夏には無かった葡萄の木は、父さんが何処からか買ってきたのだろうか。白い外壁を伝うように伸びた細い枝が私の部屋の窓の直ぐそばまできていて、いつかこの部屋の住人になってしまうんじゃあないかと、トランクから荷物を出しながら考える。何せ私は、休暇の間にしかこの部屋にはいないのだ。葡萄の木の方がよっぽど長い時間を、この部屋で過ごせるのだから。
汽車に揺られたせいか、何となく、身体が重い。首を捻って、魔法史の分厚い教科書をベッドに放る。レポートは、ふた巻き分だっただろうか。


「ニナ、荷物は出せた?」


こん、と、ドアの向こうから彼、トムが私を呼ぶ声がして、私は振り返る。開け放されていたそのドアに、ノックなんて必要ないのに。トムという律儀な魔法使いは、私が彼を部屋に招き入れるまで、ドアの向こう側、廊下に立っているつもりらしかった。


「あと半分よ、半分。トムは?もう終わったの?」

「うん、あまり荷物を持って帰ってこなかったんだ。ニナは、……沢山持って帰ってきたみたいだね?」


手招けば、トムは私のトランクが気になったようだ、首を傾けながら私の直ぐ後ろに立ち、トランクを覗き込むように背中を丸めたので、私はセーターにワンピース、間に挟んでいた天文学の教科書を引っ張り出して、床に並べていく。それから、トランクの一番底、少し袖の短くなったグレーのセーターの下からリボンを引っ張り出した。


「だって、そう、あのね、リボンだとか、どれを持って帰るか、決まらなくて」


パーティーで、使うことになるだろうから。
言わずに、トムを振り返る。深く濃い、ミッドナイトブルーのセーターを着たトムは、不思議そうにリボンを見ていた。


「このリボン、そんなに好きなの?」

「うん、そう、だって、艶があって、素敵だもの」

「こっちのリボンは?」

「細くて長くて、素敵でしょう?髪を編んだときにね、一緒に編み込むと可愛いの。あんまり太いリボンだと、上手く編み込めないの」

「ああ、なるほど」

「あとね、こっちのリボンはね、ほら、見る角度で色が変わるでしょう?ここから見ると、銀色だわ」


リボンを床に丁寧に並べながら、トランクの底にはまだまだあるのだ、次々とリボンを引っ張り出していく。ボトルグリーンにパウダーブルー、コルク色に、シナモン色。ハニーデュークスで買ったチョコレートの缶についていた甘い匂いの染み付いたリボンに、レース飾りのついた白いリボン。魔法使いにとってそれは、殆んど同じ、ただの長く細く薄っぺらい紐に見えることだろう。少なくとも、ヒューや双子のアッカーは、何なのだそれは、という顔をして、私の髪にくっつくそれを見ていた。


「これが一番素敵だと思うな」


だけれど、トムは違ったようだ。
紐とリボンの区別がつく彼は、薄いアイボリーのリボンを手にとって、それを確かめるように私の髪に重ねた。
レース飾りはない、花の刺繍のそのリボンを、トムは私の髪に巻き付ける。


「似合ってるよ、これが一番」


それじゃあ、このリボンをパーティーに、と、言いたいのだけれど、言っても、良いのだろうか。だって父さんは、トムをパーティーに誘っていないのかもしれない。
大広間の天井を滑るように飛んでいった梟が彼の元には寄り道をしなかったことを私は知っていて、喉の奥で言葉に成り損なった空気を飲み込む。奇妙なことに、酷く、とても、悪いことをしているような気持ちだった。クリスマスのパーティーは、それが例えイヴだとしても、ちっとも楽しめるものじゃあないとしても、それだけで特別なのだ。
髪を撫でて、耳に、ピアスに触れて、それからトムは、私の右手にリボンを握らせる。ぽん、と軽く肩を叩かれて、私はいつの間にか俯いていた顔を上げた。


「ニナ、下に行こう」

「えっ?」

「君のお腹がまだ空いていないなら、別に後でも良いけど?」

「あっ、夕食ね、そうだわ、そんな時間だわ」

「そうだよ、もうそんな時間だよ」


悪戯に笑って、トムは急かすように私をドアの向こう側、廊下へと手招く。私達が帰ってくるからと、父さんが張り切ったのだ。ぷかぷかと廊下に浮かぶ白い花を避けて、私を待たずにトムは廊下を早足で進んで、階段を下りていく。器用じゃあない私は、いくつも花を頭や髪やスカートの裾にくっつけて、彼の背中を追いかけた。まるで、ロンドンのあの家に帰って来たかのようだった。
バターの焦げた匂いが、漂っている。真冬のキッチンにぴったり相応しいその匂いの正体は、母さんがテーブルに並べたシェパーズパイの匂いで、私は嬉しくて跳び跳ねそうになる気持ちを押さえて母さんを見た。


