──折角の夏だっていうのに どうして君にまで会わなくちゃいけないんだろう それじゃあ明日 また


羽根ペンを新しくしたのだろうか。いつもは丁寧な筈のその文字が、細すぎる線で乱暴なことを言っている。私はそれを両手に、グルグモンドの入り口、ローブなんて間違っても着ることのないマグルばかりが行き交うカンタベリーの街中にひとり立っていた。
向かいの通り、二階の白い出窓を開けたマグルの男の子が、面倒そうに窓ガラスを古びた布切れで拭いている。魚とフライパンの絵が描かれた看板がぶら下がる彼の家は、パブなのだろう。一階の奥、開け放された扉の向こう側に昼間だというのにビールを片手に歌うマグルが二人いて、私は彼らの丸いお腹と引っ込んだお腹を眺め、此方に気付いた二階の男の子の視線を睫毛に、トムが選んでくれた靴の爪先を見下ろした。彼は、背筋をぴんと伸ばして窓の枠まで丁寧に拭いていた。
マグルに悪さをされないように、と、トムはまじないか何か、かけてくれたのだろうか。メリルボーン駅まで父さんとふたり、見送ってくれたトムが耳に引っ掛けるようにさしてくれた花を指先でつつきながら、私はポストに寄りかかる大人のマグルを横目に踵を上げる。いつかのように、兵隊ごっこをしたがったマグルの少年は、どこにも見当たらなかった。


「あ」

「やあ、ニナ、ごめん、待たせたよね」


しかしその代わり、ずっと待っていた彼、サミュエルがマグルの波の中から現れた。
くすんだ赤毛を隠すように、珍しく帽子を被ったサミュエルが波の間を縫うように駆けてくる。彼の声や足音だけがはっきりと聞こえるのは、同じ魔法族だからなのだろうか。誰ひとり振り返ることのない波の真ん真ん中で、私にはサミュエルの白くほっそりとした頬が笑っている姿が目立って見えていた。


「サミュエル、久しぶり、久しぶりだわっ」

「うん、久しぶりだね。わ、ははっ、とは言っても、抱き締めてくれるほど久しぶりだったかな?」

「あのね、あのね聞いて、聞いてサミュエルっ、靴を買ったのよ、トムが選んでくれたのよ、見て、ほら」

「あ、踵が高くなったんだね?だから前より背が高く見えたんだ」

「うん、そうなの、そうでしょう?でも、背もちゃんと伸びたのよ」


魚とフライパンの看板の上、二階の出窓で、マグルの男の子が、つまらなさそうな顔をして背中を丸め窓を閉める。私よりもずっと高い、鼻先が漸く肩に届くサミュエルの白い首越しに、まだ汚れの残る窓を見ていた。
背中に回した腕を離し、爪先を上げたり踵を上げたり、きちんと膝丈の、大人しくしてさえいれば膝よりも長い丈のスカートの裾を持ち上げて、それから背筋を伸ばしてみせる。ふ、と、オペラ色に笑ったサミュエルと私は、もしかすると兄妹に見えるのかもしれない。先程まで此方を振り返ることのなかったマグルの親子が私を見て、サミュエルを見て、可笑しそうに笑って波の中へと飲まれていった。


「僕もまた背が伸びたんだよ、分からないかもしれないけれど」

「ううん、分かるわ、だって、高い踵なのにサミュエルの頭の天辺が見えないもの。サミュエル、その帽子、とっても似合ってる」

「ありがとう、父さんがお土産にくれたんだ。あ、ニナにもあるんだけれど、……家に忘れてきたなあ」

「それじゃあ、それじゃあ、また遊びに行ってもいい?私、サミュエルのお家に行くわっ、勿論、お土産は欲しいけれど、またサミュエルに会いたいもの」

「うん、そう言ってくれないかなって思って、実はわざと家に忘れてきたんだよ」


サミュエルはヒューと仲良くなってから、うんと、男の子の魔法使いらしく、笑うようになった。
照れたように帽子を脱ぎながら、サミュエルはくすんだ赤毛の前髪をかき上げる。その姿がアンドリュー先輩に似てきたとは思っても、いつだってアンドリュー先輩をお皿の端に寄せた火の通していないオニオンのように見る彼だ。たちまちに不機嫌になってしまうことを私はちゃんと知っていたので、サミュエルの手首を持ち上げるように取り、その手をゆっくりと引いた。


