少し時間が欲しい。
ニナの口から当たり前のようにぽろぽろとこぼれ落ちるトムという名の少年から返ってきた手紙の内容は、丸々一週間をかけてたったそれだけの言葉であった。
「……ニナ、どうしてそんな顔をしてるの」
ニナがまるでお伽話を話すかのようにその名を口にしていたせいで、私の中では会ってもいないというのに好感度の高かったトムという少年であったが、あのお粗末な手紙の内容により、今やあのはた迷惑でならないピーブスと同じ位置にまで下がりきっていた。きっと、この先彼が私の隣で考え事をしながら眉を下げるニナを私が見たことの無いほどのとびきりの笑顔にしない限り、ピーブスの隣からは脱せないだろう。私はそれほどトムという名の少年に呆れていたし、隣に座る彼女の表情が晴れないことが不満でならなかった。彼はもしや、彼女には返事すらしていないのではないだろうか。
かちゃかちゃとフォークを皿にぶつけて鳴らすだけで一向に減る気配を見せない彼女の目の前のプティングを横目に、私は熱い紅茶を口にする。レモンを入れただけのそれは少しだけ渋くて思わず眉を顰めてしまったが、ゆっくりと振り返ったニナはそんな私に気付いていない。振り返ったはずの視線は、いつものように私の目ではないどこかを見つめていたから。
「え、え?ど、どんな顔……?」
「……こんな顔」
少しの間を置いて漸く私の目を見たニナに、私はティーカップをテーブルに置いて、そのまま彼女の両眉尻に手を伸ばす。丸く見開かれた瞳を見つめながらその眉を無理矢理情けない形に下げてやれば、ニナは何とも言えないおかしな顔でへにゃへにゃと笑った。それに、ほんの少しだけ安堵する。
「ミネルバ、ミネルバ、私、こんな顔してた?」
「これよりもっと酷い顔だったわ」
「え、そう?これより?」
細められたダークブラウンの瞳をのぞき込んで、そうね、そうだわ、と呟きながら手を離す。ついでにはねた前髪を撫でつけてそのままシャツの襟を正してやれば、ニナはますます瞳を嬉しそうに細めて私の指先を人差し指でなぞった。
私よりも温かな指先がゆっくり手の甲に滑り、そのまま彼女は私の手をゆるく握る。私の手もこんなに柔らかいものなのだろうか。弟の手は、こんなに柔らかかっただろうか。
「……ねえニナ、今日の薬草学のレポートは終わってるの?」
何故だか少し息苦しくなった胸に気付かないふりをして、私はニナに問いかける。するとニナは弾かれるように私の手を離し、ぱちんと口元を押さえる。その行動の示す意味が手に取るように分かった私は、ほんの少しだけ目を細めて彼女を見つめた。作られた冷たい表情に、焦ったように視線を泳がせるニナがとても可愛らしい。
「……ニナ、やってないのね?」
「…………や、やった。やったよ」
「じゃあどうして目を合わせないの?」
「……薬草学って、好きじゃない。とっても。だって、私何にもしてないのに、蔓が私を叩くもの」
「蔓が貴方を叩くのとレポートは別じゃない?」
やるにはやったらしいレポートを、ニナは足元に置いていたハシバミ色の大きな鞄からずりずりと引っ張り出す。出したくないのだ、というその気持ちが表れたゆっくりとした動きに思わず笑ってしまいそうになるのを押さえながら、私は漸く半分姿を見せたレポートをニナの代わりに引き抜いた。
あ、とニナが声を上げるなか、自身の無さが体現されている文字の走る羊皮紙に目を向ける。いくつかのスペルミスを見つけたが、それにはあえて目を瞑った。
「……悪くないじゃない」
「ほ、ほんと?ほんと?ミネルバ」
「ええ、本当。頑張ったのね。ほんの少し、短い気もするけれど」
「きっ、気のせい!気のせい!大丈夫だよ!」
そうかしら?とわざとらしく首を傾げる私からニナは慌てたようにレポートを奪い取り、それを鞄にしまい直す。先程よりも少しばかり表情の明るくなったニナに、私はそっと目をそらして渋いレモンティーに手を伸ばした。いつの間にか冷めてしまっていたそれは更に渋くなっていたが、私はかまわずそれを飲み干す。頭の隅にちらついたトムという名も、一緒に。
「……私が、いるもの」
トムなんて、男なんて、当てに出来ない。
一人そっと呟いて、私は横目でニナを見る。ローブのポケットに手を突っ込み、新しい癖になってしまったらしいもう片方の手で鼻を隠すという動作に、トムという名を真っ黒に塗りつぶした。そして、今し方大広間に入ってきた三つの頭を一瞥し、ローブから手を出しミルクの入ったゴブレットに手を伸ばしたニナを確かめる。彼女は、後ろを通り過ぎる藍色が此方を見ていることに気付かなかった。
「……ミネルバ?どうしたの?」
「……明日はミルクティーにしようか考えてたところ」
「そうなの?じゃあ、私もそうしようかな」
へにゃりと力無く笑ったニナに小さく笑い返して、私はティーカップをソーサーに乗せる。紅茶の色を含んだレモンが一枚へばりついたそれが視界の端に映る藍色の彼に見えて、少し、気分が悪かった。
「それを植え替えたら順にレポートを出し、退出して下さって結構ですよ」
