「見ろよ、弱虫サミュエルのやつまたあんな所で一人でいるぜ」

「どうせまた良い席がとれなくて追いやられたんだろう。じゃなきゃあんな埃っぽい席に座らない」

「そうだそうそう、そうに決まってる。弱虫だから、席詰めてくれって言えないんだ」


ふふふ、と上品な笑い方をする割に意地の悪い言葉を吐き出すその唇が持つネクタイの色は、緑色だった。
少し黄ばんだ本の頁を捲りながら、居心地の悪さを感じて本を机から膝の上に移動させる。それから背中を丸めて耳にかけていた前髪を下ろせば、図書室の奥の右側の本棚裏はすぐさま僕一人だけの世界になって、上品で意地の悪い声は遠ざかってしまう。


「…………君達に近い席に座るより埃と友達の方がずっと良い……」


それに捨て台詞のようにぽつりと呟いて、また頁を捲る。インクの薄くなったその頁の真ん中には大きくヴィーラの絵が描かれていて、僕はそれを人差し指で軽くなぞって説明書きに視線を滑らせた。
そんなことを何頁も何頁もしていれば、時折聞こえる意地悪な声も気にならなくなってきて、僕は完全に僕一人だけの世界に入り込む。耳には目に見えない栓がされていて、僕が頁を捲り上げる音と、壁に掛けられた不思議なリズムを刻む時計の音と、それからもう一つだけが栓の中への侵入を許された。


「ああ、聞いてミネルバ、大変、大変なのよ」


ニナ・ラヴィーの声だ。
いつもどこかゆらゆらと宙を漂うようなとろけた声でゆったりと話す彼女の声が、少し弾んで本棚の向こう側から聞こえてくる。思わず顔を上げて本棚の本の隙間から其方をのぞき見ると本棚の向こう側の机の前で落ち着きなく歩き回る彼女がいて、は、と気付いた頃には僕はとうに本を閉じて立ち上がっていた。
揺れるダークブラウンの髪を見つめて、本棚の棚に手をかけそっと息をひそめる。時折見える彼女の横顔は少し赤味がさしていて、とても、幸せそうだった。


「ねえニナ、私にはさっぱり話が読めないのだけれど、これだけは確かよ。声を潜めなきゃ、叱られる」

「ああ、だってミネルバ、私、どう説明すれば良いのか分からないの」

「そう。それじゃあまず一度落ち着いて、大きく息を吸って、それからゆっくり吐き出すと良いわ」


此方に背を向けて座る姿勢の良い生徒は、きっと彼女の隣をいつも歩くグリフィンドール生のマクゴナガルだろう。ニナはすぐさま歩みを止め、言われたとおりに息を吸い込み、そして吐き出した。分かり易く大きくゆっくりと動くその肩に、僕の頬はゆるんで仕方がない。


「……凄い、凄いわミネルバ。私、何だか落ち着いたみたい……」

「…………あなたのそういう素直なところ、私はとっても大好きよ」

「うん、うん。私もミネルバが大好きよ」


いつの間にかわきに抱えていた本を抱えなおし、僕はそっと後ずさる。本の隙間から彼女が身振り手振りで何かを伝えようとしていたが、僕は黙って耳に栓をし、音を立てぬよう神経を研ぎ澄ましながら図書室の奥の右側の本棚裏から抜け出す。埃っぽいそこは、僕にとって眩しすぎたのだ。まさか、ニナがすぐそこにいたなんて。
前髪の隙間から、そっとニナを振り返る。はねた前髪の下微笑みながらローブの袖を握る彼女は、とてもきらきらしていた。


「……さよなら、ニナ」


抱えていた本を適当な本棚に押し入れて、きっとこの先直接言うことはないだろう言葉を吐き出して図書室を出る。すっかりと暗くなった廊下に浮かぶ南瓜と蝋燭に今日がハロウィンだと思い出したが、一人きりの僕には関係のないことだった。








「アンってば、また布団を蹴り出して……」


呆れたような声が、濃いオレンジと金の糸で編まれたカーテンの向こうで静かに響く。それから布団が床をずりずりと這う音と床が軋む音、隣のベッドのカーテンが勢いよく開き布団が放り込まれる音がして、私はベッドの上でそっと瞼を上げた。
一日中、胸がどくどくとうるさかった気がする。今だって、小さな小さなゴブリンが私の胸を忙しなく叩き続けている。布団を投げ入れた子が自分のベッドに戻りカーテンを引いた音がしたのを確かめて、私はそっとカーテンの隙間から部屋を見回した。それからキャンディが一つ溶けきるほどの時間が経てば、すう、と穏やかな息遣いだけが部屋を満たした。
カーテンをぴったり閉めて、枕元に置いてあった小さなランプに火を灯す。明るくなりすぎないようにとランプの上からハンカチをかければ、ベッドの中が柔らかな灯りに照らされる。赤い日記帳が、枕の上でじっと私を見つめていた。