「母さんっ、凄く良い匂いねっ」

「それはどうもありがとう。ほら、席について、冷めないうちに」


促され、大人しく父さんの向かい、トムの隣に腰を下ろす。一足早く席についていた父さんは、珍しいことだ、蜂蜜酒を飲んでいて、頬は薄く赤く染まっていた。
小さ過ぎる金色のゴブレットを片手に、父さんが目を細めて私を見て、トムを見て、また、私を見る。もう片方の手には、予言者新聞が握られていて、気のせいかもしれない、ホグワーツの図書室のカウンターに並ぶそれよりも分厚く見えた。一面に大きく載った写真の中では、古びた三角帽を深く被った魔法使いがぎょろぎょろと周りの何もかもを睨み付けていた。


「ダン、お酒を?」

「ああ、少しだよ、ほんの少し」

「よくハツに叱られなかったね?夏のパーティーで懲りたと思ったのに」

「この一杯だけだと誓ったからね」


言いながら、父さんは予言者をテーブルに。そうしてそれは、一瞬のことだ、杖の先が触れる前に、音もなく燃えてしまって、私もトムも目を丸くして、三角帽の魔法使いが塵になって消えていくその様を眺める。母さんは、何も言わなかった。
金色の蔦模様で縁取られたお皿に、トムがシェパーズパイを取り分けてくれる。三角帽の魔法使いが燃えた、焦げ臭いその臭いも父さんは杖をひと振り、直ぐに消してしまって、小さなゴブレットを傾ける。
バターの焦げた匂いも、消えてしまった。


「ニナ、トム、学校はどうだい?勿論、上手くやっているんだろうね?」

「まあ、それなりに。そうだ、ニナはレイブンクロー戦で勝ったんだよ。ね、ニナ」

「うん、そう、そうなの、父さん、レイブンクローに勝ったわ」

「それは素晴らしい!ニナが優勝杯を手に入れる日が待ち遠しいよ!」

「それはどうだろう、今年もスリザリンチームは強いから」

「それは、それは、ああ、トムもチームの一員ならなあ、こんなに嬉しいことはないのに」


言いながら、父さんはお皿に取り分けることもせず、山のように盛られていた小さく丸いカスタードタルトに手を伸ばす。一番天辺のそれを手に、父さんは機嫌良く鼻歌を歌いながら、また私を見て、トムを見て、それから最後に、ゴブレットを覗き込んだ。蜂蜜酒は、もうほんのひと口分も残ってはいなかった。
スープ皿がふたり分、すっと飛んできて、私とトムの前に大人しく並ぶ。キッチンで杖を振り、席につかないのだろうか、母さんは忙しなく何かを作っていた。
クリスマスディナーに期待しないようにという父さんの手紙は、ただの冗談だったのだろうか。


「トムも、クィディッチを好きになってくれたらなあ……」


呟いて、ゴブレットをテーブルに。だけれどしかし、父さんがそれを手離すことはない。まるで、それを手離せないかのようだ。手離した途端に、ゴブレットがドラゴンに変わってしまうかのような。
ゴブレットの隅に金色のドラゴンが座っている。動かないのはそれがただの模様だからで、当たり前のことだ。それだというのに、それが動き出さないという奇妙な違和感が、テーブルの上に、キッチンにまで、漂っている気がした。


「ダン、何かあったの?」


口を開いたのは、トムだった。
フォークを置いて、トムが父さんを見る。頬はもう真っ赤になっていて、だって父さんはお酒に強くないのだ、父さんははしたなくテーブルに肘をついてトムを眺める。
私によく似た、私がよく似た父さんのダークブラウンの瞳が、優しく笑っている。細められたその瞳の下には、長い睫毛にも隠れてはくれない色濃い疲れが溜まっているのが見えて、私は膝を撫でた。
何だか、落ち着かない。足の裏が、そわそわする。


