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