「もう、そろそろ、かな……」


──今夜 ベッドの上 寝静まる頃 日記帳を見て


細くて綺麗にインクの滑るその手紙をそっと折りたたんで、枕のわきに置く。それから私はインク瓶と羽ペンをその隣に置いて、恐る恐る赤い表紙に触れた。
小さなゴブリンが、私の心臓をつつき、叩く。妙な緊張感に手のひらが汗をかくのを感じながらそっと表紙を開けば、そこにはなめらかで真っ白なさわり心地の良い紙が私を待っていた。
これを、どうすれば良いのだろう。私は何をすれば良いのだろう。日記帳の頁を指の腹で撫で、それから少し考えてからインク瓶の蓋を開ける。何がどうなるのか全く分からないが、これは日記帳なのだ。日記帳にはその日あったことを記すべきだろう。


「…………何から書こう」


インクを羽ペンにつけ、頬をかく。ミネルバにどれだけ説明しても伝わらなかったことを書こうか。それとも授業が終わって寮の部屋に戻るとベッドに置かれていた大きなバスケットとその中に沢山詰め込まれたお菓子について書こうか。それとも、それとも。
そっと羽ペンを日記帳に乗せ、私はそれを滑らせる。決して上手くない文字だったが、私はとても満足していた。


「……トムが、私に幸せをくれました」


かり、と羽ペンが紙に引っかかる音が、耳を撫でる。寝息と羽ペンの音だけが響くその空間がとても素敵なものに思えて、思わず頬がゆるむ。


「…………え、え」


なんて、羽ペンを持つ手で頬を包んだその時だった。真っ白なその頁は言葉の通り真っ白に戻り、私の文字をじわりじわりと飲み込んでしまう。初めからそこには何も書かれていなかったかのように真っ白に戻ったそれに、私は慌てて頁を捲って余所の頁に移動してしまったのだろうかと文字を探した。しかし、私の上手くない文字はどこにもいない。見つからない。その代わり、一番初めのその頁に、私とは違う綺麗な文字が現れていた。
綺麗で、丁寧な、トムの文字が。


──ニナ 待たせてごめんね


音も無く、文字が走る。その文字が、私の名を呼ぶ。ぱちりと大きく瞬きをして、震える手で羽ペンを握りしめた。


──トムなの?


試すように、その言葉を書き込む。インクがまたじわりじわりと飲み込まれ、トムの綺麗な文字の下にまた新たに文字が走った。


──そうだよ 僕だ 君の弟のトムだ


「……トムだ、トムだっ…………」


目の前でちかちかと灯りが弾けて、目の奥が熱を持つ。思わずこぼれた声に慌てて口を手で覆いながら、私は必死に叫びだしたい気持ちを噛み砕いて飲み込んだ。
羽ペンを握る手に、力が入る。何がどうしてトムとこうして会話が出来ているのかは分からないし、何から話せば良いのかも分からない。聞きたいことも話したいこともバスケットの中のお菓子ほど沢山あって、どれから引っ張り出せば良いのか分からなかった。


──ねえ ニナ


淡く柔らかな灯りの中、トムが私の名を呼ぶ。真っ黒なインクに手招きされじっとそちらを見つめ返すと、ゆっくりとトムの言葉が頁に書き出されていった。
インク瓶に、羽ペンをさす。それから羽ペンはそのままに、私はトムの文字を指でなぞった。


──君は君だ 純血だろうと半純血だろうと混血だろうとマグル生まれだろうと関係ない 誰が何を言おうと君は魔女だ

──そして 君は僕の大切な家族だ


そ、と鼻を指で撫で、それから目を閉じる。聞こえてくるのは穏やかな寝息だけで、くすくす妖精はそこにいない。ちらりとくすんだ赤毛が姿を現したが、音もなく何処かへ消えていった。息を吸って目をあけると、柔らかな灯りが私を待っていて、私はランプにかけたハンカチの端をつまみ、少しだけハンカチをずらした。
眩しい灯りが、トムの言葉を照らす。綺麗で丁寧で、そして優しく私を包み込んでしまうそれが、また私の名を呼ぶ。私はただ黙って、それを見ていた。


──君なら大丈夫 だって 僕がついているもの


何だろうか、この気持ち。父さんが箒を買ってくれた日よりも嬉しくて嬉しくてたまらないのに、それでもこの日記帳を掲げて走り回りたいとは思わない。ただ、たまらなくトムを抱き締めたかった。癖の無い髪に頬を寄せて、目を閉じたかった。
羽ペンを手にとって、余計なインクを瓶の縁で落とす。スペルミスが無いように確かめながら言葉を書き出せば、知らぬ間に頬がゆるんでいた。


──トムがいてくれて 本当に良かった

──はやくあなたに会いたいです


飲み込まれていく文字にキスをして、私は日記帳を撫でた。それからバスケットの中のお菓子ほど沢山あった話したいことの中から一際大きなものを引っ張り出して、それを書き込んでいく。きらきらと眩しいそれは、ランプの灯りよりも眩しく、ほのかに甘い匂いすら立ち上らせている気がした。


──ねえトム ミネルバのこと 手紙でどこまで書いたかしら


ゆるむ頬をおさえながら、私は羽ペンを走らせる。
ハロウィンの夜は、そうして静かに過ぎていった。




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