「ニナ、あなたあのセーターはどうするつもり?このまま置いていても、あの分厚さじゃ次の冬まで着れないわよ」

「えっ?ど、どのセーター?どこに?」

「ベッドの脇に置いてあるあのセーターよ、クリーム色の、分厚い、冬用のセーター」

「あっ!忘れてた、忘れてたわ、」


何だって、荷造りを終えた後になって、忘れ物に気付くのだろうか。
詰め忘れないようにとベッドの脇に置いたはずのクリーム色のセーターに、唇がなくてよかったと胸を撫でる。唇があれば、クリーム色には似合わない酷い色をした言葉を私にぶつけていたに違いないのだから。
トランクの鍵をあけて、もう殆んど満腹なお腹にセーターを詰め込む。鍵は、きちんと閉まるだろうか。不安に思いながらトランクを閉めてみれば、思っていたよりもずっと楽に鍵をかけることが出来て、私はまた胸を撫でた。
折角のイースター休暇だと言うのに、私はもっと落ち着けないものなのだろうか。


「ありがとう、アン、忘れるところだったわ」

「良いのよ。それより、早く行かないといけないんじゃない?」

「う、うん、それじゃあアン、またね、休暇明けに」

「ええ、良いイースター休暇を、ニナ」

「良いイースター休暇を、アン」


どうせイースター休暇は短いのだからと、今年はお城に残ることにしたらしい。今年一年分の週刊魔女を誰かから借りてきたアンは、恐らく彼女にとって有意義な休暇を過ごすことだろう。お互いに手を振って、私はトランクを持ち上げる。重すぎることはないが、軽くもないそれを手に、細く曲がった通路を急いだ。
ジェインとリリスは、今頃お城を出た頃だろうか。考えながら談話室に出れば、お城に残るのはアンだけじゃあない、七年生の魔女がふたり、向かい合って羽根ペンを動かしていたところだった。


「ニナ」

「ご、ごめんなさいヒュー、セーターを、詰め忘れちゃって」

「そんなの夏休みに持って帰ればいいだろ」

「だって、そうやって後回しにしちゃったら、夏に帰る頃にはトランクがいくつあっても足りないわ」


そうして、談話室の隅でトランクを椅子にして待っていてくれたヒューが、そんなものか?と首を傾げて私を見る。急いだからだ、じわりと汗をかいた額を手の甲で拭った私に、ヒューはぱたぱたと右手を扇いでくれた。


「トランク、交換するか?」

「ううん、平気だわ、大丈夫よ、ありがとう。急がないと、サミュエルが待ってるわ」

「マクゴナガルは?」

「ミネルバはね、一番に汽車に乗って、良い席をとっておいてくれるって。昨日ね、夕食の時に話したの」


ふたり分の羽根ペンの先が、羊皮紙を引っ掻く。ヤモリを前にした七年生の魔女達が読む教科書には、イースター休暇の文字は載っていないようだった。
トランクを左側に、先程よりはのろまな足で談話室を出る。廊下を進んで、階段を上がれば、背中を壁に預けて立つサミュエルの姿が見えて、私は彼の名前を呼んだ。


「サミュエルっ」

「あ、来た」


待ちくたびれたよ、と言いながら、ちっともくたびれていない顔をしたのは、彼の優しさだった。
手を振れば、サミュエルは手を振り返してくれる。冬が終わったのだと、そう思ったのは、サミュエルが伸びた後ろ髪を結んでいたからだった。


「サミュエル、髪っ」

「これ?下を向くと邪魔だったから……変かな」

「ううん、素敵だわ、似合ってると思う」

「……ダンブルドア先生も、たまにしてるよな」

「彼は髪じゃなくて髭だけれどね……」


いつもは隠れていた首の後ろ側が、少し気になるのだろう。サミュエルは薄手のセーターから伸びる首を何度も確かめるように撫でながら、結んだ髪に触れた。春らしいスプリンググリーンのセーターが、よく似合っていた。


「長えな、髪」

「そうなんだ。休暇の間に少し切ってくるよ」

「切っちゃうの?凄く似合ってるのに」

「でも、毎日結ぶのは、面倒だし」


誰からともなくトランクを持ち上げて、廊下を歩きだす。大広間を過ぎて外に出れば、馬のいない馬車を待つ魔女と魔法使いが列を作っていて、私達はその一番後ろに並んだ。列の真ん中よりも少し前には、大きく口をあけて笑う双子のアッカーが見えた。あの大きな口は、ブルース・アッカーだ。


「今日は随分と並んでるね」

「馬車が少ないんじゃねえの」

「馬車が?どうして?」

「さあ」

「君はまた適当なことを……」

「でも、本当に馬車が少ないのかも」


特別意味はない、だけれど空気は穏やかだ。ぼんやりとした言葉を交わしながら、時折思い出したように前に進む列に、箒半分、歩いては立ち止まって、その度にトランクを地面に置く。前に並んでいるのは、どこの寮の魔女だろう。私よりも背の低いその魔女は、ダークブロンドの髪をした魔女にぴったりとくっつくように並んで立っていた。
トランクの取っ手に巻かれたリボンは、赤かった。


