「ニナ、後は僕が片付けるから、ニナはこれを提出してきてくれる?」

「うん、分かった」


小さな二つのガラス瓶の中で、ラベンダー色の液体が揺れる。底が少し焦げてきた大鍋の中にはさらりと揺れる度にぱちぱちと泡を吐き出すガラス瓶の中身がそのまま残されていて、大鍋の向こうからガラス瓶を差し出してきたサミュエルの白い腕に、同じくらい白い湯気がまとわりついた。
春の芝生を古い羊皮紙の中に包んで煮込んだような匂いのするそれを受け取って、私はガラス瓶のラベルに自分とサミュエルの名前を書いていく。いつも愉快そうに腰をおって笑うような文字になってしまうのだけれど、サミュエルは勿論、スラグホーン先生だってそれを笑うことはない。ただ、スラグホーン先生はたまに目を細めて首を傾げることはあったけれど。


「今日は上手く書けた?」

「え?……えへへ」

「……うーん、訊かなかったことにするね。じゃあ、提出はよろしくね」

「うん、任せて、任せてねっ」


余った宿り木の蔓やユニコーンの角の粉末をサミュエルの白くて細い指先が器用に綺麗にガラス瓶に詰めていくのを見ながら、私は立ち上がる。ぐるりと教室を見回せばまだ誰も作り終えていないらしく、あちらこちらから黒い煙やぶすぶすと弾けるへどろのような液体、ユニコーンの角の粉末を入れすぎて色を無くした大鍋の中身が見えて、ほうっと胸を撫で下ろした。一人で作るときはいつも先生の手にはガラス瓶が四つはあるが、サミュエルと組むといつも一番乗りだった。


「スラグホーン先生、あの、あの、出来ましたっ」

「おお、ラヴィーとメイフィールドか。……うむ、今日も一段と良い出来だな。よく眠れそうな快眠薬だ」


何処からか焦げ臭い泡が飛んでくる教室の真ん前にいたスラグホーン先生に、ガラス瓶を二つ差し出す。彼はそれを受けとるなり目尻に皺を寄せて、ガラス瓶の中身を透かすように見つめた。


「片付けたらもう出ても良いぞ。メイフィールドにもそう伝えなさい」

「はい、先生」


こっくりと頷いてみせれば、スラグホーン先生はまた目尻に皺をよせる。ミネルバは彼のことをスリザリンばかり贔屓する、と冷えきって美味しくなくなったクランペットを食べたときのような顔をするが、私はたまに優しく笑ってくれる彼が嫌いではなかった。確かに、あまり点数をくれたことはないけれど。
レイブンクローの女の子が大鍋の底に穴をあけて悲鳴を上げるのを聞きながら、私は杖をふるって大鍋の中身を消し終えたサミュエルのもとへと戻る。彼は直ぐに私に気付き、前髪をかき分けながら私に手を振った。


「どうだった?僕たちの快眠薬」

「あのね、あのね、今日も良い出来だって。それからね、片付けが終わったら教室を出ても良いって」

「そっか。良かった。じゃあ大鍋と、これを片付けたら出ようか」


しゃら、とサミュエルの手の中で揺れたのは、ユニコーンの角の粉末が入ったガラス瓶だった。
放り出していた羊皮紙やアルヴィ先輩から貰った羽根ペンを急いで鞄に詰め込んで、サミュエルと二人で大鍋を持ち上げる。私の左手にかかる大鍋の体重はうんと軽いので、殆どサミュエルが持ってくれているのだろう。
教室の隅の棚に大鍋とガラス瓶を片付けて、もう一度教室を見回す。先程大鍋に穴をあけた女の子が一緒に組んだ男の子に謝りながら大鍋の中身をぐるぐるかき混ぜているのが見えて、それから、教室の一番隅っこ、扉の近くで大鍋の中を覗きこむ赤毛が見えた。赤毛の後ろで、ストロベリーブロンドと藍色が呆れた顔をしている。


「ニナ、行こう」

「う、うん」


ゆっくりと歩き出したサミュエルの一歩後ろをくっついて、大鍋と大鍋の間を通り抜けていく。後ろで快眠薬が煮たつ音がして、何故だか胸のあたりがぞわりとした。
すっと背の高いサミュエルの背中から、視線をずらしてみる。中身が消えた!と叫ぶ赤毛の彼、ジャックにストロベリーブロンドのイアンが額を押さえて、藍色の瞳が私を見た。
そろり。ローブの隙間から、彼の黒い杖がこっそりと覗く。まるでこれから、悪戯の魔法でもかけるように。


