「まあ、まあまあまあ!何ですか!?どうしたらこんな事になるんです!あなた達一体どんな事にこの子達を巻き込んだのですか!?このっ……!」

「し、してないしてない!俺達は関係無いですって!」

「マダムぺぺ!頼むから早く治療を!」


まるで大きな揺りかごの中に沢山の梟の羽毛を敷き詰めたかのような意識の中で、アンドリュー先輩とニコラス先輩がマダムぺぺと言い争う声を聞いた。薄らと目を開けると大きな揺りかごは私と同じダークブラウンの色をしていたので、これはきっとニコラス先輩なのだろう。
メイフィールドは、サミュエルは何処だろうかと瞼を上げようとするが、まるで頭の中でピクシーが下手な子守歌を歌っているかのようにきんきんと音が響いて、そのせいで瞼を上げることも出来ない。けれど、薄らとしか上げられない瞼でも、彼を見つけることは出来た。彼はくすんだ赤い揺りかごの背中で、真っ赤な顔をくしゃくしゃにして泣いていた。時折私の名を呼んで、ごめんと口にしながら泣いていた。そして、右足をぐにゃりと曲げて痛いと泣いていた。


「ああ、なんてこと、大変、二人とも骨が折れてる!早くベッドへ寝かせて!ほら早く!薬を飲ませないと!」


ああ、そうだ、私達は消える階段に落ちたんだ。それも、ヴァルブルガに呪いをかけられて。だからこんなにも私の体は動かないのだろう。これはニコラス先輩の揺りかごのせいだけではなかったのだ。
嗅いだことのある、それでいてあまり嗅いでいたくはない臭いの塊の上に下ろされて、それがベッドなのだと分かるより先に冷たくて皺皺の柔らかな何かが頬を撫で、苦くて生温かい泥のようなものが喉を滑り落ちていく。それが体中を巡ると段々ピクシーの歌声は小さくなっていき、それから私の意識はマダムぺぺ特製の消毒薬の臭いの底へと落ちていった。


「ああ!ニナ、なんて酷い、酷いっ……!ごめんなさい、ごめんなさい、私があなたを一人にしたばかりに……!あの女狐、捻り潰してやるわ!」


それでも時折意識は浮かび上がって、代わる代わる聞き覚えのある声が私に手招きする。初めはミネルバの声だったけれど、きっとこれはミネルバであってミネルバではないのだろう。だって彼女は、こんな怖い言葉を口にしたことなんて無いのだから。


「ニナ……直ぐ良くなるからな、大丈夫だからな」

「何でお前が泣くんだよアンディ、気持ち悪いな。アルも薔薇とか贈るなよ、気持ち悪いな」

「……良いかい、僕に向かって、気持ち悪いとか、言うな!」


次に手招きしてきたのはアンドリュー先輩とニコラス先輩、それからアルヴィ先輩で、私を取り囲む消毒薬の臭いが微かに和らいだ理由を何となく理解した。薄らと目を開けた先には鼻を真っ赤にして私の手を握るアンドリュー先輩と、その後ろで取っ組み合いマダムぺぺに追い出されるニコラス先輩とアルヴィ先輩がいたが、また私の意識は沈んでいく。まだだよ、と、トムの皮を被ったピクシーがホットミルク片手に底へ底へと手を引いたのだ。


「なあ、だから弱虫サミュエルなんかと居ちゃ駄目なんだって……」

「こら、こんな所で言ったら駄目だよ、隣にいるのに。ラヴィー、早く直しなよ、板書は僕のを見せてあげるからね」

「………………もう行こうぜ」


それから次は、ジャックとイアンと、そしてヒュー・ガーランドだった。ジャックの言葉に浮かび上がろうとしていた意識は直ぐに思いとどまって、私はホットミルクと蜂蜜の瓶を持つピクシーを振り返る。それでも微かに鼻を擽る甘い匂いがしたので、小さな足音が消えた頃にどうにか薄目を開けると、枕元には小さなチョコレートが置かれていた。けれど、やっぱり私は底へ底へと沈んでいく。ダークブラウンの揺りかごより居心地は悪かったけれど、それでも兎に角眠りたかった。


「まあ!何ですその怪我は!あなたはレディなんですよ!?ミネルバ・マクゴナガル!喧嘩したなんて言わないでくださいよ!?」

「…………すみませんでした」


そして、この言葉でピクシーはとうとうぱちん!と消えてしまう。
ぱ、と目を開けて、霧が晴れるように鮮明に見えてきた天井を呪文三回は唱えられるほどの時間見つめて、薔薇とチョコレートの匂いのするベッドから勢いよく起き上がる。それに驚いたのは医務室の椅子に座り膝に消毒薬を塗りつけられるミネルバと、塗りつけていたマダムぺぺで、二人は私よりも長い時間私を見つめていた。