「ヒューには持ってきたの?」

「ヒューになんて初めからないよ、何をあげても文句を言われそうだ。これ、彼には秘密にしておいてね」

「んん、うん、分かった」

「それより、ニナはここまでどうやってきたの?鉄道を使ってきたの?もしそうなら、帰りは父さんがグルグモンドまで迎えにくるから、一緒に姿くらましで帰る?」

「いいのっ?うん、そうする、そうしたい、ありがとう、サミュエル」

「どういたしまして、ニナ」


先程とは別だというのに、マグルの親子がまた此方を振り返り、可笑しそうに笑う。それは多分、あんまり私の頬が緩んでいて、そうしてサミュエルのグレーの瞳がやわらかいからだろう。
手を取り合い、マグルの波に飲み込まれるように、私達はふたつきりの足音と共に、グルグモンドへと入り込む。マグルの親子は、あの二人はもう消えたのかと人混みの中首を伸ばして、カンタベリーの街角に立っていたのだった。





「あああ!無理!僕もう帰る!嫌だ嫌だ嫌だっ!こんな最悪なことってあるかい!?ないよ!今が一番最悪だ!」


ヒューの左手に、クリーム色の細く長い便箋が一枚。私の右手に、白い真四角の便箋が一枚。グルグモンドの空はからりと晴れ、ヌガーを溶かしてしまえる陽射しが歪んだように丸い窓から射し込んでくるというのにぐるりぐるりとマフラーを巻いたヒューの叔父さん、ヴィヴが用意してくれていた魔女のポットと真っ白い布巾を手に、サミュエルが大きく叫んだ。
ヒューの左手、私の右手にある細く長いそれと真四角のそれは、梟が間違えて反対の逆さまに送ってしまったものらしかった。


「ばっ…………っかだなあ、ほんと」

「うるさい!分かってるよ!ああもう、あの梟、だから嫌だったんだ……!兄さんの梟なんて借りるんじゃなかった……!」

「アンドリュー先輩、梟を飼ってるの?」

「うう、飼ってはいるんだけど、殆ど懐かれてないから普段は放し飼いで……あーそのせいで……ヒュー!僕をそんな目で見るなよ!」

「馬鹿だな……」


ビクトリアンチンツ柄のポットは、職人がかけた魔法のおかげで丸きり一日、中身が殆ど冷めないらしい。これを磨いておいてくれ、と言ったきり、お店に出てしまったヴィヴにまでサミュエルの声が聞こえていなければいいのだけれど。ドアの向こう側を見つめながら、私は同じチンツ柄のカップを手に、それを磨いていく。三年生になる魔法使いと魔女にとってそれは簡単過ぎる手伝いに思えたが、しかしビクトリアンチンツというものは私が思っていたよりも貴重なものらしい。
マグル製品不正使用ではないと示す小さなタグを避け、カップの内側を磨く。タグの裏、値段の書かれたそこに、私は思わず手に力が入った。ひとつ落とせば、寒がりなヴィヴがますます震え上がってしまう。


「何でそんな梟に任せたんだよ、他のはいなかったのか?」

「……一日中付きまとわれてたんだ。早く何処かに行って欲しかったから、仕方なく言うことを聞いたんだよ」

「あ、遊びに誘われたって手紙に書いてたわ、アンドリュー先輩からも、遊びに誘えたって」

「そう、それなんだ、それで、何処へ行ってもついて回って、無視して手紙を書いていれば俺が届けてやるって言って、しつこくて、あああ……」


ポットを置いて、頭を抱える。そんなサミュエルの隣でソーサーを五枚磨き終えたヒューはサミュエルのポットを奪い、蓋の裏側まで丁寧に慣れた手付きで磨いていった。


「早く君に会いたいよ、なんて、いつも言ってんの?ニナに?」

「気味の悪いことを言わないでくれ!」

「お前が書いたんだろ…………ニナ、ほら、これ、やるよ」

「あ、うん、それじゃあ、こっちは、はい」


細く長い便箋と、白い真四角の便箋を取りかえる。ドラゴンの卵のように膝を抱えて丸くなってしまったサミュエルは、どんな顔をしているのだろうか。君に会えない夏ほど退屈なものはない、と、やはり新しい羽根ペンを使ったのだろう、細い線で丁寧に書かれたそれをスカートのポケットにそうっとしまって、私はカップを磨き終えた。
これで、お店の手伝いはおしまいだ。


「ねえ、ヒュー、終わったわ。他に手伝えることってある?」

「や、今日は暑くてみんな引っ込んでるし、グールお化けも追い出したし、特に……」

「本当っ?じゃあ、それじゃあ、外を歩かない?私、グルグモンドをね、ちゃんと見てみたいの」

「別に、何にも見るもんなんて無いけど」

「…………僕、ひとりでここにいて良い?」

「駄目、サミュエルも行くの、グルグモンドを見て回るの、三人で、ミネルバの分まで」


気恥ずかしいのか何なのか、抱えた膝に頬を乗せ、嫌だと駄々をこねるサミュエルの左手を引っ張り立ち上がる。その間にヒューはビクトリアンチンツのそれを丁寧に木箱に片付けてしまって、グールお化けが出てもそれを落として割ったりしないよう、棚の一番下、鍵のついたそこにしまった。一瞬そこに見えたのは、庭小人のペン立てだった。
きっと、ミネルバやアンドリュー先輩、他の誰かがいれば、こうはならないのだろう。私、それからヒューにまで腕をひかれて漸く立ち上がったサミュエルは、とびきり一番背が高いのに、誰よりも小さくなったかのように背中を丸めている。頭の天辺が見えたそこに帽子を被せてやれば、サミュエルはグレーの瞳で私を見た。


「ニナ、僕、あれは、あれは決して、ニナに宛てた手紙じゃあないからね……。どうか許して、ニナ」

「おい、俺にも謝れよ。気分が悪くなったんだぞ」

「ああ、そうだ、謝るよ。謝るからどうか忘れてくれるかな、あんな、ああ、君に読まれるだなんて……!」

「サミュエル、サミュエル、しい、落ち着いて」


ぎしぎしと軋むドアは、酷く立て付けが悪かった。
店へと続くそのドアのお尻を、ヒューは蹴り開ける。カウンターに座って、ホットチョコレートだろうか、甘い湯気の揺れる大きなカップを手に此方を見たヴィヴはヒューの右足を叱ろうと夕暮れの瞳を細めたけれど、しかし直ぐにぐるりぐるりと巻いたマフラーに鼻先を隠して肩を揺らす。両腕を掴まれ店を出るサミュエルのその姿は、パブから引き摺り出される魔法使いに似ていただろう。
間違ってもマグルとは似ていない、夏用のローブに身を包んだ魔女と魔法使いが、ぽつりぽつりとグルグモンドの通りを歩いていく。陽射しは今が特別強いだろう。ローブを脱ぎ、シャツを脱ぎ、上に何も着ていない若い魔法使いが汗を垂らして私達の目の前を横切ったその時、サミュエルはやっと酔いに似た気恥ずかしさから覚めたのか、慌てて私の視界を隠すように右手で目元を覆ってしまった。


「サミュエル、サミュエル、私、そんなに眩しくないわ」

「いや、ちょっと、毒が……」

「サミュエル、此処はグルグモンドだぞ、紳士の街じゃない」

「君を見れば分かるよ、残念だけれどね」


サミュエルの細い、骨の形のよく分かる指の隙間から、ヒューの足音が漏れてくる。何処へ向かうのか、ただ歩くだけなのか、手を下ろしたサミュエルとふたり、立ち止まったり歩いたり上を向いたり、気紛れなヒューの後ろをついていきながら、私はいつもより高い踵の音に気分を良くしていた。
グルグモンドの突き当たり、マグルのハイストリートの目の前で、ヒューは立ち止まる。魔法族用のポストにのぼり、背の高い街灯に手をかけそこに立ったヒューの姿は、目の前を通り過ぎていくマグル達には見えないようだった。


「ここ、マグル避けがしてあるんだね。当たり前だろうけれど」

「おう、それも、特別強力なやつを五重にな。だからどんなに叫んでも、よっぽど勘のいい奴しか振り返らない」

「え、君、いつもそんな遊びをしてるの……?」

「年の近い魔法使い、殆どいねえもん」


小さいのか大きいのしかいないんだ、と、ヒューは肩を竦めた。
細く長いパンを二本、袋に抱えたマグルの女の子が歩いていく。その後ろを男の子がふたり、ついてきて、立ち止まることなくグルグモンドを通り過ぎる。不自然にも思えるほどに、誰も此方を見ようとしない。それをいいことに、ヒューはポストの上からマグルの頭の天辺を眺めていた。
ヒューはいつも、ひとりきり、ここに立っているのだろうか。考えて、私はグルグモンドを振り返らない顎の丸い年上のマグルの背中を見送る。袖の細いワンピースは、しゃらしゃらと光って見えた。


「なあ、向かいのパブ、見えるだろ?あそこ、夜になると凄いんだ、マグルが集まってさ、呪文も使わずにビールが飛ぶんだぜ」

「ビールが?飛ぶの?」

「でもやっぱ、呪文を使わねえと直ぐに落っこちるんだよな。いっつも誰かが頭からかぶるんだ」

「……ヒュー、それ多分、ただの喧嘩……」


藍色の夜の瞳に、ダークグレーの星が瞬くのを、サミュエルもきっと、見付けただろう。
街灯にしがみつくように腕を回したヒューの横顔が、つまらなさそうでない、マグル界の地図を目の前にした時と同じだったので、私とサミュエルはふたり目を合わせ、小さく笑う。ヒューは多分、きっと、自分が楽しくて仕方のないそこに、私達を招き入れてくれたのだ。
ダークグレーの星の内側で、ヒューは何を考えているのだろう。五つも重なったマグル避けの呪文のこちら側、こんなにも素敵な眺めは他にないと、楽しそうにゆるむ口許を見上げながら、私はポストに乗ることなく、そこにもたれかかった。
何処へ行くわけでもない、何をするわけでもない。だけれどとても、奥歯に触れる頬が、くすぐったい。


「ヒューは本当に、マグル界が、好きなのね。とっても、凄く、楽しそう」


街灯にしがみつくヒューの藍色が、私とサミュエルに落っこちる。パブの二階から顔を出し、誰かを探すマグルの男の子を、ヒューは見たのだろうか。白い歯を見せるように笑ったヒューは、ホグワーツでは滅多に震わせることのない喉を震わせて、私に手を差し出した。


「いつも一人で見てたんだ、こうして誰かと見られるなんて、楽しいに決まってるだろ」


ポストの上に私を招くヒューの手を取り、私はまた、サミュエルとふたり、目を合わせる。気恥ずかしそうなサミュエルの顔は、先程よりもずっと気分の良い素敵なもので、ポストの上に膝をついた私は、ヒューよりも低く、サミュエルよりも高いその視線で、魚とフライパンの看板の上、出窓に頬杖をついたマグルの男の子を見つめていた。
そうして夏のポストの上で話すのは、カンタベリーのマグルのことや、サミュエルが間違えて送ってしまった手紙のことなのだった。


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