「ねえニナ、この本良かったよ。凄く分かりやすいのに深く書かれてるんだ。杖と指を使い分ける利点とかも書かれててさ、面白かったよ。試験勉強にも良いんじゃないかな。だから、はい」


大きさは私の手のひらふたつ分の、だけれど厚さは拳を縦にひとつ分。真夜中にベッドで読むにはぴったりなミッドナイトブルーの色をした『実践呪文集』を私に差し出したトムの黒い瞳が、珍しく一年生らしい、習いたての魔法が杖の先で形になったかのような色をして、私がそれを受け取ろうとするのを見ていた。


「そんなに、面白かった?」

「うん。まあ、うん、そこそこ。三年生までに習うものはこの本に書かれてあるらしいから、ニナも良かったら使ってよ。まだ貸し出し期限まで日があるから」

「……それじゃあ、今晩、少し、確かめたい魔法の頁だけ読んでみる」

「うん。そうすると良いよ。今週中に僕に返してくれれば大丈夫だから」


きっと、とても、面白かったに違いない。それが私にとってそうでないとしても、父さんが時折抱えて帰ってくる山積みの書類のように沢山の知識が丸く形の良い頭に詰まったトムには、それがぴったり合わさって、面白かったに違いない。
ミネルバなら、ミネルバと一緒に読めば、彼女も喜ぶかもしれない。考えながら、私はミッドナイトブルーの表紙を眺めて、試しに頁を捲ってみる。そうして私は、思わず目を細めた。『西洋魔法史』よりもずっと小さな文字が今にも潰れそうになりながら、そこに並んでいたのだ。


「……私が借りても良いの?お友達とかに、貸さなくても良いの?」


これは、真夜中にベッドで読んでしまえば、私はその夜、細か過ぎるインクの文字の沼に沈む夢を見てしまうことだろう。
睫毛の端っこに、昨日、本棚の向こうから現れたときのように、トムとよく似た髪と瞳の魔法使い、アルファードが顔を出す。ぼんやりと、外側がトムに似ている彼の内側はどこか私に似ている気がして、もしかすると彼がこれを借りたところで私と同じ、インクの文字の沼に沈む夢を見てしまうかもしれないと思った。


「……いや、駄目。ありえないよ。それに、最近何だか試験どころじゃないみたいだから、貸したとしても読まないよ、きっとね」

「そう?」

「うん、そう」


試験どころじゃない、というのは、彼のことなのだろうか。
何かに怯えるように、本棚の向こうから現れた彼の視線を思い出す。ばしゃばしゃと波を立ててあちらこちらへ泳ぐ彼の視線の先にいてはならなかったものは、一体何だったのだろう。誰だったのだろう。ミネルバの足音に逃げるように駆けていってしまった彼の、形はあるのに掴み上げることの出来ない言葉が耳たぶにぶら下がっている気がして、私はそろりと耳を撫でた。そこにあるのは、ひやりとした耳と、それからトムのピアスだけだ。
私の指先に気付いたトムが、目を細める。それはミッドナイトブルーを開いた先程の私とは違う、とてもやわらかなものだった。


「お友達とは、仲良くしてる?」

「何だか姉さんみたいなことを言うね」

「お姉さんだわ、私、お姉さんだもの」

「…………ああ、そうだね、あんまりニナが妹みたいだから、忘れてたよ」


やわらかなそれを、ほんの一瞬、トムは消して、だけれど直ぐに笑って私の髪を耳にひっかける。彼の瞳と同じ黒いピアスは、赤く光っているだろうか。耳に触れたトムの指先は私よりも冷たくて、私は思わず肩を竦めた。


「……私の方がずっと、背も、高いのに」

「それは言わないでよ、それに、僕だって、……直ぐに追い越すよ、直ぐに」

「私、まだまだ伸びるわ、きっと。あのね、夏よりもクリスマスよりも、私、背が少しね、背が高くなった気がするのよ」

「…………魔法使いは、魔女より背が伸びるのが遅いから」


私のダークブラウンを指先に絡み付けながら、トムは不機嫌そうに、弟らしい、一年生らしい顔をしてみせる。そんな彼を見て、私はやっぱり彼のお姉さんなのだと思いながら、しかしこの本は読めそうにない、と、ミッドナイトブルーの『実践呪文集』を胸に、奥歯を噛んでいた。
その頃にはもう、睫毛の端っこにいたはずのアルファードは本棚の向こうに消えて、いなくなっていた。






「薬草学は妖精食虫植物は出ないらしいわよ。去年の二年生の試験内容を聞いたんだけれど、温室で話していたことが大体の内容だって」

「やだあ、私温室で先生が何を話していたかなんて覚えてないわ。フィリップ、あなたは?」

「ばっちり、問題はないね。僕、毎回羊皮紙と羽根ペンを持ち込んで先生が話していたことは全て書き取ってたんだ」


グリフィンドールの魔女がひとりと、レイブンクローの魔女と魔法使いがひとりずつ。長針と短針よりも気が合うのだろう、三人の魔女と魔法使いは私の目を丸くさせるだけ丸くして、図書室の前の廊下でミネルバを待つ私に気付くことなく、図書室へと吸い込まれていく。赤と青のローブの裏地の話した言葉は、本当のことなのだろうか。今まで一度だってビーリー先生が温室で話したことなんて羊皮紙どころか教科書の隅にも書いておかなかった私は、長針二歩分、一頁の半分のそのまた半分までしか進まなかった『実践呪文集』を手に、きい、と錆びた音を立てて閉じられた扉を見ていた。
青の裏地が、扉に噛まれて挟まっていた。わ、と慌てたように声を上げたのはきっと、レイブンクローの魔法使いだ。