「っ……ニナっ……」


その長い長い真っ白な時間を終わらせたのは私ではなくミネルバで、彼女は綺麗な顔をくしゃくしゃにして、くしゃくしゃなのに綺麗な顔でぼろぼろ泣いた。そんなミネルバに声をかけてやりたいのだが、何故だか喉が砂漠のようにからからで声が掠れて出てこない。マダムぺぺが慌てたように湯気のたつゴブレットを持って駆けてくるが、それがお湯でも紅茶でも、ましてやホットミルクでもないことは明らかだったのでミネルバに声をかけるのは諦めたくなった。


「さあさあこれを飲んで!直ぐ良くなりますよ!午後には授業に出られますからね!」

「うっ……」


マダムぺぺの皺だらけの柔らかな手が私の首を掴み、ゴブレットは口に当てられ、そして傾けられる。待って、と言うより早く喉を滑り落ちていくその苦みには覚えがあって、ほんの少しだけ涙が出てしまった。
けほ、と咳き込み、飲み下したそれが体中を巡るのを感じ、ほっと胸をなで下ろす。そして漸く渡された水で喉を潤せば、途端に頭が覚めてきた。
ああ、そうだ、私、ブラックに呪いをかけられたんだった。


「ニナ、ニナっ、ごめんなさい、私がレポートなんかに夢中になるからっ……」

「……ミネルバ、ミネルバは悪くない。悪くないよ」

「けれど、貴方の仇はとったわ……。減点なんて気にしない、私はあの女に勝ったのよ……!」

「え、え?ミネルバ、何したの、何したの?」


膝に消毒薬をべっとりと塗りつけられたミネルバが杖を握りしめていたことに漸く気付いて、私は目を丸くする。一体何をしたのだろうかと疑問に思ったが、マダムぺぺの顔が険しいので、きっと今は訊かない方が良いのだろう。
そ、とミネルバから目を逸らし、隣のベッドを見る。カーテンの開け放されたそこには誰もおらず、真っ白いシーツが寝そべっている。皺一つ無いそれは、まるでミネルバのローブのようだった。


「……サミュエル」


ごめん、ごめんと泣きながら謝っていた彼は、今頃何をしているのだろう。マダムぺぺにきつく包帯を巻き付けられて悲鳴一つも上げないミネルバを横目に、ベッドの脇に視線を落とす。赤やピンク、オレンジや黄色にゆっくりと色を変えていく薔薇の隣にチョコレートの包みが四つぽろぽろと落とされたかのように置かれていたが、サミュエル・メイフィールドのものだと分かるものは何一つそこになかった。





──二度と 僕を 不安に させちゃ 駄目だ


私はどうやら三日間医務室のあの消毒薬の揺りかごで眠り続けていたらしい。ミネルバにハッフルパフ寮まで送られて真っ先に開いた日記帳に階段から落ちて怪我をしたのだとだけ書き込めば、ひとつひとつ丁寧に、私に言い聞かせるかのようにゆっくりと文字が浮かび上がってきた。まるでトムの気持ちをそのまま表しているようだ、と感心しながら、ごめんなさい、と日記帳に書き込む。トムの機嫌は、ほんの数回やり取りをすれば元通りだった。


「…………あ、授業」


トムとのやり取りを終えて日記帳をベッドの枕の下に直し、いそいそとハシバミ色を抱きしめる。けれど、不意に確か今日の午後は飛行訓練だったことを思いだし、窓の外を眺め、それからハシバミ色をベッドの上に置いた。
頭が妙に、すっきりしている。随分と長い時間眠っていたからだろうか。もしかすると、揺りかごの底でピクシーがくれたホットミルクに何か入っていたのかもしれない。何か、とても大切な、苦くて生温かい泥のような薬よりも大切なものが。しかしそれは、はっきりとは見えない。今だけじゃなくて、ずっと見えなかったように思う。そう、そうだ、ずっと壁があったのだ。私の前に。彼と、私の間に。自分で取り除かなくてはと思った壁が、邪魔をするのだ。


「……会わなきゃ、サミュエルに、サミュエルに、会わなきゃ」


考えればぽたりと苦くて黒い液体が胸に落ちてきて、私は慌てて部屋を出る。さっき起きたばかりとは思えないくらいに足が軽いので、マダムぺぺの腕はとても凄いのだろう。談話室に出ると同じ部屋の赤毛の女の子が驚いたように私を見たが、私は振り返ることもせず談話室を飛び出した。
冷えた空気が廊下を満たしていて、走っていて心地が良い。少し息は切れるけれど、頬を撫でる風が初めて箒に乗った日のように優しくて、足はぐんぐん進んでいく。今は、くすくす妖精も、意地悪ゴブリンもいない。危ないからお止め、と私を箒から下ろそうとする父さんもいない。
ミネルバが今の私を見たら、病み上がりに何て事を!と顔を青くして引き留めるだろう。マダムぺぺだってそうするだろうし、トムがいればきっと力尽くで止められる。それでも私の足は何かに呼ばれるように進んで、進んで、そして芝生を踏んだ。


