「やあ、何だ、僕好みの香りがすると思えば、なるほど、ニナだったのか」


いつか貰った、羊皮紙の上をよく滑る、躍り上手な羽根ペンの先は、例えインクが掠れ、力を入れすぎたとしても羊皮紙を破くようなことは滅多にしない。それでもびりっと音がしたのは直ぐ隣、長い脚の椅子を動かしてまでぴったりとくっつくように座っていたミネルバの右手がおかしな方向へと動いたからで、くっついてはいたものの、すっかり教科書と話し込み見つめ合っていた彼女は、教科書を開いて以来初めて顔を上げた。


「アルヴィ先輩、アルヴィ先輩もレポートですか?」

「この香りに誘われてきたんだと言ったら、どうする?」

「ライラック、好きなんですか?ええと、それじゃあ、あの、……ほ、欲しいですか?」

「……うーん、難しい」


よく滑る、だけれど持ち主が私なせいでなかなか先に進むことの出来ていなかった羽根ペンをインク瓶の上に重ねて、耳元に触れる。両耳の上、ダークブラウンを少しずつとり細く編んだふたつの三つ編みに絡めるように挿したライラックをひとつ抜こうとすれば、何故だかミネルバがそんな私の手を押さえるようにとったので、私は奇妙な体勢でミネルバを振り返る。眉を寄せて首を振る彼女は、今朝、リリスが機嫌よく仕上げてくれたこの髪型が崩れることが嫌なのかもしれない。


「ニナに妙なことを言わないでください」

「妙なこと?そんなこと、言った覚えがない。素直な気持ちを話すことが妙だと言うのなら、それに当てはまるけれどね」

「……ふざけるのは止してください」


ここ最近、ずっとそれを髪に飾り付けているからだろうか。ミネルバの低い、アルヴィ先輩を追い払いたくて仕方のないような声を聞いてもやわらかく甘く空気が揺れるので、私は焦ることなく、ぼんやりとミネルバの丁寧にまとめあげられたシニヨンを見つめる。リリスに、明日はシニヨンが良いとお願いしてみようか。彼女はライラックの香りが特別好きだと私が初めて髪にそれを飾り付けたその日、嬉しそうに話してくれたので、咲いたそれを半分彼女の枕元に置けば、笑って頷いてくれるかもしれない。


「仕方がない、今日は出直すことにしよう。グリフィンドール産の番犬は手強い」

「…………何とでもどうぞ」

「ああ、それじゃあニナ、また今度」


もう少し話したかったのに、残念だ。
アルヴィ先輩の右目が器用に瞬きをして、私は目の前でライラックの匂いが弾けたように肩を揺らす。アルヴィ先輩が私の前髪をひと撫でしたかと思えば彼はもう此方に背中を向けていて、私は二度、大きく瞬きをした。ライラックの花は、欲しくはなかったのだろうか。


「スリザリン産の女好き……」


ミネルバの左手が、破れた羊皮紙を埋めるように強く撫でる。しかし、杖ではない左手にそれを埋めることは出来ず、引っ掻き傷のようだったそれが大きなかさぶたになってしまっただけで、ミネルバはそれを見るなり鼻筋に皺を寄せ、珍しく乱暴に、わざと音を立てるかのように教科書を捲った。今回の変身術のレポートは、ミネルバの得意な魔法動物から魔法植物への変化だというのに、何処か難しい頁でもあったのだろうか。


「ニナ、あんな人と話しちゃ駄目よ、二人きりになるなんてもっての他、あり得ないわ」

「んん、うん、ねえ、ミネルバ、私、リリスに頼んで、明日はシニヨンにしてもらおうと思ってるんだけれど、どう?」

「……ニナ、あなたの耳はどちらを向いて何を拾い上げていたのかしら」

「私の目なら、見てたわ。ミネルバのシニヨンを見てたわ」


覆うように耳を塞いで、それから目の下瞼の上に、人差し指を乗せる。そんな私に呆れたのだろうか、しかし何故だか肩を竦めて笑ったミネルバは、もう乱暴に教科書を捲ることはなかった。


「良いんじゃあない?明日が楽しみだわ」

「本当っ?それなら、後でリリスに頼んでみる」

「ええ、最高に楽しみよ。試験のことを考える以外にも楽しみが出来るなんて」


変身術の教科書を捲るミネルバは、きっと、わざとそんなことを言うのだろう。捲られた教科書の五十二頁の裏側で、そこにくっついていたインクが試験という文字になって見え隠れしている。ふふ、と笑うミネルバの生真面目な唇は今、嘘を吐いていない。つまり、彼女は本当に、お腹の底から試験のことを考えることが楽しくて仕方がないのだ。
一番になれば、彼女のようにうんと賢ければ、私もそんなことを思うのだろうか。丁寧な、後れ毛のないシニヨンの中に詰まったそれを見透かそうと、目を細めてみる。しかしそこに見付けられたのは銀のデイジーだけで、私は自分の後ろ頭を撫でる。ライラックを絡めたダークブラウンの中は、今のところ、何かが詰まっているとは言えなかった。


