夜から這い出たような黒なのに、何故だか時折燃えるような赤が蠢いて見えるのは、僕自身、彼に対して後ろめたい気持ちを隠しきれていないせいなのだろうか。


「レイブンクロー戦にこんなフラッグはどう?母様が学生の頃はこういった細くて長いものが流行ったんですって」

「いいんじゃあない?遠くから見ると蛇みたいに見えて、スリザリンらしいわ」

「それなら俺がそっちの布地に鷲を描いてやるよ。そうすれば、蛇が鷲を呑み込んだように見えるだろ」


火のない暖炉の前に深いテールグリーンの布地を広げ、一人の魔女が古びた写真をばらばらとそこに撒く。その中の一枚を指差し、器用にテールグリーンを蛇の形へと切り抜いていくもう一人の魔女の後ろではプルウェットの遠い親戚らしい魔法使いが青い布地を指差し、杖を取り出していた。そんな三人を遠巻きに眺めながら、誰もが二日後のレイブンクロー戦に意識を半分食べられていて、しかし僕だけが残念なことにそうではなかった。


「トム、このフラッグ貸してあげるよ。ゴイルのお古なんだけれどね、ほら、振ると蛇みたいに光るんだ」

「光らなくていいよ、別に。それに、僕、観に行くつもりは、」

「光らなくていいのならこれはどうだい、リドル!前のグリフィンドール戦で僕とヴィックの二人で作ったフラッグが丁度ふたつ、余ってるんだ」

「……だってさ、アルファード。君の右手と左手にぴったりな数だよ」


二人掛けの、革張りのソファの右端。『実践呪文集』を右手に浅く腰かけていた彼、トムはそう言って同じ一年生の魔法使いから受け取った小さな三角のフラッグを、ソファの背凭れに肘をつきトムの後ろに立っていたアルファードにそのまま流した。ひらひらと、小さなそれをアルファードが振れば、光ることのないそれはただはためく。アルファードには、隠すつもりなんて杖の先程だってないのだろう。つまらなさそうに唇を尖らせ、ソファの背凭れに顎を乗せるよう背中を丸めた。


「ヴィックに文句を言っておいてくれるかい?こんなもの、魔法使いのフラッグじゃあないってね」

「それはこの僕にも文句を言ってることになると思うぞ、ブラック。何が不満なんだよ、光らないことか?」

「そうだよ、そうだとも!こんなマグル式のフラッグ、俺は認めない」

「んー、それもそうか……。じゃあ、そうだなあ、ヴィックともう一度作り直してみるよ。光るように」

「そう、光るように!」


三角のそれを持ち主に返し、アルファードは手を振る。その頃にはトムは会話には混じるつもりもなく、『実践呪文集』を二頁も進んでいて、時折暖炉の前に広げられたテールグリーンのそれを気にするように視線を上げるだけだった。
そうして僕は、そんな彼を横目に、魔法史の教科書を読むふりをするばかりだ。
一頁の半分も進んでいない、だけれどいつまでも同じ頁を開いているには時間が随分と経ちすぎていて、僕は頁の隅にふられた数字を見ながらそれを捲る。十七世紀の魔法使いはどうしたってこんなにも間抜けなのかと、視界の端にちらつくプラチナブロンドを耳にひっかけながら、横目に見るのはやはりトムの姿だった。


「そういえばアルファード、君、少し元気が出てきたみたいだね」

「ええ?ううーん、そうだね、いや、んん、元気というか、考えないようにしていると言うか……」

「そうなの?何を?」

「ああ、そんなもの決まってるじゃあないか、…………危ない!い、言わないよ!」

「……残念」


肩越しに、直ぐ後ろに立つアルファードを振り返る。去年の今頃は、僕もあんな風に笑っていただろうか。思い返してもみればグリーングラスやフリントとああいった顔をしていたような気もするし、だが、ヴァルブルガやルクレティアの前で顔をしかめていた気もする。どちらにせよ、今よりはきっと、まともな、嫌に居心地の悪い気分ではなかったはずだった。
あれは、あの言葉に、トムは、意味を持たせていたのだろうか。


