手摺のない螺旋階段を下りきって、廊下を真っ直ぐ、東側の長いそれを突っ切れば、地下へと続く階段は直ぐに現れる。左腕に抱えていた魔法薬学の教科書は、いつもじめじめと湿った部屋の隅に置かれているせいだ、図書室で借りる本よりも手触りは悪く、馴染まない。それがやけに気になったせいだ。地下へと下りることもせず、大広間へ向かうでもなく、僕はその場で足踏みをした。


「あら、あなたも、今夜は冷えるらしいからジンジャーティーをどうぞ」


みすぼらしく肥え太った魔女のゴーストが、壁から壁へ、廊下を横切って、間の抜けた事を言う。僕の首もとのタイが緑色だと、ゴーストは気付いたらしい。返事をしない僕に、腹立たしいことに納得したかのように首を竦めて壁の向こうへと消えていったので、僕は堪らず奥歯を噛んだ。
あのゴーストは、スリザリンなのだからと考えたに違いない。狡猾で高慢なスリザリン生なのだから、ゴーストなんかは相手にしないのだと、そんな事を考えたに違いない。


「何が、ジンジャーティーだ」


しかし実のところ、その通りである。僕はゴーストなんかの戯言に付き合いはしないし、愛想を振り撒くこともしない。ジンジャーティーを飲みもしなければ、それに向けて視線を返すこともしない。スリザリン寮に住み着いた嘗ての緑色のゴースト達なら未だしも、何せあのみすぼらしく肥え太ったゴーストは、穴熊贔屓で有名な、非純血主義者のゴーストなのだから。
教科書の、背表紙を指で確かめる。魔法薬を、間違って飛ばしたのだろうか。ざらりとさわり心地の悪いそれが、何故だか酷く気になって、僕はまたそこで足踏みをする。
いいや、本当は、そんな事、ほんの少しだって気にはしていない。


「………………当たり前だ」


じめじめと湿った部屋は、今に始まったことではない。湖の底、いつだって薄暗いその部屋に置かれた教科書やローブ、靴の裏側にさえ、僕のものは特別丁寧に防水呪文をかけている。手首に合わせたセーターや、皺の出来ないシャツにさえ、僕の触れる何もかもに、父上はその呪文をかけるようにと、自分よりも年老いた魔法使いに言い付けたのだから。
指で、背表紙をなぞる。そこに、ざらりとしたものは何もない。あるとすればそれは、僕の指の腹なのだ。


「僕は、スリザリンだぞ」


スリザリンなのだから、そうだ、僕はあの、アブラクサス・マルフォイだから、当たり前なのだ。
ガリオン金貨を何十枚と積んで、直ぐに足に合わなくなって捨ててしまう靴を買う魔法使いが、他に何処にいるのだろうか。真実、誰もが羨む真っ直ぐに淀みない純血が僕には流れていて、そんな僕は、誰よりも高い場所に立っていなくてはならない。前にいなくてはならない。誰も、僕の隣に並んではいけない。
アブラクサス・マルフォイは、そういう魔法使いなのだ。


「スリザリンが、ハッフルパルなんかと」


そういう魔法使いなのだというのに、耳は熱く、頭は冷たく、僕は今、恐ろしく惨めだ。
ダークブラウンの跳ねた前髪を、父上は眉をひそめて見下ろすのだろう。僕に似た冷えた色の目玉で、値踏みする価値もないと言うのだろう。威圧的なその姿を、正しくマルフォイの姿であるそれを簡単に思い浮かべる事が出来てしまうというのに、僕はそれを消したくて仕方がなかった。
僕は、下手な気を遣って辺りを見回して、恐る恐る僕の名を呼ぶ、僕に手を振るあの魔女を、友人だと思いたかったのだ。


