今日は何か、嫌なことがあったに違いない。
例えば、魔法薬学の授業で使うはずだったフロバーワームを間違って踏んづけてしまっただとか、例えば、食べようと思っていたクッキーがもう缶の底にひとつも残っていなかっただとか、そんな嫌なことが。それがお気に入りの踵の靴で、そうして艶々としたアーモンドの乗ったクッキーだったのなら、尚更のこと。
勿論、深く沈むようなブルネットの髪をしたウィリアムは、私と違ってそんなことじゃあ落ち込まないのだろうけれど。


「ウィリアム、ねえ、ウィリアム」


フロバーワームを踏んづけてしまった靴で地面を軽く蹴って、まだ残っていると思い込んでいたクッキーを食べられなかった口でブルネットの後ろ頭に声をかける。競技場へと向かう長い脚は、私の声をきちんと捕まえてくれたらしい。直ぐにぴたりと中庭のその向こう、廊下の角で姿勢は良くなく立ち止まり、私を振り返った。


「ウィリアム、一緒に行こうっ。ねえ、休暇はどうだった?クリスマスは楽しく過ごせた?あ、あのね、ウィリアムに贈った羽根ペン、素敵だったでしょう?模様がね、スニッチに似てるのよ、似てるって、思わない?」

「……………………ん……」

「でしょう?そうなの、だからね、ウィリアムにぴったりだって思ったの。だから贈ったの。スクリベンシャフトで見付けたのよ。ウィリアム、今度のお休みに一緒に行く?」

「……………………」

「お買い物は好きじゃあない?そう、そっかあ……。じゃあ、今度の今度ね、気が向いたらね、その時は一緒に行ってね」


頷いて、首を振って、小さく小さく、果たして気が向く日は来るだろうかと、首を傾ける。ウィリアム・グレイは、そういう魔法使いだ。
コメット180を右肩に担ぎ直して、ゆっくりと歩きだしたウィリアムの揺れる前髪を確かめる。クリスマスの話をしても、羽根ペンの話をしても、ホグズミードの話をしても深く沈んだまま。ブルネットの前髪は、毛先すら明るく染まらなかった。余程の何か嫌なことが、彼の身に起こったのだろう。


「あ、グレイ、ラヴィーも。今から競技場だね?」


何かあったのか、訊いてもいいものだろうか。私が訊いても、いいものだろうか。思わず頬を掻いた、その時だ。
廊下の曲がり角から名前を呼ぶ声がして、続けて此方へと駆けてくる足音。振り返れば、ウィリアムよりもほんの少しだけ明るいブルネットの髪をした魔法使い、アンダーソン先輩がそこにいて、私は思わず足を止めた。
あまり厚くない背表紙の本を右手に、左手に箒を持ったアンダーソン先輩が、駆け寄ってくる。不思議なことに、彼の足音は魔女のそれよりも小さなものだった。


「アンダーソン先輩、こんにちは」

「やあ、こんにちは。一緒に歩いても良いかな?」

「はい、勿論。図書室ですか?」

「え?ああ、これかい?そうなんだ、今夜中に進めておきたい課題があって、それに使うつもりでね」


長い脚で真っ直ぐ先を歩くウィリアムを、アンダーソン先輩とふたり並んで早足で追いかける。自分と同じブルネットの頭に、アンダーソン先輩も気が付いたらしい。彼はウィリアムの斜め後ろ頭を見つめて、だけれど何も言いはしなかった。
私も、今は聞かないでおこう。


「何の本を借りたんですか?」

「エトルリア文字の参考書だよ。ルーン文字学のレポートで使おうと思って」

「………………ええと」

「分からないよね、僕も本当は、これを借りるつもりじゃあなかったんだよ。けど、ほら、イモリと梟が優先だから、僕みたいな何でもない六年生はね……」


殆んど溜め息の声色で、彼は肩も背中も丸くする。仕方ないけれど、と囁いた彼の顔色は、今日も決して良くはなかった。
城の廊下を抜けて、競技場へと続く外へ。なだらかな坂を下りながら、コメット180の柄を撫でる。あまり風の強くない、飛びやすい日だった。


「そういえばラヴィー、彼は?」

「えっ?」

「ほら、いつも一緒の彼だよ」


ガーランドは、今日は一緒じゃないのかい?
誰かが踏みしめた後の雪は滑りやすく、私は右の踵を滑らせる。咄嗟に私の腕を掴んだのは、当たり前だ、ヒューじゃあなく、ウィリアムだった。
突然のことに、ウィリアムの前髪が驚いたようにじわりとブロンドに染まって、だけれど直ぐにブルネットに沈んでいく。私は腕を掴まれたまま、どうにか体勢を整えた。