「……イースター明けじゃあ、駄目なの?」

「ニナ、レポートが終わったら魔法史から始めましょう。何事も早めに取り組むべきだわ」

「…………う、うん」


ミネルバの長い腕が、直ぐ後ろの本棚から『西洋魔法史』を取り、それを私の前に差し出してくる。深いテールグリーンの背表紙にしがみつく銀のインクは、今思えばスリザリンの首もとのそれによく似ていた。







「魔女と花は良いな。君が随分褒めるから何かと思えば、ああいうことだったのか」

「キャラメルトフィーの匂いがする花があれば、もっと良かったんだけどな」

「それはニコラス、残念、君だけだ」


闇の魔術に対する防衛術の教室から出た俺の視界に真っ先に飛び込んできたのは、窓枠にもたれ、腕を組み肩を寄せて窓の外、中庭を見下ろすハッフルパフの上級生と、それから同じように並んで立つ彼、アルヴィ・エインズワースさんの姿だった。
グリフィンドールの魔法使いの背中に溶けたヌガーをくっ付けるのは、少なくともポップルウェル先生に見付からないよう、授業が終わった後にするべきことだったのだろう。青白いにやけ顔、と声をひそめて笑ったグリフィンドール生のローブに、ローブの内ポケットからヌガーを取り出し、手が当たったふりをしてそれをそいつの背中に擦り付けた。しかし、運が悪かったのだ。その時丁度ポップルウェル先生はトムの杖の振り方を褒めようとトムの名を呼んだところで、その隣に座っていた俺は彼のハシバミ色の視界に入ってしまったのだ。本当にぴったりと、ローブにヌガーを擦り付けたその瞬間に。
十点減点の上に教科書の書き取りという罰則を終え、くたびれた右手を労るように撫でながら、エインズワースさんの邪魔にならぬようにと俺はそうっと、壁になった気持ちで廊下を歩く。


「可哀想に、『西洋魔法史』なんか持って。あれは詳しく書かれてはいるが、詳しすぎるんだ」

「もう試験の準備か?早いな」

「早いに越したことはない。まあ、やるよう勧めたのはグリフィンドールの彼女だな」

「ああ、マクゴナガル。アンディが見るからにへなちょこなら、あいつは見るからに真面目だな」

「そういうニコラスは見るからにやる気がない」

「アル、残念、お前もだ」

「何だと、ふざけたことを」


エインズワースさんも、肩を押し合ったりするものなのか。
ホグワーツの六年生の魔法使いの在り方として、ダークブラウンの髪をしたハッフルパフ生の肩を押し、鼻筋の天辺に皺が寄るほど笑うその姿は、正しく正解だろう。俺は彼をどこか神聖な、他の誰とも違う特別な魔法使いのように思っていて、それは今も勿論変わりはないが、ただ、ほんの少し、俺が思っているよりも近しい場所にいるのかもしれないと、考え直す。彼も、ただの六年生なのだ。俺と同じ、ホグワーツの生徒なのだ。


「……それでも、全然、格好いいなあ……」


同じ、なのだけれど。
長いブロンドを、エインズワースさんは艶のある緑のリボンで結んでいる。あれが俺や他の誰かがすれば、女々しい魔法使いだと笑われていたことだろう。しかし彼はそういった陰口から一本外れた場所にいて、俺はぼうっと彼を振り返りながら廊下を突き当たり、今日は大人しい、動かない階段を下りた。
同じホグワーツの生徒であっても、やはり、彼は神聖な、誰とも違う特別な魔法使いなのだ。


「……俺が髪を伸ばしてもなあ」


かつかつと、踵を鳴らし、階段を下りきる。摘まんだ前髪はブラックの名前そのもので、あれはブロンドの髪だから素敵に見えるのだと首を振った。
廊下を曲がり、レイブンクローの上級生の魔女と魔法使いが前からやって来る。いかにも賢そうな、監督生の証をローブにくっ付けた魔女がふと後ろを振り返り、あ、と小さく手を上げた先には本を一冊、とはいえ俺が開けば二分ももたずに船を漕いでしまうだろう分厚すぎるそれを持った、ハッフルパフの魔女がいた。


