ベイクドビーンズの隣にはスクランブルエッグに、焼いたマッシュルーム。クランペットの上には両面をこんがりと焼いたフライドエッグがたっぷりの胡椒を身に纏い座り込んでいて、考えるに多分きっと、汽車の中で食べるようにと母さんが杖を片手に用意していたサンドウィッチの間にも卵とマッシュルームが挟まれているのだろうし、手のひらよりも小さく丸いカスタードタルトには、いつもよりも倍の数の卵を使ったことだろう。折角貰ったのだから、と、その後に私の知らない母さんの国の言葉を何度も繰り返し呟き持たされたそれらからは、いつまで経っても卵の甘い匂いがして、ホグワーツ特急の吐き出す蒸気がホームに流れる今もまだ、『グールお化け 家庭に住み着いた時 その対策』の隣、鞄の中から甘い匂いがしている気がした。
明日の朝には、私は頭からマッシュルームの生えた鶏になっているんじゃあないだろうか。そうでなきゃあ、今夜夢でマッシュルームと鶏に襲われるに違いない。


「それじゃあニナ、気を付けて。勿論父さんはニナがビーターで嬉しいが、ニナは魔女なんだ、箒に乗って怪我をすることがないように……」

「大丈夫よ、大丈夫だから父さん、もう良いでしょう?だってトムももう行ったし、私ももう乗りたいの」

「いやいや、ニナ達を送る為に仕事を全部午後に回してきたんだ、もう少し!」


そんなことを考えながら、朝から無理矢理に食べ過ぎてしまったせいで、何せお皿を空にする度に母さんがフライパンからフライドエッグを滑り落としてきたのだ、未だ空腹に鳴る気配のないお腹をさすり、私の肩を掴んだ父さんを見上げる。
キングス・クロス駅は九と四分の三番線から、ホグワーツ特急乗り場へ。私の後ろにぴったりくっついて歩いていた筈のトムは、前を歩いていた父さんが振り返るなり突然現れたアルファードに拐われるように連れていかれてしまった。俺が勝った!と叫ぶ彼の後を、悔しげな顔をして息を切らしたグリフィンドールの魔法使い二人が駆けてきたので、どちらが先にトムを見付けられるか勝負をしていたのだろう。そんな風にトムを連れ去られてしまった父さんの瞳は寂しさに赤く、私は困ってしまった。
父さんといたくないわけじゃあないのだ。ただ、早くミネルバやサミュエルにヒュー、彼女と彼等に会いたいだけで。


「父さん、私ね、四年生よ。もう四年生なの。今朝は寝坊をしなかったし、怪我もきっと、もうしないって約束するし、背だってほら、父さんよりは勿論小さいけれど、伸びたでしょう?」

「…………大きくなったよ、本当に」

「うん、そうなの、大きくなったの。だから心配しないで、父さん」


私の言葉が、私を引き留めようとする父さんに対して正しいものだったか。父さんの大きな、ここ数日の仕事で出来た火傷の痕の残る手のひらが肩から背中へ、それから私を抱き寄せて、熱い息が旋毛に埋もれたものだから、答えは分からない。父さんのハグは長いものもあれば、うんと短いものもあるのだから。
それにしたって、こんな風に抱き締められるのは、久し振りだ。父さんの薄いサマーコートから、今朝飲んだ珈琲の匂いがする。私はその匂いが好きなわけではないけれど、これが父さんの匂いなのだと思えば不思議と鼻に皺は寄らず、私は黙って父さんの背中を撫でた。
もう何回と、抱き締めて貰えることはないのだろう。


「魔女は一瞬でレディになるだなんてこと、誰も教えてくれやしなかったなあ」


旋毛に触れた唇が、私の髪を食べながら話している。このハグは、それなりに短いハグだったようだ。
腕を広げ、父さんが私をはなせば、父さんの後ろ、ダークブラウンの髪を持つ魔女の肩越しに私を見つめる魔女の瞳を見付けてしまい、私は少し、杖の先程恥ずかしくなる。それが大きくなるにつれ、私は父さんの背中に腕を回せなくなり、そんな私に気付いた父さんはきっと、私を抱き締めなくなるのだ。