「……またな」


綺麗につるりと中身が無くなった大鍋の横を通り抜けたその瞬間、私のローブのポケットに小さく破られた羊皮紙が滑り込む。重さなんてないはずのそれがずっしりと重たく感じて、私は誰にも気付かれないようにポケットを撫で付けた。
前を向けば、先程よりもほんの少しだけ、サミュエルの背中が小さく見えた気がした。





消灯時間の後 談話室の隅のソファーで

トムにおやすみを告げて、赤い日記帳を枕の下に隠しながら、小さな羊皮紙をカーディガンのポケットから取り出す。ミネルバやサミュエルよりも大きくて、私よりはずっと綺麗な文字を撫でて、すん、と羊皮紙の匂いを嗅いでみる。羊皮紙の匂いと、インクの匂いの隙間に、チョコレートの欠片が挟まっている気がした。


「……誰にも、誰にも気付かれませんように」


息を吹けば飛んでいってしまう見えない妖精がいるかのように、私は声をひそめて手を組んでみる。耳を澄ませば小さな八重歯が素敵なジンジャーの赤毛のあの子、ジェインの少し大きな寝息が聴こえて、どうやらこの部屋はもう揺りかごの中らしかった。
そろりとカーテンをひいて、爪先を外に出す。ひやりと冷たい空気の靴が足を撫でていくのを感じながら、床に足を下ろす。部屋の暖炉は、今日は消えていた。
背筋をぴんしゃんと伸ばして歩く女の子二人のベッドの前をそろそろと通り過ぎながら、裸足で部屋を出る。時折部屋から裸足で談話室に出てくる上級生がいたから、きっとおかしなことではないはずだ。その上級生はみんな男の子だったけれど。
穴熊の巣のような細い廊下を抜けて、談話室に出る。誰のものでもないキャビネットに隠れて談話室に誰もいないか見回せば、暖炉から離れた一人がけのソファーに人影が見えて、私は慌ててキャビネットの影に隠れる。


「誰、」


けれど、どうやらそれは何の意味もなかったらしい。
ソファーにいた人影がぱっと立ち上がり、それから声を上げる。思わず耳を塞いだけれどその声は指の隙間からするりと頭に入り込んできて、は、と私は目を瞬いた。
本当に、何の意味もなかったのだ。声の持ち主は、羊皮紙とインクに挟まれたチョコレートの欠片だった。


「あ、あの、」


キャビネットの影から顔を覗かせると、彼、ヒュー・ガーランドが目を丸くして、それからほっとしたように目を細めた。手には、何巻きもした羊皮紙が握られている。それを広げたらきっと、ミネルバのレポートのように長いのだろう。


「お前か……隠れたりするから、違うやつだと思った」

「あ、えっと、ご、ごめん、ごめんなさい、私も違う人かと思って……」

「……まあいいや、ほら、こっち」


薄暗い談話室の隅っこで、彼は小さく手招きをする。マダム・マルキンの店でも買えないだろう談話室に敷き詰められた柔らかな絨毯の上をそっと歩いて、彼の向かい側のソファーに座った。上級生の男の子が、裸足で談話室に出てくる気持ちが分かった気がする。ソファーに座りながら、私は爪先で絨毯を撫でていた。
男の子はみんなそうなのか、飾り気のない真っ暗な夜色のカーディガンを羽織った彼をちらりと見れば、彼はソファーの上で胡座をかいていた。トムにも似合うだろうカーディガンだったけれど、その座りかたをトムがしているところはあまり考え付かない。


「それで、魔法史のレポートは?」


今頃私の日記帳にトムの綺麗な文字でおやすみと書かれているのだろう。ちゃんと椅子に座って日記帳を前にするトムを思い浮かべていれば不意に目の前の彼が言葉を放り投げてきて、私は慌てて受け止める。
魔法史のレポートは、ちっとも進んでいなかった。


「……教科書を探したの、探したけれど、ひと巻き分も書けなかった」

「な?そうだったろ?」

「うん、うん……」


叱られているわけでもないのに胸のあたりで何かが萎んでいくような気がして、思わず下を向く。くすくす妖精が、キャビネットの影に隠れているのだろうか。
そんなことを考えていれば、ずいっと視界に先程彼が握っていた羊皮紙が入り込んできて、私は驚いて顔を上げた。向かいのソファーに座る彼を見ると、彼は何でもないような顔をして羊皮紙を揺らしていて、ん、と顎で羊皮紙をさす。くすくす妖精が、慌ててキャビネットの中に引っ込んでいった。