「あ、ありがとう、ウィリアム、吃驚した……」

「ん……」

「……体調が悪いって、今日は休むって、言ってました」

「え」

「ガーランドが?彼、そんなに悪いのかい?」

「んん、何だか、……多分、分かりません」

「……不思議な返事だね?」


それじゃあ、練習が終わったら見舞いに行かないと。
アンダーソン先輩の言葉に、ウィリアムが小さく頷く。私が転ばないようにと、腕から手首へ、そこを掴んだままのウィリアムの髪は、何とも言えない、ブルネットのような、ダークブラウンのような、よく分からない色をしていた。
コメット180の、柄を握る。爪の先で、自分の名前が掘られたそこを、引っ掻いた。


「まだまだ、寒いからね。僕達も気を付けなくちゃ」


肩を竦めて、アンダーソン先輩が言う。私はフロバーワームを踏んづけてしまった靴を見下ろして、クッキーを食べられなかった口から細くそうっと、溜め息にもなりきれなかった息を吐いた。
ヒューは、休暇が空けてからもう三日、殆んどの時間を、穴熊の丸い巣穴のベッドの上で、眠り続けていた。





「なあに?また?今日もなの?あの子、どうかしちゃったんじゃないの?」

「ミネルバ、静かに、静かに……」

「だってニナ、いくらなんでも変よ、おかしいわ、いくら勉強が好きじゃなくても、」

「ヒューはそこまで勉強が嫌いじゃあないわ、ミネルバ」

「ええ、そうね、だけれど私と比べたらどうかしら?……いいえ、そうじゃあなくて、流石にこんなにも休んだりするのは……」

「んんんっ」


ダンブルドア先生のわざとらしい大きな咳払いに、ミネルバの肩が弾むように揺れる。教室をぐるりと回るように歩いていた彼のたった一度のそれは、ミネルバにとっては二十点は減点されたに等しいものだった。一瞬にして彼女の尖った声は息を潜め、私は代わりに使いかけの羊皮紙を机に広げる。ほら、怒られた、と、冗談めかせた言葉を書けば、ミネルバは綺麗な形をした眉を寄せて私を睨み付けた。


「……それで、今朝は?何て?」


囁くような声なら、ダンブルドア先生は怒らない。


「まだ寝てるよって、イアンが」

「寝てるって……熱は?具合が悪い訳じゃあ、ないのね?」

「分からないの、起きてもぼうっとしてるから。昨日の夜、ウィリアムとアンダーソン先輩が様子を見に行ってくれたんだけれど、その時もずっとそんな調子だったって……」

「……医務室には?」

「マダム・ペペが元気爆発薬をくれたわ」

「効かなかったのね?」


杖を右手に、ミネルバが毛糸玉を杖先で触れる。今にも動き出しそうな程に丁寧に美しい猫の置物に姿を変えたそれは、じとりと私を見つめていた。二つの目玉は、夜の満月だった。


「眠る以外はいたって健康だから平気だろうって、マダム・ペペが」

「けど、このまま原因が分からなかったらどうなるの?いつまでもこのままじゃ、平気だとは言えないわ」

「その時は聖マンゴから癒者の先生を呼ぶって、そう言ってたわ」

「聖マンゴ?」

「うん、そうよ、そう、聖マンゴ。聖マンゴ魔法疾患傷害病院」

「……私がマグル界で育てられたから思うのかしら。今すぐにでも、その病院のお医者さんに来てもらうべきだって」

「私もよ、私も思うけれど、でもね、癒者が足りないんだって、マダム・ペペが言うの」

「そう、……そうね、そうよね」


いつも通りならきっと、今頃来てくれてるわよね。
ミネルバの睫毛が、彼女の頬に影をつくる。教室の高い位置にある窓から射し込む陽射しは強くはないが、頬の影は濃かった。
ダンブルドア先生の爪先が此方を向いたので、私は羊皮紙を机の端に寄せ、毛糸玉を真ん中に座らせる。杖を握る視界の隅っこには、毛糸玉をほどいて遊ぶグリフィンドールの魔法使いがそこにいて、直ぐ後ろの席からは呆れたようなため息が聞こえた。