「仕方がない、汽車が君を連れていってしまうことを許すとしよう」

「ま、また帰ってくるわ、ちゃんと」

「ああ、そうじゃあなければ乗せるものか」


前髪を意味もなく撫でた私の手をとり、父さんが笑う。忘れ物をしたのか、上級生の魔女と魔法使いがふたり、青い顔をしてホームを左から右へ駆けていくのを横目に、私は父さんのダークブラウンの瞳だけを見つめた。
こうしてしまえば、恥ずかしさなんて忽ち消えてしまうのだ。


「トムにも色々言いたいことはあったけれど、仕方がない、ニナ、トムに、…………よろしくと伝えて」

「うん、うん、分かったわ、父さん」

「うん」


本当はトムに、何を伝えるつもりで仕事を午後に回したのだろうか。たっぷりと空気を噛んで、よろしくとだけ吐き出した父さんに頷けば、父さんは私を真似るかのように頷き、それから視線で後ろ、汽車を指した。
コンパートメントの窓から、形の良い瞳と高い鼻筋が覗いている。は、と慌てて本で顔を、それも魔法史の教科書で隠した魔女は、間違いない、ミネルバだ。


「ニナ、最後にもう一度だけ、良いかな?」

「何度だって、父さん。乗り遅れないのなら」

「ありがたい、けれど大丈夫、一度だけ、少しだけで」


そう言って、父さんは本当に一度だけ、少しだけ私を抱き締めて、満足したのだろう、私の肩を撫でるように叩くとそのまま私のトランクを杖でひと振り乗せてしまって、私はそれを追い掛けるように汽車へと乗り込む。あ、とそこで手を振ってくれたのは通路を通り過ぎていくチェイサー、アッカー先輩で、彼女のユニコーンの尾の髪は休暇前よりも長く伸びていた。


「それじゃあニナ、気を付けて。愛しているよ」

「私もよ、父さん」


父さんの投げたキスを横顔で受け止めて、私もキスを返せば良かっただろうか、と踵の後ろで小石を踏んづけたような気持ちで、トランクを持ち上げる。ズボンのポケットに杖と左手を隠した父さんは、そんな私に気付いたに違いない。穏やかなダークブラウンの瞳がもう一度私に向かってキスを投げたので、今度はきちんと私もそれを返した。


「ニナ」

「あ、ヒュー」


もしかすると彼、通路の壁になったかのようにそこに立っていた藍色の魔法使い、ヒューは、ずっと私を待っていてくれたのかもしれない。
ホームの人混みに父さんが飲み込まれるように立ち去ったその瞬間、それを見計らったかのようにヒューが私の名を呼んだので、私は思わず口許を隠す。父さんに投げたキスを、彼は見ていただろうか。


「グローブ、新しいの買ったって?」

「えっ?」

「手紙に書いてただろ。ちゃんとドラゴンの革のグローブにしたか?エルンペントじゃないだろうな?」

「あ、う、うん、ドラゴンにしたわ、エルンペントじゃあないわ」

「エルンペントの革は馴染むのに一年はかかるからな。馴染む頃には来年の新学期だ」


しかし、見てはいなかったのか、見ていたとしても、それをからかうつもりはなかったのか。まだ汽車も出ていないというのにもう制服にローブを着込んだ彼が、いつも通り、つまらなさそうな顔をして、深く被ったフードの下で瞬きをする。そうしてそのまま、私のトランクを持ち上げて、ヒューは直ぐそこ、二つ先のコンパートメントの中へと放り込み、来いよ、とコンパートメントの中から私を手招いた。


「ニナ!ごめんなさい、邪魔をするつもりなんて無かったのよ!ただ貴方がいたから、視線が離れたがらなくって!」


そして、手招かれるままに覗きこんだコンパートメントの中から飛び出してきたのは、教科書を片手に半分立ち上がったミネルバのきんと大きな声だった。
鼓膜から頭を殴られたような感覚にくらりと仰け反った私を、ミネルバの手が掴まえる。彼女の白い手は随分と触れていなかったにも関わらず、まるでつい先程、瞬きの間の一瞬だけしか離れていなかったかのように私の手を当たり前に握り締めたので、私も彼女の手を握り返した。


「み、ミネルバ、久し振り、とっても久し振りだわっ」

「ええ、本当に!ニナ、あなた背が伸びたでしょう。此処から眺めながらずっと考えていたのよ、あなたのスカートが短いんじゃあないかって!」

「えっ、そ、それで見てたの?スカート、短い?」

「別に、動きやすそうだけど」

「ガーランド!女性の脚を見るものじゃないわよ!」


ミネルバのつり上がった眉にヒューはフードを口許まで引っ張り下げ、何なんだよ、と不満げな声を溢す。そんな彼と彼女を見ながら、私はスカートの裾を確めるように撫で付け、短いのだろうか、と肩を落として膝を撫でた。歩く度に他とは違う、湖の底のようにゆらゆらと揺れるこのスカートを、私は気に入っているのだけれど。
がたがたと、汽車はもう間もなく出るようだ、汽笛を鳴らして窓ガラスを揺らしたので、ミネルバは膝を揃えてそこに座り直す。くすんだグレーのスカートは大人びていて、その裾にすっぽりと隠れた膝を見た私は、やっぱり短いのかもしれない、と、みっともなく半分覗く自分の膝を手のひらで覆うように隠した。
ヒューは特別そうは思わなかったみたいだけれど、このスカートはトランクの奥に片付けた方が良いのかもしれない。


「ねえ、サミュエルは?サミュエルはどうしたの?」


そこまで考えて、サミュエルはどう思うのだろうか、と、広くもないコンパートメントを見回して、私は首を傾ける。いつの間にヒューは私のトランクをそこに乗せてしまったのか、荷物棚にはミネルバにヒュー、私のトランクに、それからきちんとサミュエルのものが乗せられていて、まだ来ていないわけではないのだと通路を覗いた。


「メイフィールドならレイブンクローの先輩に用事があるって言って、コンパートメントを出ていったわよ。……そういえば、そうね、遅いわね。何の用事なのかしら」

「もう戻ってくるだろ」

「私、少し見てくるわ、探してくる」


スカートの裾は伸びないと分かっていながら、膝が少しでも隠れるようにとそれを引っ張り立ち上がる。すると何を言うでもなくヒューも立ち上がったので、私は留守番ね、とミネルバが呟き、魔法史の教科書は彼女にとって暇潰しの相手なのだ、膝の上で軽い読み物でもするかのような顔をして教科書を開いていた。


「サミュエル、どっちへ行ったの?」

「あっち。別に、待ってたら来るだろ」

「んん、でも、早く会いたいもの。そうでしょう?」

「………………」


そんなことはない、と言いかけた口が空気を噛んで閉じたのは、彼もまた、私がコンパートメントへと来るのを待たずに通路に立っていたからだ。
ふふ、と笑えば、ヒューは私の背中を曲げた中指で押してきて、私はそれにまたふふふと笑う。開いたコンパートメントを探してすれ違った上級生の魔法使い二人からは、私だけが笑っていたように見えただろう。何せヒューはまたフードを深く被り、顔を見えなくしてしまっていたのだから。
ニナ・ラヴィーは気味の悪い魔女だと噂が旅をしなければ良いのだけれど。冗談を半分、残りは真面目にそんなことを考え、隣の車両へと移る。ジェイン達三つ子の森梟も、イアンとジャックもいないその車両に、彼、くすんだ赤毛はいた。


「サミュエルっ」

「お、いた」


あ、と思ったのは、サミュエルの透けるように白い顔が一瞬、瞬きの隙間に、ふ、と、眉をひそめて私を見たせいだった。


「おい、何で止まるんだよ」

「二人でどうしたの?もしかして、わざわざ迎えに来てくれたの?」

「…………あ、う、うん、そう、そうなの」


驚きと不安に、息が詰まる。まるで見たくもないものを見たかのようなあの目は、視線は、気のせいだったのだろうか。
胸から指先へ、冷えた血が駆け巡り、頭の中でどくりどくりと心臓の音が響いている。いつものように穏やかに笑った彼に頷きながら、私の瞼の裏側には彼のその一瞬が根を張っていて、続きなんて見てもいない筈なのに、瞬きをする度に勝手に続きを映し出していく。
どうしてわざわざ、迎えに来たんだ、と、瞼の裏側の一瞬の筈の彼は言っていた。


「ありがとう、もう用事も終わったから、コンパートメントに戻ろうか」

「う、ん、」

「あっ、そうだ、手紙、なかなか返事を書けなくてごめんね。兄さんが家を出てから何だか目まぐるしくてさ」

「いいの、だっ、大丈夫よ、大丈夫だから」


だけれどそれは、私の瞼の裏側の出来事だ。瞼の外、目の前の彼は、ヒューがつまらなさそうな顔をしているのと同じように、くすんだ赤毛の前髪の下でやわらかに微笑んでいる。
それだというのに、奇妙にお腹の奥で居心地の悪さを感じたのは、彼、サミュエルから、アールグレイではない匂いがしたせいだ。
これは、いつからだっただろうか。この匂いを、私は以前にも嗅いでいた。


「おい、早く行こうぜ。汽車が出る」

「分かってるよ。ニナ、行こう」


そうだ、これは確かアンドリュー先輩と同じ香水の香りで、そうしてその時彼は、そこに現れた私を見るなり一瞬、おかしな顔をしたのだ。
サミュエルが、手を差し出すことなく私を通り過ぎ、歩いていく。それはきっと、特別何も意味はないことだ。ミネルバの白い手が私の手を当たり前のように掴んでも、サミュエルの骨ばった手が私の手を掴むことは当たり前のことではなく、滅多としてないことだ。
だけれどその特別意味のないことに、今は酷く恐ろしい、それを探ろうとするだけでまっ逆さまに暗闇へと落ちてしまう気になってしまう程の理由が息を潜めてそこにいる気がした。


「ニナ?どうかしたの?」

「……あ、あの、サミュエル、」

「うん、なあに?」

「…………朝、食べ過ぎたの、卵とね、マッシュルーム。だから、少し、お腹が苦しいの。それだけだわ」


父さんがよろしくとだけ吐き出したように、私はそれだけだと吐き出して、お腹を擦る。優しいサミュエルは困ったような、心配そうな顔をして、そうっと私の肩に触れてくれたので、私はほうっと、彼に気付かれないよう息を吐く。
サミュエルがあんな顔をして、私を見る筈がない。だって私達は、親友なのだ。


「大丈夫?コンパートメントで休もう」

「ただの食べ過ぎだろ、直ぐに治るって」

「ヒュー」

「……肩、貸してやろうか」

「い、いい、平気、直ぐに良くなるわ、ヒューの言った通り、直ぐに治るから、きっと」


アンドリュー先輩がつけるそれと、サミュエルがつけるそれは同じだろうに、何かが違う。だけれどそれが何故なのか、私には分からない。
ふ、と見上げた彼、サミュエルはやはり心配そうな顔でそんな私を見ていた。


「じゃあ戻ろうぜ、こんな所にいつまでもいたら汽車が、っと、」

「動き出しちゃったね。ニナ、歩ける?本当に大丈夫?」

「う、うん、大丈夫、ありがとう、サミュエル」


がたん!と大きく揺れた汽車がぼうぼうと汽笛を鳴らし、ゆっくりと走り出す。背中を支える彼の手には何もおかしなものはくっついておらず、私はひとり頭を振り、細く短く、息を吐いた。


「ほら、行くぞ」


早く、と急かすように大股で歩き出したヒューを追うように、サミュエルが私の背中を抱くように歩き出す。時おり私を気遣うように顔を覗き込んでくるサミュエルに、やはり気のせいだったのかもしれない、と私は瞼の裏側に根を張る彼を無理矢理に追い出して、大丈夫だ、と頬をゆるめて笑うのだった。


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