「ほら」

「え、え?」

「約束。貸してやるよ。眠かったから、字汚ねえけど」


ほら、とまた彼は口にして、ぽん、と羊皮紙を投げてくる。ミネルバのレポートのようにぐるぐると何巻きもされたそれを受け止めれば、萎んでいた何かが膨らんで、お腹の底でゆらゆら揺れる。


「い、いいの?本当にいいの?」

「だって、約束しただろ」

「約束、」


まさか本当に、貸してくれるなんて。
小さく頷きながら、ありがとう、と言えば、彼は別にとやはり何でもないように答える。かさついたそれを少しだけ広げてみれば彼が言っていたように眠たそうな字が羊皮紙の上に寝そべっていて、思わず頬がゆるんだ。
顔を上げると、彼はじっと私を見つめていた。あまりにも真っ直ぐ見つめてくるものだからもしかすると前髪がそっぽを向いているのかもしれないと慌てて前髪を撫で付けたけれど、ミネルバがくれたクリスマスプレゼントは今もうんと働いていて、クリスマス前に比べるとすっかり大人しくなった前髪がそこにあった。


「なあ、約束だから、ちゃんと話してくれるんだろ」

「え、と、マグル、マグルの話……」

「そう、それそれっ!」


どうやら私の向こう側のマグルを見つめていたらしい彼は、私がそれを口にするなり身を乗り出して、背中の後ろから何かを取り出してみせた。
薄暗い談話室の中で、彼が取り出した『スコットランド魔女のロンドン滞在記 満月のようなひと月』の文字がぼんやりと浮かび上がる。金の文字が滑るその本を読む人はいなかったのか、図書室の匂いがした。


「図書室でさ、お前が言ってたメリルボーンを探してきたんだ。そしたらこれが棚の一番上にあったんだよ。昨日借りてきたんだけどさ、分からないことばっかではやくお前に訊きたくて」


まるで喉の奥から何かで押し上げられているかのように、彼は言葉をぽろぽろと吐き出していく。それに驚いて頷くことも出来ずに黙って彼をおろおろと見つめていれば、彼は一層身を乗り出して本を私に手渡した。
チョコレートが、鼻をくすぐる。


「俺、ずっと楽しみにしてたんだぜ、お前と話せるのっ!」


つまらなそうに、イアンとジャックの一歩後ろを歩いていたはずの藍色の彼の瞳の中で、ダークグレーの星がきらきらと輝く。ふるりと震えた睫毛に乗ってそれが零れてきそうで、とても素敵だった。


「なあ、ほら、此処に地図があるんだよ。お前の家ってどの辺なんだ?この大きな建物は?ほら、教えてくれる約束だろっ」


私の手の上にある『スコットランド魔女のロンドン滞在記』を捲りながら、彼はいつのまにかソファーからおり、私の足元に胡座をかいていた。頭の中でつまらなそうに一歩後ろを歩いていた彼が、ぱしゃんと音を立てて消えていく。
彼は本当は、とても、我慢をしていたのかもしれない。


「……あのね、この建物は、これはハロッズって言うのよ」

「ハロッズ……?何だ、それ」

「とってもとっても大きなお店なのよ。中には紅茶も、お菓子も、綺麗な洋服も、何でも売ってるのっ」

「へえ……!そうか、これだけ大きけりゃ何でも売れるよな……すっげえ……」

「それから、それからね、私の家は地図の……ここ、ここよっ」

「おっ、ここか!すげえな、マグルの街のど真ん中だっ!」


藍色の夜の上に、彼のダークグレーの星が瞬く。私は一度だけ鼻を撫でてみたけれど、不思議と頬がゆるんでいた。
ソファーからおりて、小さく折り込まれていた地図を絨毯の上に広げる。母さんが好きなベーカリー、父さんが魔法省へ行くために使っているらしい路地裏のパブ、それから、私が初めて石を投げつけられたあの公園と、トムを見つけた、あの、孤児院。
彼を見れば、私が話し出すのを待っているのか、下唇を軽く噛みながらじっと地図を見つめていた。彼の飾り気のないカーディガンの裾を布団がわりに、くすくす妖精は静かに眠っていた。
イアンもジャックも、きっと彼の瞳の中を知らないだろう。マグルの地図を二人が広げて喜ぶ姿を、私は想像することが出来なかった。


「……それでね、それで、こっちにも大きなお店があって、」


薄暗い談話室の絨毯の上で、ゆっくりと夜が溶けていく。
ヒュー・ガーランドはその夜、瞳の中の星をずっと瞬かせていた。


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