「…………僕は、アブラクサス・マルフォイだ」


父上が燃やしたクリスマスカードの臭いが、鼻の奥、頭の片隅で、今も燻っている。そしてそれから、それよりも更に奥、誰にも見付からない、見付けられないような暗闇の中で、ハニーデュークスの甘過ぎたチョコレートの匂いも残っているのだ。
僕が覚えているあの日の出来事も、城の八階、火を噴くドラゴンの置物が転がっていたあの部屋での出来事も、彼女はもう、覚えてはいない。ハンカチなんかを返すために僕を追い掛けてきた彼女は、もう、覚えてはいない。
僕が、僕だけが、期待をしていたのだ。


「…………しっかりしろ」


頬を軽く叩いて、足取りはいつも通りだ、そこで足踏みをしていた踵で、ゆっくりと階段を下りていく。かつかつと、ガリオン金貨を何十枚と積んだ踵の音はよく響き、耳に心地がよい。音もなく壁の向こうから現れた魔法使いのゴーストは、油の切れたようなおかしなお辞儀を寄越すだけで、声をかけてはこなかった。





「やっぱり駄目だわ、ああ、私、どうしてこんな髪色なのかしら!」


ミネルバとふたり、何事かと目を見開いたのは、後ろの後ろ、その席に座っていたジェインが大きすぎる独り言を叫んだせいだった。
今日も魔女と魔法使いが別れて座る変身術の教室で、グリフィンドールの魔女達だけがくすくすと笑う。呆れたようにため息を吐いたのはアンとリリスで、魔法使い達は皆知らん顔をして居眠りをしていた。何せ、ダンブルドア先生は古い知人の五度目の結婚式の為にスウェーデンに出掛けてしまったのだ。
静かに粛々と、生真面目に自習。黒板に書かれた文字を横目に、私は自分の髪をつまみ上げる。ダークブラウンの髪は、面白味のない、何てことのない髪だった。


「ジェイン、静かにしてちょうだいよっ」

「だってリリス、教科書に書いてあるの、此処よ、七十五頁、第十二章。髪色を変幻自在に操るにはブロンドが好ましいって、私みたいな赤毛じゃあ、他の色には変化しずらいんだわ……!」

「でもジェイン、赤毛の魔女や魔法使いは多くの魔力を生み出す力があるって、この間何かの本で読んだわよ」

「そんなのって慰めにもならないわ、だって、どれだけ魔力があっても、赤や青が似合わないんだもの……」

「それに、その本って確かマグル学の本だものね」

「ブロンドになれたからって、赤や青が似合うかも分からないし」


くすくすと笑っていたグリフィンドールの魔女の唇達が、ブルネットや明るいブラウンの髪を指に巻き付けながらジェインを振り返る。くだらない、と天井を見上げて頭を振ったのはミネルバとリリスで、ふたりの生真面目な魔女は自分の髪色に特別不満は持ち合わせていないらしかった。
短い赤毛の髪を撫で付ける丸い小さな後ろ頭が、そわそわと肩を揺らしているのが見える。私はその前の席、静かに粛々と、生真面目な顔をして眠るヒューを確かめて、頬杖をついた。


「別に、自分のこの髪が心底憎い訳じゃあないのよ。でもね、こうじゃなければって、思うのよ。赤いシルクのリボンだとか、首の詰まった素敵な青いドレスローブを見た時にね」


ジェインの嘆く言葉を気にも留めずに、ミネルバの右手は羊皮紙をインクで隙間なく埋めていく。エジプトの魔法使い達は何故黄金を作り出すのが上手いのかを長々と難しく書き出していく彼女の横顔は、変身術の教室に不思議ととても似合っている気がした。


「首の詰まったワンピースなんて、髪よりも細くて長い首を持っているかどうかだわ」

「それもそうよね。私、首が長くはないからいつも同じような襟を選んじゃうの」

「あら、でも来年は首の詰まった形の襟が流行るのよ。どの雑誌にも書いていたもの。ねえ、アン?」

「そうだった?ああ、そうだわ、確か広告にも載ってたんだったわね」


ジンジャーの赤毛から、首の詰まった襟のワンピース。魔女の唇はお喋りで、ジェインはもう、今の今まで目の前にあった悩みの種など土から掘り返して、何処か遠くに放り捨ててしまっていた。多分きっと、それはまた忘れた頃に足元に転がっているのだろうけれど。
頬杖をついた指先で、頬を叩く。ミネルバを真似て広げた羊皮紙は、インクの色も知らないまま、そこで黙っているだけだった。