ビーリー先生のその言葉は、空からチョコレートヌガーがぱらぱらと降ってくるかのように素敵なものらしいということを、周りの小さな歓声に漸く気付いた。しかし、その言葉は植え替えがあまり得意ではない私にとってはインク混じりの雨が降ってきたかのように憂鬱なもので、我先にと鉢植えを取りに走るスリザリン生の中、ゆっくりと鉢植えを取りに行くハッフルパフ生に紛れるように小さくため息を吐いた。
腕の中の小さな鉢植えに植えられたこの植物の名前を、ビーリー先生は何と言っていただろう。ゆるゆると揺れながら私を見上げるかのように身を捩らすそれが、確か一番そばにいる人間の気持ちを感じ取り動くのだと思い出し、私は今こんな気持ちなのか、とぽかりと口を開ける。それはどこかのんびりとしているように見えて、成る程、確かに私はのんびりしているかもしれない、と思い直した。
「ラヴィー、早くしないと鉢植え無くなるよ」
「えっ、あ、う、うん」
そんなことを考えていればぽんと肩を叩かれて、私は驚いて顔を上げる。その正体がストロベリーブロンドを持つ柔らかな笑みを携えた彼だと理解し、私ははっと視線だけで辺りを見回し、咄嗟に右手で鼻を隠した。彼は確か、いつもヒュー・ガーランドと行動を共にしていたはずだ。
しかし、彼の後ろにいつもの藍色と赤毛は見あたらない。よくよく探してみれば、藍色は温室の隅でぼんやりと鉢植えの中でじっとしている植物を見下ろしていて、赤毛の彼はスリザリン生の群れに紛れて鉢植えを取り合っていた。それに一人ほっと胸をなで下ろし、私はストロベリーブロンドにつられるように鉢植えの列に並んだ。
「ジャックが取ってきてくれると良いけどなあ……」
ぽつりと独り言を呟いた彼に、私はそろりと背伸びをして前を覗き見る。まだなのかと列を作って並ぶハッフルパフ生の前に、あれでもないこれでもないと鉢植えを選ぶスリザリン生の群れがいて、その中に勇敢にも混ざる赤毛がいる。彼等によって最後尾の私には欠けた鉢植えや穴のあいた鉢植えしか残らないのは目に見えていたので、私は鉢植えを抱え直し、どうやって上手いこと植え替えようか、と視線を落とした。
「わっ」
と、その時だった。どん、と背中を押され、前につんのめってしまったのは。
「えっ、」
早くしろだのあっちの鉢植えが良いだのと周りがざわざわと騒がしいせいで、私の声はかき消され、私が前につんのめっていたことになど誰も気付かない。それが列の一番後ろでの出来事なのだから、尚更である。
しかし、私が後ろから押されたということは、私は一番後ろではなかったらしい。驚いたように振り返ると、そこには真っ黒なウェーブのかかった髪を揺らし私を冷たく睨みつけるスリザリン生の女の子がいて、私は目を丸くして彼女を見る。薄い綺麗な唇から、小さく舌打ちがこぼれた。
「邪魔」
「え、あ、あの、」
「邪魔なんだけど、早く退いて」
彼女の言葉に、漸く前に並んでいた何人かのハッフルパフ生達が気付き、此方を振り返る。しかし、私は彼女の冷たい瞳に反応したかのように一気に姿をあらわしたくすくす笑いの妖精によって、その場から動けずにいた。
真っ黒な瞳。瞳と同じ色をした、ウェーブのかかった真っ黒い髪。すっと筋の通った高い鼻。白すぎる肌。記憶の端っこでくすくすと私を見下すように笑う彼女が、今目の前にいる。マルフォイの隣にいつもいた、スリザリン生の女の子。
彼女は、ヴァルブルガ・ブラックだ。
「ちょっと、早く退いて」
「……何で私達が退かなきゃならないのよ。大人しく後ろに並んでなさいよ」
「はっ。どうして私が貴方達なんかの後ろに?馬鹿言わないでよ」
鼻で笑った彼女と、ハッフルパフ生の誰かがにらみ合うのを横目に、私はさわざわと小刻みに揺れる鉢植えをきつく抱きしめる。それからそっと視線を落とせば、ローブの端にぞろりとしがみついているくすくす妖精がそこにいて、私は誰にも気付かれぬようにそれを静かに振り払う。
のどが、くっと鳴る。息苦しい。もしかすると首もとにもいるのだろうかと思い、私はそろそろと首に手を伸ばし、ゆるくそこを撫でた。しかし、どうにも息苦しさは無くならない。くすくす妖精は、いつの間にかのどの奥に入り込んでしまっていたらしい。
「……あら、貴方、スクイブラヴィーじゃない」
そんなことを考えていれば、ブラックの冷たい声が私の名を呼んだ。誰かが私の肩をつつき後ろに引っ張ったが、私はやはり動けない。
くすくす妖精は、いつの間にか肩にまでのぼってきていたらしい。ずっしりとそこに腰を据えて、私の耳元に唇を寄せてくる。腕の中の鉢植えに視線を落とした私の顔を覗き込む彼女の目が楽しそうに細められて、また息苦しくなった。
じわりと顔が熱くなるのを感じながら、そっと彼女から目を逸らす。すると鉢植えを取り囲んでいたスリザリン生の群れから一人此方へと向かってくる生徒がいて、私は思わず息を止めた。
耳元で、くすくす妖精が笑う。頭に過ぎったのは、蜂蜜の溶けきっていない熱いホットミルクだった。
「ヴァルブルガ、何してる」
「ああ、アブラクサス。ほら、見てよ、この子ったら。こんなに顔を赤くさせちゃって」
どうしたのかしらね?風邪かしらね?
