カナリアイエローのローブの裏地を憎らしく思ったのは、初めてのことだった。


「待って、サミュエル、サミュエル!」


一体何の騒ぎなのかと立ち止まり、目を丸めたり片眉を上げたり、そうして振り返る魔女や魔法使いを器用に避けて、廊下を進み、中庭を抜け、角を曲がって、細く長い、真っ直ぐな脚が階段を駆け上っていく。それを追いかける私の脚は、漸く立ち上がることを覚えたばかりかのように不器用に何度もローブの裾を絡ませるものだから、その度に爪先が廊下をおかしなリズムで蹴り、廊下の角もろくに曲がれやしなかった。そのせいだ。サミュエルとすれ違い階段を下りてきた魔女を避けきることが出来ず、肩をぶつけてしまったのは。


「ちょっと、気を付けなさいよ」

「ご、ごめんなさいっ」


スリザリンの緑色のローブの裏地が、私を睨み付けている。狭く埃臭い、動かない階段を駆け上るサミュエルの背中は私を振り返らない。早く追い掛けなくては、と、私は緑色のローブの裏地が誰のものなのか、スリザリンの彼女が誰だったのかも確かめることも出来ず、狭い踊り場を曲がって消えてしまった背中を追って階段を上った。
壁に掛けられた絵画の中で、羊を追う子供達が私を見ている。遠ざかるサミュエルの足音が聞こえたのは、幸いだったのだろうか。彼が何処へ向かい、何処を曲がったのか、私の耳は確かにそれを拾えたが、しかし、やはり立ち止まることのないその足音に私は息が上がってしまって、追い掛けるのがやっとのことだった。


「サミュエル、お願いよ、お願い、待ってっ……!」


階段を上り、廊下を駆ける。右に左に、もう一度左へ。廊下を曲がり、真っ直ぐなそこに出てしまえば、私の脚は決して遅くはなく、私はそこで漸くやっと、サミュエルの背中に追い付くことが出来た。
右手を伸ばして、湿ってもいないのに冷たいローブの背中を掴む。息は苦しく、脚はぶるぶると震えるくせに、頬も鼻先も指先も、凍えるように寒く感じたのは、ふ、と、私を振り返ったサミュエルの視線が、いつもの通りではなかったからだった。


「……なに?ニナ」


ゆっくりと瞬きをして、サミュエルは私を見ている。長い睫毛が頬に影をさし、グレーの瞳には、彼の伸びた前髪が重なっていた。
いつもの通りではなかった。だけれどこれは、初めてなんかじゃあ、なかった。
私はどうして、気付かないふりをしていたのだろうか。


「あ、あの、」


何から話せば、良かったのだろう。
夏の日、グルグモンドで見せた苦い顔。甘い香水は、アンドリュー先輩のマグルの香水は、その日初めて、サミュエルから嗅いだ。ああそうだ、夏の間、サミュエルからの手紙の返事が遅かったのは、一体どうしてだったのだろうか。コンパートメントで彼が私を見付けたあの瞬間、眉をひそめた理由は何なのだろうか。
頭の中がぐわんと大きく揺すぶられた感覚がする。大きな魔女鍋を頭から被せられて、外側から強く殴られたかのような、酷い衝撃だった。
私はいつから、こんなにも沢山の彼の異変に、気付かないふりをしていたのだろうか。


「……ニナ。ニナが僕に話してくれないことが、沢山あったよね」


サミュエルの声は、穏やかで滑らかだ。私のように息が乱れてもいなければ、奇妙に上擦ることもなかった。


「マクヘルガと何があったのか、ニナは話してくれなかった」

「い、イアンとは、私、」

「クィディッチの相談だって言って、ヒューと二人でさ、本当は別のことを話していたってこと、知ってる」

「それは、サミュエル、」

「分かってるよ、大丈夫、分かってるんだ。大したことじゃあないんだよ。悪気だってないし、特別腹を立てるのもおかしなことだって、ちゃんと、分かってるんだ」


ローブを掴んでいた私の手を、サミュエルが掴まえた。何を言われたわけでもないのに、私には彼の左手が離せと言っているように思えて、そうっと、彼のローブから手を離してしまった。
廊下の天井まで届く背の高い窓の向こうに、湖が見える。湖面の波は、マーピープルだ。小さな波を立て、森の様子を伺うように顔を覗かせては水底へと沈んでいく姿が横目に映り、私は今になって、この場所に、そうだ、サミュエルと来たことがあると、ここで話したことがあると、思い出した。


