雪が雨へと姿を変えるのは、一瞬の出来事だった。


「私の部屋の天井、水が染みてきてる気がするのよ。怖いから誰か一緒に確かめてくれない?」

「一年生の部屋の丸窓が割れそうだって!そりゃあ割れはしないさ、ホグワーツだからね。でも、水が酷く濁ってるもんだからグリンデローがぶつかったんだ」

「おおっと、ここの壁を補強しておかないと、これ以上降るとまずいな」


杖を片手に、上級生の魔女と魔法使いが談話室を駆け回る。丸椅子を浮遊呪文と接着呪文とで三つも積み重ね、天井から水が漏れてやいないかと確かめる魔法使いの下では杖で叩いて壁にひびが入っていないかと確かめていく二人の監督生。そして泣きじゃくる一年生の隣で困り果てた顔をする魔法使いと魔女。雪は雨に、雨は嵐に、嵐は混乱へと変わり、俺はそんな光景をソファの背凭れに頬杖をつき眺めていた。
ああ、何て楽しい一日なのだろう!


「こういう時ばかりはレイブンクローが羨ましくなるわ」

「馬鹿言わないで、あんな高い場所に寮があったら煩くて眠れやしないわよ。今日なんて日は特に雨と風で凄い音なんだから」


暖炉の前のソファを陣取り、騒がしさに耳を塞いだ姉さんに、従姉のルクレティアが肩を竦めて首を振っている。そういうものなのか、と、レイブンクロー寮の事情など知りもしないので、関係のない俺までつられて頷いた。


「ねえトム、君って部屋の窓が割れたら直せるかい?」

「さあ……」


背凭れから腕を下ろし、正しくそこに背中を預ける。ぴったりと深く腰掛けたソファにはトムが真面目な顔をして脚を組み座っていて、俺はそんな彼の手元にある本の表紙を覗きこんだ。『マダム・タルトの美味しい焼き菓子』は、魔法使いか魔女か分類するなら、間違いなく魔女の読み物だ。


「珍しいものを読んでいるね?どうしたんだい?」

「……これ?」


窓の話を遠くへ放って、マダム・タルトに飛び付く。するとトムは窓よりもそちらの方が良かったのか、直ぐに本が表紙をよく見えるように本を立ててくれて、俺はそこに冬の太った梟のような顔をしたマダム・タルトの絵が描かれていたことを知った。トムはどんな顔をして、『マダム・タルトの美味しい焼き菓子』を手にカウンターに並んだのだろう。
思いの外平気な顔をして本棚からこの本を選ぶトムを想像しながら、俺はトムと肩を並べて本の中身を覗き込む。田舎風と都会風の違いは俺には分からないが、少なくともスコーンにはクロテッドクリームが一番だと思った。それから甘酸っぱいジャムだ。


「どうしてこんなものを?試験にでも出るのかい?魔法薬学なら、もしかするとあり得るのかな……」

「あり得ないよ。そうじゃなくて、イースターに作ろうかと思って」

「へえ、君ってやつは賢い魔法使いだと思っていたけれど、それだけじゃあないや、少しばかり変わった趣味を持っているんだな」

「趣味じゃないさ。誕生日だから作ってみようかと思っただけ」

「誕生日?誰の?」

「ニナの」


頁を捲り、カスタードタルトが此方に手を振る。梟の顔をしたマダム・タルトが前の頁から丸々といかにも重い体を揺らして移ってきたが、トムは魔法のインクで描かれたそれには構わず、また頁を捲った。


「へええ!君、姉さんの誕生日をきちんと祝うんだ!」

「……祝わないの?」

「ない、ない、絶対に!そもそも俺が祝うと嫌がるんだよ、例えばほら、こんなに眉をつり上げてね」


眉尻を押し上げて、こんな風にねと教えてやれば、ふ、と笑ったトムの向こうに正しくこんな風な顔をした姉さんが見えて、やってしまった、と俺は慌てて手を引っ込める。しかしそれは勿論、手遅れだった。


「私の誕生日を祝いたいのならどうぞプレゼントリストに書いておいて、私には、あんたが、まともになることがプレゼントだわ」


アーモンドの乗った白いマカルーンの頁に視線をやりながら、ふふ、とまた、トムが笑う。そんな彼の後ろでは、浮遊呪文と接着呪文とが弱まった丸椅子をぐらんと大きく揺らし、真っ逆さまに落っこちた魔法使いがいたが、姉の誕生日と比べると、トムにとってはどうだっていいことのようだった。






アンドリュー先輩がシーカーだった頃、ハッフルパフ対グリフィンドール戦のその日、二回も嵐がホグズミードからホグワーツ、辺り一面の森を飲み込んで、雨と雹、それから雷を降らしたらしい。
朝からバケツを引っくり返したどころではすまない雨が降る中、今日の練習は中止かとアンドリュー先輩がそんな思い出話をしたからだろう。嵐の怖さを知らない、もしかするとその中に放り込まれたとしてもその恐ろしさに気付けないかもしれない双子のアッカー、嵐のようなブルース・アッカーが、それならば今日みたいな日こそ練習をしなくては!なんて、ヒューですらぎょっと目を見開くような言い出したのだ。彼は、防衛術のメリーソート先生の雷すらも楽しむ魔法使いだったのだ。