「マルフォイ、暇ならあっちで僕達とチェスでもしないか?勿論、勉強中なら邪魔はしないが」

「……後で行く。ここだけ読んでしまいたいんだ」

「分かった。それじゃあ後で来いよ」


誰が話しかけてきたのか、振り返らなければ分かりもしないが、分かったところで意味もなく、僕は魔法史の教科書に視線を戻し、軽く手を振った。特別無愛想には見えなかったことだろう。じゃあな、と僕の座る一人掛けのソファの背凭れを叩いた魔法使い、恐らくのところ純血の誰かは、何も文句を言わず、遠ざかる足音だけが響いていた。僕をチェスに誘う魔法使いなんて、純血ばかりだ。
頁の隅にふられた数字を、親指で隠す。強く押せば白くなる指先に、僕はぼんやりとトムの言葉を、トムがグリフィンドールの上級生と話したのだというそれを思い出しながら、また彼を横目に見た。


「何を悩んでいるのかは知らないけれど、早く解決してくれないかな」

「俺のこと、心配してくれるんだね?ああトム、君ってやっぱり親友だ!」

「君が夜遅く、寝ながら唸るせいでなかなか寝付けないんだ」

「……うううん」


魔女に、優しく。好きな魔女、以外にも、優しく。彼の好きな、魔女は。
首を掻いたアルファードにつられるように、僕の右手も首を掻く。隠しきれていない後ろめたさを小さな棘で刺されるような、気味の悪い、嫌な心地に僕は頭が痛くてならなかった。
謝りたくなんて、謝るつもりなんて、杖の先よりももっとずっと、ありはしないのに。





「あれ?ラヴィー、今日はグリフィンドールの魔女とは別行動?」


かつん、と右の爪先が左の踵を蹴飛ばしてしまったのは、突然話しかけられたからではなく、彼、イアンのストロベリーブロンドの隣、ジャックの赤毛がくすんだ赤毛に見えたせいだった。
廊下の角の先、変身術の教室の前に立っていたふたりに手を振られ、私は小さく手を振り返す。開け放された扉の向こうではヒューがローブのフードをすっぽりと被り、机と教科書を枕に眠っていて、私は教室には入らず、二人の前で立ち止まった。隣に荷物を置いてしまえば、彼は直ぐに起きてしまうだろう。


「ミネルバは、明日、試合だから……」

「試合?クィディッチの?……彼女、選手なの?」

「ううん、違うの、違う。でも、クィディッチがとってもね、好きなの。だから、試合の前は、特に相手チームの寮だと」

「ああ、なるほど、ハッフルパフ戦だからラヴィーを避けてるのか」


こくりと頷いて、ヒューの向こう、教室の奥、一番前の席を見る。今日はグリフィンドールの魔女と並んで座るミネルバは、手を振ればきっと必ず、笑顔で返してくれるだろう。だけれど彼女の視界には瞬きの間に箒やブラッジャーが飛び交っていて、私が彼女に歩み寄る前に、思い出したかのように眉を寄せ、肩を怒らせるのだ。決して私を嫌ってそうしているのではないとは分かっているのだけれど、ほんの少し、寂しくは思う。
多分、ひとりきりでいると時折、震え上がるように恐ろしい気持ちになってしまうから、余計に。