「それでもね、分かっていても、悪気がなくても、凄く、嫌だったんだよ。僕だけが除け者になったみたいな、そんな気持ちになるんだよ」


それが例え、気のせいであっても、そう思うともうそこから抜け出せないんだ。
この階には、教室がない。空き部屋が並ぶ廊下を、魔女も魔法使いも通らなければ、ゴーストも、ピーブズだって通らない。時折聞こえる足音や話し声は私達がここにいることにも気付かず、くすくすと笑い声を引き摺って通り過ぎていってしまって、サミュエルの滑らかな声だけが、私の額に降ってきた。


「わ、私、」


謝ろうとして、喉が震える。声が出ない。声を出してしまえば、それが涙を一緒に連れてきてしまう。
息を止めて、涙を堪えるように、瞬きをせずに下を向く。何度も廊下に引っかけた爪先は擦り傷だらけで、とても汚れていた。惨めでいる気持ちよりも、ずっと酷い。
私は知らないうちに、魔女が魔法使いを嘲笑うよりもずっと酷いことを、サミュエルにしていたのだ。


「私は、サミュエル、」


窓の向こうに、ホグズミード村が見える。まだ二年生だった私達がここで交わした言葉の端々を、彼は、私は、全て思い出せるだろうか。私は、私を優しい魔女だと、賢い魔女だと言った彼のことを、覚えている。僕を信じられないかと私の顔を覗きこんだ瞳の色を、覚えている。そうして私は言ったのだ。信じられると言ったのだ。一緒にいて欲しいと、友達でいて欲しいと、言ったのだ。今なら、今更、思い出せる。
あの日サミュエルが持っていた、ラベンダーに浸したようなシルクのハンカチで、今の私達を繋ぎ止めることは出来ない。


「兄さんになら、話してた?」


サミュエルの左手が、私の手首を掴んでいる。重ねるように手を握り返したけれど、サミュエルの指は私の手のひらを撫でることはなく、私はそれだけで何もかもが消えてしまう気がした。


「マクヘルガと何があったのか、僕に話せなくても、兄さんになら、話せてた?ヒューと二人だけでしていた話だって、兄さんになら、どうだった?兄さんなら、文句を言ってくる魔法使いをヒューみたいに追い払ってさ、騎士みたいに、守れたよね。そうだ、それに、君がシモンズを呪ったと噂が流れた時だって、兄さんならもっと早く、君を守れていたのかもしれない」


頷くことも、首を振ることも出来ずに、私はサミュエルの手を握っている。どちらが冷たいのか。指先は真冬の中にいて、震えが止まらない。サミュエルの薄い唇の向こう側に、白い霧が見えた。


「何かあれば言って欲しいって、僕は、ニナに、言ったのに」


何度も聞いた言葉が、声色を変え、表情を変え、頭の奥、耳の奥、瞼の裏で繰り返し現れる。しかし、私は彼のその言葉に、どんな気持ちで言ったか知れないその言葉に、何ひとつとして返してきやしなかった。
足音が、通り過ぎずに此方に向かって歩いてくる。私もサミュエルも、その足音は聞こえていても、そちらを振り向くことはなかった。私は、目を逸らしてはいけなかった。


「魔法薬学の授業の後、君は、シモンズと約束してたんだね」


これは、私が作った、白い霧だった。


「ち、違うの、サミュエル、それは、」

「何も違ってないよ、ニナ」

「ううん、いいえ、違うの、本当は私、あの時、サミュエルに、言おうと、」

「何も違ってないよ、違わない」


サミュエルの左手が、私の手から逃れようと、ゆっくりとその身を引く。ここで離してはいけないと、私にはちゃんと分かっていた。
私はあの日、本当はサミュエルに話したかったのだ。サミュエルに、着いてきて欲しかったのだ。