「……トム、君に謝らなくちゃあならないことがあるんだ。怒らずに、聞いてくれるね?」


カスタードタルトをお皿に。父さんは目を細めたまま、しかし真面目な顔をして、トムに向き直った。
父さんの指先には、白い、甘い粉砂糖がついていた。


「君の分の招待状を、どうしても手に入れられなかったんだ」


そうして、え、と声を漏らしたのは、トムと、それから私だ。
テーブルに身を乗り出した父さんから蜂蜜の甘い、だけれど鼻の奥が熱くなる、そんなにおいがする。小さかった私は珈琲のにおいが好きじゃあなかったけれど、四年生の私は蜂蜜酒のにおいが好きじゃあなかった。
かちゃんと、フォークが揺れる。眉を寄せ、父さんの言葉に首を傾げたトムに、父さんは真面目な、申し訳ないという顔をして、頭を抱えた。


「すまない、どうしても、どうしても行かなければならないパーティーがあるんだよ。これを断ると今後に大きく関わるんだ。だけれど、残念なことに連れていけるパートナーは一人きりなんだ」

「パーティーって、いつ?」

「明日だよ、明日の夜」

「それじゃあ、つまり、僕の分をってことは、僕にだけ謝るってことは、ニナが、ダンのパートナーだね?」

「……賢くて、助かるよ。そう、そういうことだよ。本当に、すまない」


太い腕が、ゆっくりと伸びる。父さんの大きな手を前にすれば、私達なんて、小さな子供の魔女と魔法使いだった。
父さんの手に、トムが大人しく頭を撫でられる。私は大きな森梟のその姿を思い出しながら、スープをひと口飲んだ。やっぱりあの森梟は、トムに手紙を運んでこなかったのだ。父さんは、私だけをパーティーに誘ったのだ。
それじゃあ私は、あのリボンを、アイボリーのあのリボンを、いつ使えば良いのだろうか。
私は、トムが似合うと言ってくれたそのアイボリーを、トムに、見せたかった。見て欲しかった。


「……それは、仕方ないね」


けれど、だけれど、どうして私は、そんな風に、思うのだろうか。
胸の辺りに、誰かが爪をたてたようなそんな気がして、私は首を傾げる。しかし、それはそんな気がしただけで、気のせいなのだ。何だろうかと考える間もなくそれは消えてしまって、私は瞬きをする。私は、今、何を考えていたのだろうか。
父さんに頭を撫でられたまま、トムは少し困ったような顔をして、頬を掻く。大き過ぎるその手をどう扱えば良いのか、賢いトムでも分からないようだった。


「……良いのかい?」

「良いも何も、どうすることも出来ないよ。違う?」

「い、いや、その通り……」

「まあ、早くに教えてくれなかったことは少し、残念だと思うけど」


トムの黒い、私とも父さんとも違う瞳が、私を見る。怒ってはいない、と、そう思ったのは、彼の瞳が、黒く、穏やかだったからだ。
父さんの手をぎこちなく押し退けて、乱れた前髪を整える。父さんの手は、名残惜しむように、空気を掴んで、離して、また、ゴブレットへと戻っていった。


「ニナ、ダンが酔わないように見張っていてね」

「う、うんっ、頑張るわ、見張るわ、ちゃんと、だから任せてっ」

「……ご心配をどうも、胸に染み入るよ」


駄々をこねることを、彼はしない。何故自分はいけないのかと、唇を尖らせることもしない。ただ、トムは穏やかに笑うだけだ。


「それじゃあ、あのリボンだね」

「え?」

「あのアイボリーのリボン。よく似合ってたから、あれにすると良いよ」


膝に置かれていた私の右手を、トムの左手が包む。瞬きもしない間に離れたその手は、指先だけが冷えていた。
スプーンを手に、トムはスープをひと口。まだ熱いそれに舌先が痛んだのだ、トムは水を飲む。空のゴブレットを揺らした父さんは、目を細めて、ずっと私とトムを見ていた。
長い睫毛の下、色濃いその疲れは、一体いくつの夜を眠らずに過ごしたのだろう。訊かないまま、訊けないまま、私はそんな父さんに小さく笑みを返すことしか出来なかった。


「後ろでまとめるの?僕、あの髪、好きだよ」

「シニヨンのこと?」

「名前は分からないけど、多分それかな。たまに学校でもしてたよね」

「うん、あのね、リリスがね、とっても上手なの。リリスがね、してくれるのよ」


酔った父さんの頭が、ゆっくりと左右に揺れている。母さんはキッチンに立ったまま、席につかない。トムは不思議なほどに穏やかで、私は落ち着かず、膝を撫でる。
デヴォンの村、ビックリーの外れの外れは、重く湿った雪が真夜中まで降り続けていた。


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