甘い猫なで声で彼女が笑って、また誰かが私の肩をつついて後ろに引っ張ろうとするが、私はそこに根っこが生えてしまったように動けない。温室に降り注ぐ日の光を浴びたマルフォイの髪は彼が此方に歩み寄る度にきらきらと光り、私は息を止めたまま鉢植えをきつく抱きしめた。
彼の鉢植えの中の植物は、一度だけ大きく揺れて、それきり動かなかった。
「……ヴァルブルガ、ほら、お前の分。早く終わらせるぞ」
「あら、なあに、つまんない」
「そんな奴に構ってる方がつまらないだろ」
そう言って、彼はブラックに取ってきたらしい鉢植えを押し付け、私の横を通り過ぎていく。そうね、と笑ったのは勿論ブラックで、彼女はそんな彼を追って何事も無かったかのように駆けていった。
腕の中の鉢植えが、ぶるぶると震えている。スクイブと言われたことを、そんな奴と言われたことを、嘆けば良いのだろうか。私は何を、嘆けば良いのだろうか。久しく感じることの無かった息苦しさに、名前も知らぬ植物を見つめることしか出来ない。ミネルバが友人になってくれるまで、毎日味わっていたこの気持ちを、私は上手く飲み込めなくなっていた。
「おーい、鉢植え取ってきたぞ!……ラヴィー、どうかしたのか?」
「あー……ジャック、悪い、もう一つ鉢植え取ってきて。僕の分、ラヴィーにあげるから」
「えっ、またスリザリンの中に飛び込めって?」
「そう、行ってきて。行けるだろ」
「行けるけど!行ってくるけど!」
ラヴィー。優しい声が私の耳元にいたくすくす妖精を退かし、肩をつつかれる。ぱっと顔を上げるとストロベリーブロンドの彼がレンガ色の何処も欠けていない綺麗な鉢植えを私に向かって差し出していて、私はぼんやりと彼を見上げる。すらりと背の高い彼はほんの少しだけ困ったように眉を下げて、それから私の手をとりその鉢植えを抱かせた。
「これ、ラヴィーにあげるから、早く終わらせちゃいなよ」
「え、あ、でも、貴方の分、」
「大丈夫、ジャックが取りに行った」
ほら、と彼が指差した方を見れば、ジャックと呼ばれた赤毛の彼が黄土色の真新しい鉢植えを危なげに振り回しながら駆け寄ってきたところで、目の前の彼はまた、ほら、と呟き首を傾ける。促されるように視線を落とし腕の中を見れば、植物は未だに小さく震えていて、私は唇をかむ。
視界の端で、マルフォイとブラックは並んで座り込んでいる姿が見えた。心臓の奥にドラゴンでもいるのだろうか、じりじりと熱く痛んで、噛みしめた唇から鉄の味がする。
「取ってきたぞ!ほら!」
「ありがとうジャック。じゃあね、ラヴィー、それ使ってね」
「あ、ありが、とう……」
「うん、だってさ、ジャック」
「え?おお、良いよ良いよ、大したことないから」
「……あり、がと」
ひらひらと手を振って去っていく二人の背中を見送って、私は二つの鉢植えを抱き直し、温室の隅へと移動する。それからその場に鉢植えをおろし、顔を上げて、直ぐに目を逸らした。
藍色の瞳が、ヒュー・ガーランドが、じっと私を見つめていた。
「ミネ、ルバ、ミネルバっ…………ト、ム、」
手紙を返してくれない彼の名前を呟いて、鼻を隠しながら片手で鉢植えを植え替える。傷一つないそれに植え替えられたら植物の名前を、結局私は思い出せることはなかった。
名前も知らないその植物は、その日私がそれをビーリー先生に提出するまで、ずっとぶるぶると震えていた。