「きゃあっ!ニナ、これって一体どういうことなの!?待っていて、タオルを取ってくるから!」

「わ、びしょ濡れじゃないか!ヒュー、ラヴィー、こんな日に練習を!?拭くものを取ってくるよ!」


しかしやはり、メリーソート先生に叱られても笑顔で罰則を終えて戻ってくるブルース・アッカーとはいえ、ひとりきりでは練習を続けることが出来ない。双子の片割れ、エディ・アッカーが風に煽られ、そんなエディ・アッカーに手を伸ばしたアッカー先輩が箒から滑り落ち、そうしてアッカー先輩が受け止め損ねたクアッフルは風に勢いを乗せてアンドリュー先輩の頭に飛び込んで、それを遠くから見ていたウィリアムの顔に誰かがなくした赤いマフラーが張り付き、それから私とヒューは、嵐の中迷子になったブラッジャーを探し回っている間に疲れ果ててしまったのだ。練習はそれ以上、続けられなかった。
ジェインとイアンがそれぞれ部屋へと駆け戻る姿を横目に、私は今になって防水呪文の存在を思い出した。


「おわっ、おま、」


月間クィディッチを閉じ、ジャックが立ち上がる。ヒューを見て、しかし直ぐに何かを思い出したのか、右頬を見えない手のひらで叩かれたかのように勢いよく私を見たジャックは、きっと、間違いなく、ヒューに声をかけようとしていた筈だったのに。


「ラヴィー、早く着替えてこいよ!風邪ひくぞ!」


だけれど彼は直ぐに私にそう声を投げ掛けて、部屋へと引っ込んでいってしまう。残念、と、私はひとり、こっそりと肩を落とした。
ヒューとジャックは、未だ話そうとしない。


「ブルース、来いって!」

「嫌だい!もう一回飛んでくる!」

「駄目だって!危ねえから!着替えるぞ!」

「嫌だ嫌だ!エディ、行こう!」

「おおおおおっ、グレイ、エディを連れて行け!エディと逃げろ!着替えてこい!」


濡れたユニコーンの尾を揺らすことなく、ブルース・アッカーを叱る元気もないアッカー先輩が寒さに肩を震わせひとり足早に部屋へと引っ込んでいく。アンドリュー先輩は、箒を振り回し外へ出ていこうとするブルース・アッカーを後ろから抱き上げるように捕まえて、そしてウィリアムは青白い顔をしたエディ・アッカーを連れて、アンドリュー先輩の言葉の通り、逃げていった。
私とヒューは、絨毯の届かない、談話室の隅で、がたがたと震えながら練習着を搾っていた。


「寒い……」

「う、う、うん、寒い、凄く」

「もうすぐイースター休暇だってのに、何でこんな目に……」


かちかちと、奥歯が震える。暖炉の前に座っていた六年生の魔女が手招きしてくれたが、髪は額に頬に張り付き、練習着からはゴブレットいっぱいの水が搾れて、歩けば水溜まりを歩いているような足音がするのだ。せめて水を全て搾ってからでないと、清め魔法も骨が折れてしまう。それに、ジェインが直ぐにタオルを持ってきてくれるだろう。


「ヒュー!ラヴィー!」

「うおっ」

「わ、」


髪も搾った方が良いかもしれない、と、ジェインを待ち、はしたなく鼻をすすったその時だ。
隣に立っていたヒューの顔に、勢いよくタオルが飛んできて、その勢いに負けたヒューがその場に尻餅をつく。かと思えば私の頭にもタオルが、しかし優しく包み込まれ、私は顔を上げた。ストロベリーブロンドの前髪が、走ってきたのだろう、滑らかな形の良い額を覗かせている。
イアンが、タオルを持ってきてくれたのだ。


「ありがとう、イアン」

「こんな嵐の日に練習だなんて、無茶は駄目だ。それにどうして言ってくれなかったの?いつだって防水呪文をかけたのに」

「おい、何で投げたんだよ」

「早く拭かなくちゃ、ほらラヴィー、暖炉の前に行こう。靴、脱いだ方が良いよ」

「あ、そうか、そっか、脱げば良かったんだわ」

「おい……」


何の匂いだろうか。石鹸のような、イアンの匂いのような。長い毛をしたクリーム色のタオルを頬に当てながら、考える。そうしてイアンに肩を抱かれて暖炉へと向かいながら、私は視界の隅に、ジェインを真ん中に、それぞれにタオルや毛布を持った三人の魔女が大きく口を開け、声になりきれない甲高い悲鳴を上げたのを聞いていた。
そのタオルは、毛布は、私に貸してくれるものではないのだろうか。なのに何故だか、彼女達は此方へと来てくれない。


「俺にも優しくしろよ……」


ローブのフードのようにタオルを被ったヒューを振り返り、私とヒューは揃ってひとつくしゃみをする。そんな私達を見て困った顔をしているイアンがいたことを、三人の魔女だけがまた声になりきれない甲高い悲鳴をタオルや毛布ですっぽりと隠し、見つめていたのだった。



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