「それじゃあ、授業が始まるまで僕達とここで話す?ヒューは寝てるし、同じ部屋の子達も……まだ来てないみたいだから」

「ヒューのやつ、昨日遅くまで本なんか読んでたからだぜ。何が楽しいんだろうなあ」

「そう?僕もわりと読む方だから、夜更かしする気持ち、分かるよ。ね、ラヴィー」

「うん、うん。あのね、それに、昼間に読むよりも、夜遅く、ベッドの上で読む方が楽しいもの」

「ベッドの上で本なんか開いたら、五分で寝るからなあ……」


言って、くすんでいない、燃えるような赤毛を揺らすように、ジャックは笑う。陽に焼けた頬に座るそばかすが素敵で、私は彼の大きく開いた口や頬を眺めていた。


「もうすぐ試験だっていうのに、困ったよ。今年も魔法史の教科書を枕にする度に起こさなくちゃならないの?」

「……いつも朝起こしてやって、いっ!?」

「うるさい、余計なこと言わないで」


呆れたような顔をしてイアンが肩を竦めたかと思えば、ジャックの口を塞ぐかのように、イアンはジャックの頭を上から叩き、舌を無理矢理噛ませる。ジャックは何を言おうとしたのだろうか。彼の大きく開いた口が突然舌を噛んだせいで、それを見ていた私はただ驚くことしか出来なかった。


「だ、大丈夫?ジャック」

「舌噛んだ……」

「謝らないよ。僕に恥をかかせようとした君が悪い」

「恥だって思うなら朝一人で起き、いでっ!?」

「じゃ、ジャック、大丈夫……!?」


がちん!と今度は先程よりも強く、ジャックの奥歯がぶつかる音がして、その場にしゃがみこんでしまった彼の背中を撫でる。それに意味はないとは分かっていたが、舌も奥歯も撫でるわけにはいかないのだから私は繰り返し繰り返し背中を撫でることしか出来ない。


「ラヴィー、ビスケットでもどう?ジャックなんて放っておけばいいよ」

「で、でも、」

「平気、平気。だって魔法使いだし」


いつものことさ。と、イアンが両手を上げて肩を竦めてみせたので、ふ、と、私はサミュエルがヒューを肘で突く姿を思い出す。魔法使いというものは、男の子というものは、そういうものなのだろうか。
ジャックの背中を最後にひと撫で、私はローブの皺を伸ばしながら立ち上がり、しかしやはりジャックの様子が気になって、腰を折るように彼の顔を覗きこむ。陽に焼けた頬が赤らんでいるのは、奥歯と奥歯のその間に火花が散ったせいだろう。大丈夫か、と訊くよりも早く、大丈夫だ、と、両手で口を覆ったせいでくぐもった、だけれど上級生のようにまだ低くないジャックの声が聞こえて、私はローブのポケットから、たったひとつそこにいたラズベリー色をひとつ取り出し、それを彼に差し出した。


「それよりさ、ラヴィーはもう試験の勉強、始めていたりするの?」


もごもごと、ジャックの奥歯がありがとうと呟くのを聞きながら、私はイアンを振り返る。ストロベリーブロンドの前髪を右に流した彼は、ラズベリー色が欲しかったのだろうか。ラズベリー色を握りこんだジャックの左手を見下ろし、彼は頭を掻いていた。


「んん、……少しね。すこうし、だけ」

「風が吹いたと思えば試験もやって来るからね。やっぱり、早めにやるべきだよね」

「うん、でも、試験もすぐだけれど、夏休みもすぐだわ」


ローブのポケットを右と左、手を突っ込んで確かめてみるけれど、そこにラズベリー色はいない。内ポケットならどうだろうかと外側から撫でるように確かめてみたが、やはりそこにもラズベリー色はおらず、あるのはハンカチと、ハンカチに潰されるように下に下に追いやられた杖だけだった。


「…………夏休みか」


ポケットの中から怒ったように私を見上げる杖に気付いて、私はハンカチと杖を分けてポケットに入れ直す。それからぽんとポケットの上から杖を撫でて、どうか次の授業が始まるまでに機嫌が良くなるようにと舌の上で祈った。
イアンが、また、頭を掻く。細くやわらかな、癖のない髪はどうしたって品がそこにあって、どれだけ乱れても、イアンはイアンだった。