「あの時、君が僕に何も言ってくれなかったことには、変わらないんだから」


しかしそれでも、その通りだ。私はサミュエルの言った通り、あの日に、あの時に、彼には何も、言えなかった。言わなかった。そうしてそうすることを選んだのは、他でもない私なのだ。
教室を出る彼を呼び止めて、一緒にいて欲しいと言えば良かった。違う、もっと早く、初めから、何があったのかと、訊いておけさえすれば良かったのだ。サミュエルが私にそうしてくれたように、私も彼に、何があったのかと、訊けば良かったのだ。
私は、彼の全てに甘えていたのだ。親友だから、と、どこかで我が儘を覚えて、その我が儘で彼を追い詰めていたのだ。私は、彼ならば何もかもを分かってくれると、許してくれると、馬鹿なことを考えていたのだ。
彼は、私と同じ、まだ子供の、四年生の魔法使いだった。


「ニナ、離して」

「……い、嫌」

「離してよ、ニナ。僕は、ひとりになりたいんだ」

「嫌よ、嫌だわ、サミュエル、駄目、」

「離して、ニナ、頼むよ、」


何から謝れば良いのか、話せば良いのか。サミュエルの眉間に寄せられた不機嫌さを見付けられずに、私は離してはならないと、行かせてはならないと彼の左手を強く掴む。ひとりになれば、ひとりにすれば、彼は、サミュエルはいつ、私の隣に戻ってきてくれるというのだろうか。
きっともう、戻ってきてはくれない。


「ニナ、離して、離せよ!」


もう、とうの昔に、隣から、いなくなっていたのかもしれない。
手を振り払われ、私はその場に尻餅をつく。こんな時でさえ、彼は、サミュエルは本当に、優しいのだ。私が悪かったのだというのに、サミュエルは私を突き飛ばしてしまったと眉を下げ、私を振り払ったはずのその左手は、私の手を取ろうとしては直ぐに引っ込んで、迷子になってしまった。


「何をしている!メイフィールド!」


しかし結局、迷子になった左手は、私の元へとやって来てくれることはないのだ。
箒よりも真っ直ぐに、鋭い声が飛んでくる。誰のものか、と確かめるより先にプラチナブロンドの長い髪が視界に飛び込んできて、私は尻餅をついたまま、呆然とその後ろ姿を見上げていた。
彼は、アブラクサス・マルフォイは、いつからそこにいたのだろうか。


「違う、僕は、」


ああそうか、あの足音は、通り過ぎずにいたあの足音は、彼のものだったのだ。
彼は何だって、私とサミュエルの間に立っているのだろう。私に背を向けて、サミュエルを前に立っているのだろう。上擦った、滑らかではないサミュエルの声がマルフォイの肩の向こうから聞こえて、私は腕に力を込めようとする。だってこれじゃあまるで、サミュエルが私をわざと転ばせたみたいじゃあないか。
廊下についた手のひらで、立ち上がろうと力を込めてみる。しかし、何が起こったのか、力が入らない。私は立ち上がることも、腕を伸ばすことも、出来ない。


「…………ごめん」


何を、謝るのだろう。サミュエルは、何を、謝ったのだろう。
マルフォイの肩が邪魔をして、サミュエルがどんな顔をしていたのか、私には見えなかった。遠ざかるのは、彼の足音だ。静かすぎる足音を、私はやはり立ち上がることが出来ず、追い掛けることも出来なかった。


「……全く、何事かと黙って見ていれば何なんだ、魔法使いが魔女に手を、」


マルフォイの踵が、振り返る。私は尻餅をついたまま、自分の膝を見下ろして、ジャックに向けた盾の呪文が間に合わなかったあの時だ、そこに出来た傷から何故だか血が滲んでいたことに気付き、ぼうっとそれを見下ろした。
サミュエルを追い掛けようと、魔女にぶつかったあの時だろうか。走ったせいだろうか。塞がりかけていたはずの傷は、ほんの少し、開いていた。


「おい!血が出ているじゃないか!?」


痛みはない。本当にほんの少し、傷が開いただけなのだから。こんなことは、どうだっていいのだ。それだというのに、もしかするとマルフォイは、これが今出来た傷だと思ったのかもしれない。まるで初めて膝から血が出ることを知ったかのような、恐ろしく戸惑った様子で私の前に跪いたので、私は膝から彼の細い首筋へと視線を上げる。
青白い顔色は、いつものことだ。いつものことだけれど、いつもよりもずっと青白く見えて、私はそれがおかしなことのように思えた。