「っ、は、はあっ……」


この国は曇り空しか見れないのかしら、と母さんが昔ぼやいていたのを、私は今になって思い出す。きっと中庭から見上げた空が眩しくなかったからなのだろう。グレーの雲が日差しを遮り、空気をますますひやりと冷たく鋭くさせていた。もう、冬が秋の直ぐそばで待っている。
ざくりと芝生を踏んで、中庭のベンチへと進む。此方に背を向けて座っているくすんだ赤毛は私に気付かずに、ぼんやりと空を見上げていた。


「サミュエル」


直ぐ後ろから、彼の名を呼ぶ。氷で背中を撫でられたように体を揺らした彼は、心底驚いたらしい。ゆっくりとぎこちなく振り返るそのグレーの瞳は、薄い水の膜をはって見開かれていた。
あ、と彼の口が動き、私は彼の前へと駆ける。息はとうに落ち着いていたけれど、何故だか胸が騒いで仕方ない。見下ろした彼の指先は、微かに震えていた。


「ご、めん、ごめん、僕のせいだ、ごめんなさい、僕が、僕が弱虫だったばっかりに、」


ぶるぶると、水の膜が揺れる。グレーの大きな瞳が私を見上げて、それを縁取る睫が震えた。初めて彼を間近で見た魔法薬学の授業の時よりも遠いのに、何故だか今の方がはっきりと見える。魔法薬の臭いのこもった空気が此処にはないからだろうか。彼の瞳は水の膜のせいで、きらきら光っていた。
一歩、彼に近付く。は、と息を飲む彼に手を伸ばせば彼はふるふると首を横に振りながら仰け反って、私から離れようとした。それでも彼はベンチから立ち上がらないので、大した距離ではなかったけれど。


「サミュエルのせいじゃないよ、違う、違うわ」

「僕なんかと話しちゃ駄目なんだっ……弱虫サミュエルなんかと、そんな、」

「そんなの、そんなの関係ない」


ジャックの言葉を、彼は覚えているのだろう。赤毛の彼はその言葉が燃えるように熱かったり、凍えるように冷たかったり、針が沢山ついているなんてきっと思ってもみないのだ。その言葉を投げられたら火傷したようにひりひり痛むことだとか、凍ったみたいに何も考えられなくなることだとか、ちくちくと刺すような痛みをずっと抱えなくちゃいけないことだとか、そんなこと、考えたこともないのだ。


「貴方が弱虫サミュエルなら、私はスクイブラヴィーだもの」


熱くて冷たくてちくちくするそれをわざと投げつけてくるブラックやマルフォイが頭に浮かんで、彼に伸ばした手が震えてしまう。それを見た彼の目がとうとう水の膜を崩したが、彼はそれを止めようとはしなかった。彼は、とても静かに泣く人だった。


「わ、私、私なんかと、友達になっちゃ駄目って、思う?スクイブラヴィーなんかと友達になっちゃ駄目って、思う?」

「……そんなこと、ない、君は、スクイブなんかじゃない」

「貴方だって、弱虫なんかじゃない」


だって、私を助けてくれたのに。
くすんだ赤毛が、冷たい風に吹かれて揺れる。長い前髪が彼の顔を隠したせいで彼がどんな顔をしているかは分からなかったけれど、私は黙って彼の手をとった。
どのくらい此処にいたのだろう。もしかすると彼が目覚めてからずっと此処に居たのかもしれないと不安になってしまうほど彼の手は冷たくて、どうして私は冷たい手を温める魔法を知らないのかと困ってしまった。微かに震える彼の手をぎゅうっと握りしめて、その場にしゃがみ込む。漸く止んだ風に彼の前髪がはらはらと元の場所へと帰り、彼の顔が漸く見えた。


「ねえ、私、私ね、貴方と友達になりたい」

「………………」

「一緒に食事をしたり、レポートをしたり、隣に座ってぼうっとしたり、そんなことを、貴方としたいの」


真っ赤な顔が、くしゃくしゃに丸めた羊皮紙のように歪んで、ぼろぼろと水が落ちてくる。きらきらと光るそれはもしかすると魔法がかけられているのかもしれないと思った。


「ねえ、ねえ。私、貴方と、サミュエルと友達になりたいのだけど、どうすればいい?」


ぎゅうっとまた手を握りしめて、彼の顔をのぞき込む。白い彼の肌が真っ赤に染まっているのが何故だかとても不思議なものに思えて、私はそこを水滴が流れていくのを見つめていた。彼はやっぱり、とても綺麗だった。


「手を、握ってて……。僕が泣きやむまで、そうしてくれたら、それでいいよ」

「うん、うん。じゃあそうする。そうするわ。いつまでだって握ってる」


ず、と鼻を啜って、彼が言う。その声は震えていたけれど、彼の手はもう震えてはいなかった。
彼と私の間にあった壁は、もう消えた。ホットミルク片手に手招きしていたピクシーと共に、消えたのだ。そしてもう二度と私の前に現れない。何故だか妙に頭が覚めている私は、不死鳥が死に絶えないことのように当たり前にそれを感じたのだった。


「ニナ、ありがとう……」


ぽつりと呟く彼の声に、私はひとり頬を緩めて手を揺らす。くすんだ赤毛の隙間から、グレーの瞳が目を細めて笑った。




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