「……ニナ、どうかした?」


驚いたのは、突然ミネルバが私の顔を覗き込んだせいじゃあない。彼女が羽根ペンを置いて、教科書を机の端に寄せたせいだ。


「え、え?私?どうして?」

「だって、元気がないわ。……そりゃあ、元気を出せだなんて、言えないけれど。それでも、今日は何だか、」


昨日、何かあったの?
ミネルバの声が、他の誰にも聞こえないようにと小さく囁く。それがあんまり優しいものだから、私はついスカートの膝の辺りをきつく握り締めてしまって、頬杖をついていた手は力なく羊皮紙の上に落ちた。


「……ううん、何でもない。何にもないの。ただ、あんまりね、眠れなくて」


半分嘘で、半分本当だ。
言えば、まるで泥まみれの子犬を見てしまったかのような顔をして、ミネルバは私の頬や額をそろりと撫でる。擽ったさに目を閉じれば、そこに浮かぶのはくすんだ赤毛、それからプラチナブロンドの髪で、私は慌てて目を開ける。
眉を下げて私の鼻先に親指を這わせたミネルバの前で、私はマルフォイの名前を口にしてはいけなかった。


「あなた、もしかして、やっぱりそうだわ、だから言ったのに……」

「えっ?」

「クリスマスのことよ、そうでしょう?私が手紙を書いてあげる。だから心配しないで、きっと素敵なクリスマスにしてあげるから」

「あの、ミネルバ、私、本当にそんな、違うのミネルバ、」

「期待をしないようにだなんて、酷い話だわ。クリスマスが一体どれ程の人の拠り所になるか、ご存知ないんだわ」


彼女は何だってまた、そんな事を言うのだろうか。私は視界がぐるりと回る感覚がして、頭が痛くなる。本当に心配はしていないのだ、と私が角ナメクジの粘液よりもしつこく彼女に繰り返し聞かせても、彼女はそれを真実だとは思わないに違いない。何せ今でさえ、これなのだから。
私の手をとって、ミネルバは言う。ヒューが居眠りをしていて良かったと思ったのは、彼も間違いなく、ミネルバと同じく私の言葉を真実と思わない魔法使いだったからだった。


「私ね、良いものを貰ったのよ。吠えメールって言うんだけれど、抗議の手紙にはそれが一番なんだって先輩がくれたのよ」

「吠えメールは、ええと、ミネルバ、父さんが、驚くから……あの、だから、本当に期待が出来なさそうなら、お願いするわ、パイが並びそうになかったら、その時に」

「何かしらの丸焼きも」

「丸焼きも、並びそうになかったら、その時に」

「勿論、任せてちょうだい」


生真面目な顔をして、可笑しなことを話している。歪なそれに首を傾けながら、私はヒューが未だ居眠りをしているのを横目に確かめて、ほうっと息を吐く。腕を組み、段々と前のめりになり始めた彼の背中は、少なくとも悪い夢に魘されてはいなかった。
教室の端、短い赤毛の後ろ頭の隣で、魔法使いが座っている。真っ白く大きな羽根ペンを握ったまま動かない彼の耳が、此方を向いているような気がした。だけれどきっと、気のせいだ。


「実はね、早く使ってみたかったりするの。吠えメールだなんて、凄い名前なんだもの。気になるでしょう?」

「でも、父さんに送ったら、どんな風に吠えるかだなんて私達には分からないわ、ミネルバ」

「……それもそうね」


珍しく悪戯に笑うミネルバに、笑い返す。スカートの膝の辺りは皺だらけになっていて、胸の下、そこはずっと、気持ちが悪いままだった。



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