「それで、ニナも様子を見に行ったんでしょう?勿論、そうよね?」

「……それが、あのね、リリスが駄目だって」

「駄目?彼女がどうして?」

「魔女が魔法使いの部屋に入るのには、許しがいるからって。そう言ってたわ」

「何ですって?許し?誰の?まさか」

「ええ、そう、許し」


瞬きをして、ミネルバは前の席、リリスのブロンドを見る。私達の囁き声を、リリスは、三人の森梟達の耳は聞いていたようだ。直ぐにリリスにジェイン、アンが此方を振り返ったので、私とミネルバは思わず肩を寄せあった。


「当たり前じゃない、だって、私達ってもう四年生なのよ?許しがないと入れるわけないって、私、思うの」

「リリスの言う通りよニナ。いくらガーランドの部屋でも、いけないわ。ねえジェイン」

「そうよ、それにもうすぐ、もうすぐ」

「もうすぐ、なあに?」

「言えないわ!秘密よ、秘密!」


言うだけ言って、満足したのだろう。それぞれにガタガタと椅子の脚を鳴らして前に向き直ったきり、彼女達が此方を振り返ることはなかったので、私はミネルバと顔を見合わせる。だけれど、どういうことなのか、と目を丸くしたのは私だけで、ミネルバは奥歯の裏側にニガヨモギがいたかのような、そんな顔をして乱れてもいない前髪を整えていた。
後ろの席の魔女が、くすくすと笑っている。嫌な臭いはしない、だけれど何かが引っかかるそれに、私も前髪を押さえつけた。


「……まあ、そうね。部屋には、行かない方が良さそうだわ。噂好きの魔女が、少なくとも三人は、いるようだから」


音を立てずに、半分はほどけた毛糸玉がミネルバの足元に転がってくる。何も言わずにミネルバが拾い上げたそれを受け取った魔法使いの耳は、教室は寒くないはずだけれど、赤かった。


「噂と言えば、二人は知ってるかしら?腐った魔女の死体のこと」


す、と、そんな耳から目を逸らしたその時だ。後ろの席から、グリフィンドールの魔女が身を乗り出してくる。止めなさいよ、と声を上げたのはミネルバで、彼女は面倒だという顔を隠しもしなかった。
ダンブルドア先生が、此方を見ている。後ろを振り返ることはせず、少しだけ背中を椅子の背もたれに預ければ、香水だろう、甘い匂いが鼻先を撫でた。


「腐った魔女の死体って?」

「ニナ、聞かなくて良いわよこの子の話なんて。いつも不確かな話をしたがる子なの」

「あら、不確かな話じゃないわ、うちの二年生が言ってたんだもの。ちゃんとこの二つの耳で聞いたのよ、昨日の夜にね」


何処かで、聞いたことがあるような。
耳が覚えていても、頭は覚えていない。毛糸玉を杖の先でつつきながら、呪文は唱えず、静かに瞬きをする。ダンブルドア先生は、丁度教室の一番端の端まで歩いて、ぐるりと折り返してくるところだった。
一体、誰がその話をしていたんだっただろうか。


「彼女が言うにはね、禁じられた森にその魔女の死体が隠されているらしいわよ。罰則で森に入らされた時にね、つんと鼻につく臭いがしたんですって」

「……あなたはそんな話を本気にするの?馬鹿げているわ」

「私達先輩魔女というものは、後輩魔女の話を一度は受け入れる必要があるのよ、知ってたかしら?ノーと言ってはいけないの、それが魔女の掟よ」


何処かで、同じような話を聞いたような。同じような言葉を、ミネルバが返したような。馬鹿げていると、呆れたような細い息を吐きながら。
耳に、触れてみる。ピアスがひやりと冷たいだけで、思い出せるものは何もない。ぼんやりと、ヒューはどうしているかと、気になった。
彼はこの噂話を、聞いたことがあるだろうか。


「それにしても、この話はクリスマス休暇前からあったのに、あなた、知らなかったの?」

「えっ?そ、そうなの?」

「もう、止めて頂戴よ。うんざりだわ、噂なんて」

「あら、ごめんなさいね。今日はもうここまでにしておくわよ」

「そうしてくれると助かるわ。ほら、ニナ、私達、そろそろ集中しなくちゃあいけないわ」

「え、あ、う、うん、そうね、そうだわ……」


ダンブルドア先生のゆったりとした足音が、教室を歩き回る。窓から射し込む陽射しは強くなく、机の真ん中に座らせた毛糸玉を、時折きらきらと煌めかせた。
くすくすと、魔女の笑い声が響く教室の右端の席に座ったグリフィンドールの魔法使いの耳は、いつまでたっても赤いままだった。


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