「…………ん?」


ふと、何処か、背の高い木の上から笑い声が聞こえた気がして、視線を向ける。ほんのひと月前には真っ白い雪を着ていた枝が、今では緑色の葉に身を包んでいて、風が吹く度に得意気にそれを揺らしてみせる。ピクシー妖精か何か、いたのかもしれない。考えて、私は視線を前に戻した。
ミネルバはもう、汽車に乗れただろうか。


「わっ、」


そう思って、列を確かめようと踵を上げた、その時だ。
サミュエルのように結んでいない、後ろに流していただけの髪が、何かに引っ張られる。爪先で立っていた足が後ろに二歩よろめいて、あ、と思ったその瞬間には、私の背中は私よりも大きなものに受け止められるようにぶつかっていた。
サミュエルのグレーとヒューの藍色が、驚いた顔をして私を見ていた。


「よお、ニナ・ラヴィー」


そうして、同じように驚いた顔をしているのだろう私のダークブラウンの目が見たのは、私よりも明るい、ハニーブラウンの髪だった。






「悪かったよ、悪かったよトム、もう寝坊はしないと魔法大臣にも誓うから、許しておくれよ、ね?」

「アルファード、僕が何度君を起こしたと思う?」

「ええと、三回……いや、四回だ!」

「残念、惜しかったね、五回だよ」

「わあお!それは凄いや、今までで一番に、……ご、ごめんよ、本当に」


僕はどうしてこんなどうしようもない奴と一緒にいるのだろう。自分のことでありながら、全くもって理解が追い付かない。
人気の疎らな廊下を歩きながら、溜め息を吐く。諦めて放っておけばよかったものを、そうはしなかったのは、ロンドンまでの長い道程を静かに過ごす為でしかない。放っておいたものならば、彼は汽車に乗り込むなり僕を喧しく責め立て、ゆっくりと本を読む時間も与えてはくれないだろうと安易にその姿が想像出来たからだ。しかし、放っておけば、もしかすると彼は汽車にも乗れず、惨めたらしい気分でイースター休暇を城で過ごしたかもしれない。僕は静かに本を読めていたかもしれない。もしもそうであれば、僕は五回も彼の母親のような気になって揺すり起こす必要はなかったんじゃあないだろうか。


「トム、許してくれるだろう?」


しかし、例えば本当にそうなったとして、休暇が明けて戻ってきた僕を待ち構えるのは、何故自分を起こしてはくれなかったのかという顔をしたアルファードだろう。そしてそんな顔をした彼が一週間は僕に恨み言を呟き続けるに違いなかった。
どちらにせよ、今が、これが最善だったのだ。


「……次は置いていくよ。君はどうやら随分とベッドが好きなようだから」

「それは否定できないけれど、俺がいないとトム、君はロンドンまで退屈に違いないよ」

「穏やかの間違いだ」

「うっ、ひ、酷いなあ……君って魔法使いは、優しいけれど優しくないんだもの」


城に残るのだろう、中庭のベンチに腰を下ろした生徒が一人、そこで眠たげに頭を揺らしている。ハッフルパフのシーカーだっただろうか、風も吹いていないのに奇妙に揺れる髪に見覚えがある気がして、僕は廊下を曲がるまで彼のことを見ていた。顔は、髪に隠れて見えなかった。


「良いイースター休暇を、若い魔法使い達」


流行は遠の昔に過ぎたドレスローブを纏う魔法使いのゴーストとすれ違い、扉が大きく開け放された大広間を通り過ぎる。汽車が出る時間はもう目の前に迫っているというのに、それでも長テーブルの前に立ち、トランクを片手にサンドウィッチを口に運ぶのは、カローだった。七年生だというのにヤモリに焦りもしないのは、ホグワーツを卒業後、それなりの道を父親に用意されているからだと噂で聞いた。


「そうだ、結局のところ君は、何を贈るんだい?」


かつかつと、トランクを持っていない、誰かを見送りにいくのだろう魔法使いが僕達を追い越していく。その後ろ姿を眺めていれば、アルファードは何を突然言い出すのか、僕は思わず歩みを止めた。


「何をって、突然、何の話?」

「何の話って、そりゃあ、イースターだもの。誕生日だって、この間話したじゃあないか」


俺とは違って、君とニナは仲が良いものね。
目付きの悪いアルファードの黒い目が、何をそんなに嬉しそうに笑うのだろうか。つり上がった目尻が何を考えているのかが分からず、歩みを止めた僕に気付かずに前を行くアルファードの背中を見る。
息をすれば、喉の奥が熱を持ったかのように、ちりちりと痛んだ。


「そういえば、バレンタインにもカードを贈るって話だったよね。今年も勿論、贈ったんだろう?本当に仲が良いんだなあ、俺達とは正反対のまっ逆さまに大違いだ!」


白い歯を覗かせて、アルファードが笑う。そんな筈がないだろう、しかし、その白い歯の奥にある赤い下が、僕を嘲笑っているように見えた。
彼は、知らない。僕があの日の夜、ラベンダーグレーのカードを手に何を考えていたのか。彼が知ることは、一生ないのだ。


「……そうだね、君達と違って、仲が良いから」

「トムは本当に、ニナが好きなんだねえ」

「そうだよ、僕は、ニナが、好きだよ」


僕は二度と、ニナを呪ってはいけない。僕は、僕の内側に隠した真っ黒く汚れたそれを、ニナに知られてはいけない。
何処からか、焦げ臭い。忽ちに、嫌な臭い立ち込める。僕の頬は、きちんとゆるやかに笑っているだろうか。嫌な臭いに、鼻は歪んでいないだろうか。大人しく真面目な、姉を想う弟の顔をする度に、背中側から何かが、僕自身が崩れ落ちていく気がしてならない。
僕の足は、まだあるだろうか。ここに、地面はあるのだろうか。


「やあ、トム、見てごらん、早くおいでよ、随分と長い列だ!」


しかし、ここはあくまで現実で、僕の足は崩れ落ちることなく、廊下を歩くのだ。
喉の奥が、痛い。考えるだけで、僕はいつも、気分が悪かった。ニナのことを考える度に、いつも、気分が悪かった。


「今日は随分と時間が……やあやあ、そんなことを話していたら、トム、見てごらんよ、あそこにニナが、」


だって、深く真っ暗なその場所に、蓋をして閉じ込めた筈のそれが、いつまで経っても消えてくれないのだから。僕が閉じ込めたそれに気付いてもくれないで、穏やかな目をして僕を見るニナのことを思い出す度に、僕はどうしたって、気分が悪くなってしまうのだ。


「あれ?あれって、確か、んんんん、」


僕達を追い越していったはずの後ろ姿が、ダークブラウンの長い髪を引っ張る。そして、ほんの少しだ。一言か二言、彼女、ニナに何かを告げて、後ろ姿は振り返り、城へと戻ってくる。
明るいハニーブラウンの向こう側に、目を丸くしてその後ろ頭を見つめるニナの姿があった。
ニナ、僕はどんな顔をして、君を前にすればいいのだろう。ニナが僕の誕生日を祝ってくれたように、僕は、正しく同じものを、彼女に返さなくてはならないはずだった。


「確かフリントといた、……誰だっけ?」


しかしそれが、何よりも難しいのだ。
だから僕は、気分が悪かった。苦しくて、仕方がなかった。
ニナの右手に、カメリア色のカードが握られている。どんな柄のカードなのか、模様はあるのか。魔法使いと魔女の背中が邪魔をして、見ることは出来ない。しかしそれがバースデー・カードだということを、僕は何故だか、理解してしまった。
僕がこうして、とても姉を見る顔だとは思えない顔をしているだろう間に、名前も知らない魔法使いが、まただ、また一人、現れたのだ。


「ええと、見覚えはあるんだよ、あるんだけどなあ?」


アルファードが憐れにも頭を抱えている間に、ハニーブラウンの髪をした魔法使いが、すれ違う。振り返れば、機嫌の良い、弾むような軽い足取りが目に入って、僕は喉の奥が、頭がちりちりと痛んだ。
僕は、二度とニナを呪ってはいけない。真っ黒く汚れたそれを、酷く醜いそれを、ニナに知られてはいけない。


「……僕は、弟じゃ、」


それじゃあ僕は、いつまでもこのまま、苦く、苦しいばかりなのだろうか。他の誰も、呪ってはいけないのだろうか。
そんなことが本当に、許されるのだろうか。


「トム、今の、誰だったかなあ?知っているかい?」

「……知らない。でも、僕も、気になるな」

「わあお、珍しいね?それじゃあいつか名前を知れたら、君にも教えてあげるよ、きっとね」

「そうだね、そうしてくれると、…………そうだね、嬉しいよ」


僕はいつか、僕が、僕自身に、呪い殺されてしまう気がした。
くすんだ赤毛をした魔法使いが、拗ねたような、心配しているかのような、よく分からない顔をしてニナと話している。その横顔から目を逸らして、僕は、酷く醜い、嫌な臭いのそれに相応しい顔をしているのだろう頬に触れて、俯いた。
僕はニナを呪いたがる癖に、僕に呪われてしまったニナを見るのが怖い。真っ黒く汚れた醜いそれを見られたくない癖に、どうして気付いてくれないのかと考えてしまう。僕は、ニナに僕だけを必要として欲しいと思っているはずなのに、今の僕を、大人しく真面目な弟ではない僕の顔を、決して見て欲しくはなかった。
足は崩れ落ちてくれずに、地面もまだ、しつこくそこにあった。


「……嘘は得意な筈だろう、トム・リドル」


耳障りな、誰かが騒がしく笑う声がする。ピクシー妖精にも似た、きんと高いその笑い声に、僕はずっと、頭が痛かった。


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