「はー……痛かった……。イアン、そんなに嫌なら直せよな……」

「あれ、なんだ、もう平気なの」

「お陰さまで、どうも!あ、ラヴィー、これ、ありがとうな」

「ううん、いいの、どういたしまして」


奥歯の火花は漸く消えたのか。その場にしゃがみこんでいたジャックがゆっくりと立ち上がりながら、ラズベリー色の包みを開く。甘いだけのそれは、彼も好んでよく食べるものらしかった。
廊下の角を曲がって、ジェインがひとり、アンとリリスよりもはやく駆けてくる。もうそろそろ授業が始まる時間だろうか。一番後ろ、お喋りをしていてもあまり目立たないその席を取るため慌てて教室に駆け込んだジェインは、しかし、私に手を振ることは忘れなかった。


「ニナ、席はもうとったの?ニナの分もとる?それともガーランドの隣?」

「うん、そうするつもり、ありがとうジェイン」

「いいえ!大したことじゃあないわ!」


今日はゆるい、一本の三つ編みに編んだジンジャーの赤毛を揺らして、ジェインは机を椅子に通路を塞いでいたグリフィンドールの魔法使いを掻き分け、一番後ろのその席へと鞄を放る。イアンはそういった、埃が舞い上がるようなことは嫌いなのだろうか。ひゅう、と口笛を吹いて手を叩いたジャックの隣で、イアンだけが一瞬、まるで何が起こったのかが分からないというような顔をしていた。もしかするとただ、ジェインの鞄が器用に机の上を滑ったことに驚いただけなのかもしれないけれど。
アンとリリスが、ひらひらと手を振りながら歩いてくる。その後ろを、レイブンクローの上級生の魔法使いが歩いていて、そうしてその後ろには、もう一人、上級生の魔法使いがいた。
ジャックの燃えるような赤毛を見たときよりもずっと大きく、お腹の底が跳ねた。


「ニナ、もうすぐ授業が始まるわよ」

「う、ん、うん、ありがとう、アン」


立っているだけなのに、爪先が踵を蹴り飛ばそうとする。サミュエルによく似た癖のあるその髪の下から、ガラスのように透き通るグレーの瞳が私を見て、口許をぎこちなく動かし、そうして、何にも言わず、私のすぐ横を、駆け足で通り過ぎていった。
甘い甘い、マグルの香水の匂いだけが、私をそこでじっと、睨み付けているかのようだった。


「……メイフィールド先輩、何を照れてたんだろ」

「は?照れてたのか?何で?」

「そんなこと僕が知るはずないよ。それより、僕達もそろそろ教室に、……ラヴィー?」


右と左の耳を、そうっと塞ぐ。それからぶるぶると震える睫毛を下ろせば、そこには何もなくて、だけれど甘い、甘い香水の匂いだけはそこにいて、私はどうして息を止めなかったのかと喉を震わせた。
顔を上げれば、イアンが不思議そうに首を傾け、私の顔を覗きこんでいた。


「ラヴィー、どうかしたの?気分でも悪い……?」

「えっ、そうなのかっ?大丈夫かよ、医務室連れてってやろうか?」

「だ、大丈夫、平気よ、大丈夫。ありがとう、ふたりとも。あの、教室に、入らなきゃ」


慌てて首を振り、私はふたりの腕を押す。中庭を歩いてきたのだろうか。葉っぱを二枚、指先で摘まんだダンブルドア先生がローブを引きずり歩いてくるのが見えて、私はますますふたりの腕を押した。
今起きたのだろう。フードを深く被ったまま、夢を見送る藍色の瞳が待つその席へと急ぎながら、私はひとり、鼻を押さえる。


「……眠い」

「おはよう、ヒュー。よく眠れた?」

「夜更かしなんかするからだぞ」


彼の、アンドリュー先輩の甘いマグルの香水は、ありもしないのに、いつまでもそこにくっついている気がしてならなかった。



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