「…………ミネルバと、サミュエルに、聞かなくっちゃ」


温室での話を全て書き取っているか。だけれどそもそも、試験内容は、本当にそれなのか。
ジェインは確か、教科書の内容が殆どだとビーリー先生から聞いてきたはずだったのだけれど。グリフィンドールとの試合に勝ち、機嫌の良かったらしいビーリー先生から他の生徒よりも早めに聞き出してきてくれたそれを思い出しながら、ミッドナイトブルーの背表紙を親指で叩く。ビーリー先生は、手伝いをすればハニーデュークスのチョコレートやファッジをくれるような優しい魔法使いだ。きっと、ジェインに嘘なんて吐かないはずだ。


「……去年、どんな内容だったっけ」


考えながら、そういえば、去年の、一年生の薬草学の試験はどんな内容だっただろうかと腕を組む。しかし、どうしたって思い出せないのはその時の私の頭の中は、薬草学の次の試験、防衛術の筆記試験の後にひとつ魔法を披露しなくてはならないということでいっぱいで、その日の朝、ミルクを飲めたかどうかも覚えていないせいだった。


「今年も、するのかな」


腕を組んだまま、脇腹の辺り、今日はローブの内ポケットに突っ込んだ杖を確かめる。今なら、今の私なら、何の魔法をみせるだろう。少なくとも、惨めに情けなく床に座り込んだまま杖を振ることは、もう二度と、ないだろう。


「あれ?」


ミネルバに貰った銀のデイジーが咲いた教室が、瞬きと共にひゅっと消え去る。その代わり、目の前に現れたのは赤い首もとの魔法使いで、彼は私を見て、私の手にあるものを見て、目を丸くしていた。


「その本、君の?」


グリフィンドールの上級生の彼の長い首が、右に傾く。頬を掻く彼の後ろ頭は、どんな枕を使っているのだろう。襟は正しく、セーターの長さも丁度よく、しかし酷く跳ねた後ろ髪から私は目をそらせないまま、小さく首を振った。


「あ、あの、弟が、返却はまだ先だから、今週中に返してくれれば、って、」

「弟?あのスリザリンの子だよね?」

「はい、その、スリザリンの、一年生の」

「へえ……?へえ……そうかい、弟……。又貸しすると誰が失くしたのか分からなくなるから良くないんだけれど、まあ、姉弟なら、うーん、良いのかなあ……?」


右へ左へ、三度も首を傾け直した彼に『実践呪文集』が酷く重く感じる。何も考えずに悪いことをしてしまったと、喉の奥がピクシー妖精に引っ掻かれたかのように痛んで、私は思わず爪先に力を込める。
だけれど、そんな私を見付けたのだろうか。グリフィンドールの彼はまあいいか!と、まるでもうひと掻きしようと笑っていた喉の奥のピクシー妖精を追い払うほどの大きな声で言ったので、『実践呪文集』はたちまち軽くなる。爪先に、じわ、と熱が広がった。


「ようは期日までにちゃんと返ってくれば良いだけの話だからね。経過は気にしないでおくよ。マダムには秘密だよ?」

「は、はい、すみません、ごめんなさい……」

「いいや、いいや、大丈夫だ。それよりその本、どうだった?僕が勧めたんだよ、それ」


彼の瞳を何処かで見たことがある、と感じたのは、多分、『実践呪文集』を私に差し出したトムと同じ、一年生のような、魔法を覚えたてかのような素敵な瞳をしていたからだろう。


「……あの、トムは、弟は、とっても良かったって。だから、私にも勧めてくれたんです」

「そうか、そうかあ、良かったよ!君もそれ、じっくり読むと良いよ。読めば読むほど学べることがあるからね。本当に良かったよ、その本の素晴らしさを伝えてくれる子がいて」

「………………はい」


たっぷり瞬き三回分、隙間をあけて頷けば、彼はグリフィンドールの首もとによく似合う、に、と大きな笑みを浮かべて私の肩を叩き、それじゃあねと去っていく。七年生だろうか、靴底は磨り減り、皺ひとつない、しかしどこかくたびれたローブの裾には私よりも多く重ねた年月がそこにこびりついていて、私はあまり分厚くない、図書室の本棚のにおいが染み付いたようなその背中を見送った。
ハッフルパフの七年生、グランド先輩が、廊下の角で彼とすれ違う。足を止め、何か話し出した彼はやはり、七年生なのだろう。


「………………七年生」


本の素晴らしさを、伝えてくれる、子。彼はもう、イモリを終えてしまえば、そのローブに本棚のにおいを染み付かせることもないのだ。
図書室の扉が開き、私は振り返る。赤い首もと、しかし後ろ髪なんてちっとも跳ねていない彼女は私と同じ二年生で、そんな彼女、ミネルバは左腕に『これで君も闇祓い! これさえ覚えれば怖くない』を抱え、満足げに笑っていた。


「ニナ、ごめんなさい、待たせたかしら?私にしては早く済ませたつもりなんだけれど」

「うん、早かったわ、多分、分からないけれど」

「あら、今度からは時間をはかってみる?もしかするとそうした方が私もやる気が出て早く済ませられるかもしれないわ」

「ふふっ、それじゃあ、今度ね、次はそうする」


ミッドナイトブルーの背表紙をひと撫で、私も少し、読んでみようと考えながら、ミネルバのローブの袖を掴む。ただやっぱり、ベッドの上ではきっと読めないだろうと、私は思った。


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