「おい、血を拭うものはあるのか?こういうのは、ハンカチで押さえればいいのか?」

「……………………」

「おい、ラヴィー、聞いているのか!」


彼の瞳は、アイスブルーだ。サミュエルのグレーとは、違う、アイスブルーだ。
怒鳴る声で言いながら、マルフォイは皺のないハンカチをローブの内ポケットから引っ張りだし、四つに折り畳んだそれを手に、私の膝の真上で動きを止める。それから瞬きを二回、彼は眉をきつく寄せて私の右手を取り、私の手にハンカチを握らせたかと思えば、まるで玩具を動かすように私の手で膝の血を拭わせた。
彼は一体、何をしているのだろうか。
私は、何をしているのだろうか。


「お、おい、これでいいのか?ラヴィー、返事をしろ、ラヴィー、」


私の名を呼んで、マルフォイは何故だか、ぎょっと目を丸くする。そうしてそれから視線をあちらこちらへと泳がせて、最後にはばしゃんと溺れさせてしまった。
手に力が入らない。膝を押さえていたハンカチが床に落ちてしまって、私はそれを拾い上げようとして、しかしやはり、手に力が入らない。だから私は、追い掛けることが、出来なかった。


「…………おい」

「……………………」

「……な、泣くな」


マルフォイは、何を言っているのだろうか。私はきっと、彼の言う所謂変な顔をして、彼を見たはずだった。泣いてなんか、いなかった。


「……泣いてないわ」

「………………」

「私、泣いてなんか、いないわ」


喉の奥で、息が震えて、そこで漸く、手が動く。冷えたそれでハンカチを拾えば、私の爪は酷く真っ青で、ローブの裏地、カナリアイエローではない彼のそれを思い出した。
サミュエルが、行ってしまった。ごめんと一言、それだけを置いて、行ってしまった。
私は一度だって、彼に、謝れていないのに。私が彼に、謝らなくてはならなかったのに。


「……マルフォイの言うとおりだったわ。私はいつも、そうだわ、いつも、余計な、ことを、」


余計なことを、考えなければよかった。イアンにしてしまった失礼なことを、恥ずかしいだなんて思わず、隠さずに言えば良かった。ジャックにキーパーを勧めろとヒューが言うのだと、肩を竦めて言えば良かった。ジャックと話さなくてはならないのだと、不安だから側にいて欲しいと、言えば良かった。
私はいつだって、サミュエルをアンドリュー先輩だったらだなんて思ったことはなかったということを、その事実を、言えば良かった。


「サミュエルを、傷付けてたんだわ、私、私、サミュエルを、あんなに、傷付けてたんだわっ……!」


何から謝れば良いのか、話せば良いのか、そんなことは、関係なかったのだ。
堪らず手のひらで顔を覆えば、アンドリュー先輩の甘い香水の匂いがする。ぽたぽたと手のひらに落ちるのは、何だろうか。私は喉が苦しくて、それを確かめることも出来なかった。確かめたくもなかった。こんなもの、何の意味もないのだ。
私は、何てことをしてしまったのだろう。


「な、泣くな、ラヴィー、おい、」


友達でいて欲しいと言ったこの場所で、まさかこんなことになるなんて、私はどうしてもっと早く、どうして私は。ああ、サミュエルが、行ってしまった。誰よりも優しく、いつだって私のそばにいてくれたサミュエルを、私が追い詰め、行かせてしまった。


「……ラヴィー、泣くな。僕は、いいか、あのエインズワースみたいに、魔女の慰め方なんか知らないんだ」


困った声が、私の肩を撫でる。プラチナブロンドの髪を揺らして私の顔を覗きこむマルフォイは、どうしてこんな時にアルヴィ先輩の名前を出すのだろうか。手のひらに出来た水溜まりは大きくなるばかりで、私は初めて、マルフォイの肩に額を押し付けた。
マルフォイのローブも、ぎこちなく肩に置かれた手も、アールグレイの匂いはしなかった。


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -