「ラヴィー、重くない?」

「うん、平気よ、全然平気、大丈夫」

「それなら良いんだけれど」

「うん」

「…………本当に平気?店主に言って、ラヴィーの家に届けるようにした方が……」


イアン・マクヘルガという魔法使いは、魔女とはティーカップとティースプーンを持つだけで疲れてしまうものなのだと思っているのかもしれなかった。
マホガニー色をしたドラゴンの革のグローブ、防衛術の教科書に呪文学の教科書。リストに乗ってはいなかったけれど、私はそれが苦手なのだ、古代ルーン文字学の授業に役立つであろう分厚い本を二冊、買ったばかりの真鍮の魔女鍋に詰め込んで店を出る。ダイアゴン横丁からひとつ西にずれたその横丁の本屋の主人、くもった眼鏡をかけた魔法使いはイアンの知り合いらしく、買った本を屋敷に届けるようにと伝えて荷物のない彼はしきりに私にもそうするようにと勧めたが、折角の買い物なのだ、錆ひとつない魔女鍋に皺もインクで汚した後もない教科書を詰めて歩けるのは今だけで、私はそれを断った。


「イアン、大丈夫だわ、だって私ってビーターだもの」

「ビーターでも、魔女は魔女だ」

「でもきっと、多分、もうひとつ魔女鍋を買ったって平気だわ、私」

「そんなこと、……それって本当?」


家に届けなくても良いのだろうか、と、カウンターの奥、くもった眼鏡越しにグリーンの瞳が狭い本棚の隙間を通っていく私を見ていたので、本当に大丈夫なのだ、と見せ付けるように抱えた魔女鍋を落とさぬようにぴょんと跳ねてみせる。からんと鳴ったのはグローブを買った時におまけにと貰った閉じたスニッチの小さな置物で、魔女鍋の中をからからと転がった。


「うん、本当に。試してみる?」

「……いや、いいよ。ラヴィーに三つも四つも魔女鍋を抱えられたら、僕はその倍は抱えられるようにならなくちゃいけなくなるから」


からんと鳴ったのは、今度は店の扉についた銅製のベルだ。
私の後ろから扉を開けてくれたイアンを振り返れば、横丁を歩くにしては随分と不釣り合いな、ドレスローブとも呼べるかもしれない格好をした彼が前髪を後ろに撫で付けながら笑って、一応魔法使いだからね、と不思議なことを言う。一応だなんて、私は彼を魔女だと思ったことなど一度も無いのだけれど。


「それより、ごめん、自分から誘っておいてあまり時間がとれなくて」

「ううん、いいの。だって、まだ用事があるんでしょう?彼女、慌ててたものね」

「……あれがいなかったら逃げ出せるんだけどなあ」


そう言って、店を出たイアンは穏やかな、それでいて何処か棘のある声で横、店先で大人しく待っていた小さなその姿を見て、ふ、と浅い溜め息を吐く。漏れ鍋から二件隣、艶のあるカーテンで遮られ、店内を覗き込むことが出来なかったその店先、待ち合わせ場所に現れたイアンの斜め後ろから顔を覗かせたのは、大きな目玉が可愛らしい屋敷しもべ妖精、小さな彼女だった。
上流階級の魔法族というものは、短い夏の殆どをパーティーやお茶会をして過ごすらしい。その隙間を縫うように、せめて友人と教科書を買いに行くことくらいは許してくれないかと頼んだイアンに、友人という名前の後ろに隠れていたのがジャックではなく私だと気付いたらしいミセス・マクヘルガは頷き、そうとは気付かず、しかし一人出歩くことには首を振れなかったらしいミスター・マクヘルガは彼に屋敷しもべ妖精を連れていくことを条件に、午後のお茶会までの一時間、自由と呼んでも良いのか分からない自由を与えたのだ。ドレスローブのような、横丁を歩くには綺麗に着飾りすぎているその格好は、そのためだ。


「それに、屋敷しもべ妖精が魔女にスコーンをプレゼントだなんて、恥知らずも良いところだよ」


ハッフルパフでない誰かの話をする時と同じ顔で、イアンは言う。ミセス・マクヘルガが私に気付いていたように、彼女、屋敷しもべ妖精の彼女もまた、私に気付いていたのだった。
イアンの斜め後ろから顔を覗かせ、まるで割ってしまった花瓶を見せるかのように怯えた様子で彼女は母さんは焼かない、都会風のチーズとバジルのスコーンを五つも包んだナプキンを差し出してくれた彼女を見たその時のイアンの今にも倒れてしまいそうな真っ青な顔を、私は暫く忘れられないだろう。
この夏気に入りのスカートのポケットに無理矢理に詰めたせいだ。あまり暑くはない、しかしやはり夏らしい眩しい陽射しに伸びた私の影の右腰は不自然に膨らんでいて、それを見付けたイアンが店から出た私達に気付き駆け寄ってきた彼女を咎めるように睨んだが、私は胸を張るようにスカートを撫でた。


「嬉しかったわ、私。だって、私ね、彼女のスコーン好きだもの。丸くて艶があって、都会風で、好きだもの」

「……ラヴィーがそう言うなら、良いんだけどさ」

「うん、私が嬉しいから、怒らないでね」

「…………分かったよ、分かった。ラヴィーの仰有る通りに」


降参だ、と両手をあげたイアンとそんな彼に笑った私のやり取りを、首を傾げて見上げた彼女が知ることはないのだろう。彼女が知っているのは、夏休みが明けてからの授業のこと、最近よく飲む紅茶のこと、ジャックからレポートがひとつも終わらないという手紙が三つも届いたこと、そんな話だけだ。


「おい、気を付けろ!」

「おっ、と、す、すまねえ、すみません」


ダイアゴン横丁よりも人通りの少ないこの通りでは、周りの声も此方までころころと転がってくる。スラグホーン先生のお腹でさえも隠してしまえる大きな背中をした魔法使いが、よたよたと後ろに数歩、辺りを見回して、また歩き出す。半巨人だ、と眉を寄せたのはイアンと前を通り過ぎていった背の低い魔女で、私はふ、とその時、何かが足元を駆け抜けるような風を感じた。
何だろうか。


「何だってここにあんな……ラヴィー、どうかした?」

「んん、今、何か、足元にね、何か……」

「足元に?」

「……いたような気が、したんだけれど、気のせいみたい」


石畳の通りを見回して、私が言えば、イアンは何が可笑しかったのか、一瞬驚いた顔をしたかと思えばベリーの紅茶の香りがしそうな瞳を細めて笑い、そういうところがラヴィーだ、とまた不思議なことを言う。イアンが魔女には見えない、いつだって魔法使いであるように、私もいつだってラヴィーなのだけれど。
ストロベリーブロンドの前髪は、夏の間に長く伸びていた。後ろに撫で付けた前髪に触れながら、イアンは襟元を正し、そろそろかな、と苦い顔をする。彼の自由と呼んでも良いのか分からない自由は、お茶会のティーカップの底に溶けてしまうのだ。


「家まで送れなくて申し訳ないんだけれど、もう行かなくちゃ」

「ううん、ありがとう、大丈夫だわ。だって母さんが迎えに来てくれる約束だから」

「何処まで迎えに来てくれる約束を?せめてそこまで送りたいんだけれど」


ダイアゴン横丁の漏れ鍋まで。言おうとして、大きな目玉がそわそわとイアンを見上げたことに気付き、私は肩をひょいと竦めて首を振る。小さく跳ねたのは、屋敷しもべ妖精の彼女だった。


「直ぐそこなの、あの角なの。だから良いの、私がイアンを見送るわ」

「……それって何だか嬉しいなあ。そうしたら、見送ってくれる?」

「ええ、うん、勿論」


私が笑って頷けば、屋敷しもべ妖精の彼女は慣れたようにイアンの左隣へと回り込み、イアンは細いその肩に左手を乗せる。そうして小さな手が指を鳴らそうとしたその瞬間、イアンはその手をおさえて背中を丸め、私の鼻先を微かに甘い、スペアミントを混ぜたような魔法使いの匂いが撫でた。
イアンの唇が頬に触れる直前で、私は彼の瞳を見上げる。ベリーの紅茶の香りがするか、確かめてみようかと考えたのだ。


「っ、」


もしかすると、彼はそれに気付いたのかもしれない。


「え、と、そっ、それじゃあ、ほ、ホグワーツ特急で、」

「あっ、うん、またね、また、ホグワーツ特急で」


驚いたように、不自然に素早くイアンは離れ、鳴らさないようにとおさえていた彼女の手を揺らし、私が香りを確かめる前に、ばちん!とそこから姿を眩ました。突然のことにそばを歩いていた三人組の魔女達が肩を跳ねさせて此方を振り返ったが、音の正体である彼と彼女はもうおらず、私がひとり立っているだけだった。


「……今度、謝らなくちゃ」


私は多分、失礼なことをしてしまった。
驚いたように離れた彼を思い出し、私は前髪を撫で付ける。今朝、うんと丁寧に櫛を通した短いそれはどこも跳ねてはいやしないが、しかしそれでもあちらこちらに跳ねていたかのような気恥ずかしい気持ちになり、私は短く息を吐く。あんなに直ぐ近くで瞳を覗き込まれるのは、彼は嫌だったに違いない。
とん、と肩を叩かれたのは、思わずまた息を吐いた、その時だ。


「あ」


赤くなった丸い瞳は、私を見ていた。






「あ、いた、ニナっ」


ダイアゴン横丁の横路、何という名前の横丁なのか、あまり人通りのないそこに立っていたニナを見付けたのは、必要のない冒険譚、それも六巻も続くそれを買い、教科書と合わせると塔のように高く積み上がった本の山に前が見渡せなくなったアルファードではなく、勿論僕だった。
拡張呪文のかかった鞄を肩にかけ直し、誰かに手を振り別れるニナの背中に声を投げれば、ニナは驚いたのだろう、弾かれるように此方を振り返り、あ、と口を開ける。友人と会ったのだろうか、と浮かんだ疑問が薄暗い疑心に変わったのは、ニナの視線が彼女の抱える魔女鍋へ、そろりとぎこちなく僕から逃げたからで、僕はあくまで何でもない顔をしてニナに駆け寄った。
からん、と、真鍮の魔女鍋が音を立てた。


「ニナ、もう全部買い終わった?僕もアルファードももう買い揃えたから、ニナがまだなら一緒に店を回ろう」

「あ、ええと、買ったわ、買った、大丈夫っ」

「そう?それならハツが迎えに来るまで三人でお茶でも、あ、誰かに会ってたみたいだけれど、良かったらその人も誘って……」

「だ、大丈夫っ、今行ったわ、もう行ったわ、帰ったからっ!」

「帰ったって、今別れたのならそこにまだ……」


からからと鳴るのは、何なのだろう。ニナの肩越しに向こう側を見た僕を遮るように、ニナが背伸びをする。しかしそれには何の意味もなく、一歩右にずれてしまえば簡単にニナの後ろ、彼女が今別れたばかりの誰かを確かめることが出来て、ニナは魔女鍋を抱えたまま大きくあ!と叫んだ。
くたびれた帽子をかぶった魔法使いに、魔法薬を誤ってひっくり返したかのような染みのあるローブを着た魔女。若い二人組の魔法使い達は特別暑い日でもないというのに肩までシャツの袖を捲り上げ、ぐねぐねと左右に曲がった店、パブの前に座り込んでいた。そしてそんな彼等の前を、ちらりと此方を振り返りながら歩いていくずんぐりとした背中が通り過ぎていった。


「…………ニナ、誰に会ってたの?」


僕の知る誰かは、ストロベリーブロンドやくすんだ赤毛の魔法使いは、そこにいなかった。


「…………あの子よ、あの背の高い大きな子」

「あの子だって?あれが、あの子だって?あの人の間違いじゃなく?」

「そう、あの子。今年からホグワーツに通うんだって言ってた」


そうだ、僕はあのずんぐりとした背中を、ダイアゴン横丁で見ていた。
丸いコガネムシのような瞳がニナをちらりと見て、ニナが小さく手を振れば、僕よりも年下らしい彼は太い眉を上げて笑い、今度こそ前を向き歩いていく。太いその腕は何かを捕まえている様子で、時折それをあやすように左右に揺れながら、人通りの少ないその通りの向こうへと消えていった。


「あのね、あの子、魔法動物を、ノグテイルを逃がしちゃったから、さっきまで一緒に探してたの。凄く、とっても素早いから、ひとりじゃあ捕まえられないって困ってて」

「ノグテイル?」

「そう、そう、ノグテイル。痩せてて、小さな豚みたいな、でも、あのね、魔法生物飼育学で習ったのよ、ノグテイルは家では飼わない方が良いって。ノグテイルが住み着いた農場や村は荒廃するからって」


だから、誰にも見付からずに早く帰さなきゃって、思ったの。
ぼそぼそと、ニナはそう言って、そして僕は頭を掻く。ニナはストロベリーブロンドやくすんだ赤毛を隠したわけではなく、恐らく人目については不味いことになるのだろうノグテイルとやらを隠したのだ。


「飼わない方が良いって、一応話しはしたんだけれど、でも、多分、それを決めるのは私じゃあないし、彼、目を真っ赤にして探していたから、んんん、でも、やっぱり……」

「……まあ、何にせよ、見付かって良かったね」

「うんっ」

「あ、ああ、いた!いた!トム!それにニナも!全く酷いや、こんなに荷物を抱えた俺を置いて行くだなんて!」

「あ、アルファードっ」

「やあ、アルファードだとも、久し振りだ!ニナ、背が伸びたかい?困ったなあ、ローブの中に隠せないや」


大人の魔女や魔法使いに伝えるべきだろうか、と、困ったように視線を泳がせたニナの頬をゆるませたのは、山のような本を抱えてやって来たアルファードだった。こういう時、彼のよく響く大きな声はどんな都合のいい魔法よりも役に立つ。
ローブの中に?と首を傾げたニナに、アルファードはにやりと笑いながらアルヴィ・エインズワースの名を口にしようとしたので、僕は彼の口が声を出す前に彼の脇腹を肘でつく。すると彼の抱える本はぐらりぐらりと右へ左へ大きく揺れて、アルファードは彼の名前の代わりに慌てたような声を上げた。


「ああ!?何てことを!おおっと、と、」

「わ、アルファード、あの、半分、持つ?私の鍋の上に乗せる?」

「平気だよ、ニナ。アルファードは持ちたくて持ってるんだから。そうだよね?アルファード」

「え?ああ、まあね、だって折角自分でカウンターに並んで買ったんだ。これを自分で持って帰れるだなんて、愉快な気分になれる良いことだと思わないかい?」


買ったばかりの箒を包んで家に届けさせる馬鹿はいないだろう?
頬を支えに本を抱え、アルファードは言う。何だかそれはニナも言いそうなことだ、と思った僕は、正しかったのだろう。ニナは真鍮の魔女鍋をからからと鳴らして嬉しそうに頬をゆるめ、返事はなく、しかし確かにアルファードと同じことを考えている顔をしてその鍋底を覗き込んでいた。


「だけれどやっぱり、荷物が多過ぎるかもしれないなあ。魔女に持たせるだなんて紳士じゃない、トム、お願いだよ、上の二冊だけで良いから持ってくれないかい……?」

「だから言ったんだ、そんなに本を買ってどうするのかって」

「アルファード、私、持てるわ。持てるから、貸して」

「あああ、お願いだよニナ、俺だって魔法使いなんだ、魔女に荷物は持たせないよ!俺に余分に腕があれば、君の魔女鍋だって抱えて上げるんだけれどね!」

「え、いいわ、いいの、だって私、この魔女鍋、気に入ってるの。荷物を持つの、好きだわ」

「本当に?ニナもかい?やあ、俺達って本当に気が合うよね」

「……ニナ、カフェ・フォーテスキューでアイスクリームを食べて帰ろう。アルファードもほら、早く」


アルファードの抱える本の山から三冊をとり、ニナの背中を押すように腕を回してもと来た道を歩く。余分に腕はないが、余分に一冊とったことは、彼も気付いたようだ。随分と大袈裟な笑みを浮かべ、先程よりは見通しのよくなった視界で彼は僕の後ろをついて歩いてきて、僕はそんな彼に溜め息の混ざる息を吐いた。


「ニナ、アイスクリーム、何食べる?」

「んんん、ストロベリーか、チョコレートか、どちらか」

「それじゃあ僕がチョコレートにするから、ニナはストロベリーにしなよ。半分ずつ食べよう」

「あ、良いなあ、俺もストロベリーとチョコレートが食べたい!勿論、それが甘過ぎなければ凄く最高だ」


陽射しが、今になって夏だと自覚したのか、じりじりと頭を焦がし始める。あまり暑くはなかったこの夏が突然姿を変えて現れたものだから、僕はもう夏の休暇が終わるのだということをすっかり忘れて、僕とニナの間に割り込むように並んだアルファードを横目に見たのだった。


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