「んん?」


レイブンクローの監督生の魔女に気付き、彼女は分厚すぎるそれをどうにか片手で抱え、手を振り返す。長い、ゆるやかに揺れるダークブラウンの髪をしたハッフルパフのその魔女は、いつかトムが好きだと話した魔女だった。
ふ、と笑って、レイブンクローの魔女と魔法使いは俺の横を通り過ぎていく。だから、二人は彼女の左腕ひとつでは『西洋魔法史』を抱えきれなかったことに気付くことはなく、テールグリーンの背表紙は左手のひらを音もなく滑り落ちていった。


「危ないよ」

「あ、あ、ありがとうっ……」


だけれど俺は、きちんと気付いていた。
大股で七歩、彼女に駆け寄って、彼女の左手ごと『西洋魔法史』を支えてやれば、まさか俺がそんなことをするなんて杖の先程も思ってもみなかったのだろう。その上、俺がいたことにすら彼女は気付いていなかった様子なので、ありがとうと言う彼女のダークブラウンの瞳は酷く驚いていた。
気紛れでたったの一度だけ、お礼を言ってしまった時の屋敷しもべ妖精に似ているなあ、と、彼女がしっかりと『西洋魔法史』を抱え直したのを確かめながら、首を掻く。ただあの時は、俺のお礼の言葉を飲み込みきることが出来ず、屋敷しもべ妖精はわあわあと泣いてしまったのだけれど。


「ええと、……前に、何度か話したよね?」

「う、うん。あの、話すのは久し振りだわ、とっても」

「そうだよね。うん、そうだ。……そう、久し振りだから分からないんだよ、きっと、」

「え?」


泣き出すことはなく、首を傾け彼女は俺を見る。息をすれば甘い、やわらかな匂いがして、俺は彼女とは正反対、逆に首を傾け、今度は頬を掻いた。


「名前、何だったかなあ?」


そうしてそのまま、庇うように頬に手を添えたのは、自分があまりにもとんでもなく失礼なことを訊いている自覚があったからだ。
多分きっと、一年生ではない、彼女の首もとのカナリアイエローと受ける授業では姿を見ることはない彼女の右手を、注意深く見る。俺が失礼なことを言えば、杖を振り上げ、髪を引っ張り、ズボンからはみ出たシャツの尻尾を捕まえ、時に頬を引っ掻いてくるのがヴァルブルガ・ブラックという名の魔女であり、姉だった。そうしてそれは叔母であるドレア・ブラックも同じであり、視界の端の端、隅っこには、白く凍りついた髪が見えた気がした。
背中に垂れ下がっていたシャツの尻尾を、後ろ手でズボンの中に突っ込む。ついでにセーターまでも突っ込んでしまったが、これで誰もが、彼女も、俺を捕まえることは難しくなるだろう。


「あ、言ってなかった?私、ニナよ。ニナ・ラヴィー。二年生なの」


しかし、彼女、ニナ・ラヴィーの頭の中には、杖を振り上げ髪を引っ張り、シャツの尻尾を捕まえるだなんて、まるで野蛮なトロールじみた考えは、欠片だってなかったらしい。
テールグリーンの本の表紙を、頬を引っ掻こうともしてこない右手が撫でる。短くはねた前髪の下に覗く眉は、姉さんのようにきつくなく、髪と同じダークブラウンの瞳は、優しく細められていた。
彼女は本当に、魔女なのだろうか。姉さんやドレア叔母さんと同じ、魔女なのだろうか。


「え、ええと、俺は、アルファードだよ。アルファード・ブラック……」

「ええ、うん、知ってるわ」

「えっ?知ってるのかい?ど、どうして?」

「だって、トムのお友達だもの」


カナリアイエローのせいだろうか。白すぎない頬が笑って、俺は目を丸くする。そうして漸く初めて、彼女の髪に小さな花が飾られていることに気付いて、俺はズボンからセーターを、シャツも、出した。
甘い匂いは、これだったのか。


「もしかすると前にも言ったかもしれないんだけれど、もう一度だけ、言っても良いかい?」

「なあに?」

「俺、君みたいな魔女って、好きだなあ」


俺達、何だか気が合いそうだって、思わない?
シャツの尻尾を、彼女は笑わない。その代わり、テールグリーンの本を抱えたまま彼女は俺の髪を見て、頬を見て、爪先を見て、それから最後に鼻先を見た。


「アルファードも、トムが好き?」

「うん、とってもね。愛する親友だよ。……こんなこと言うと、トムは、怒るけれど」

「それじゃあ、私のカナリアイエローは?この色は、気にならない?」

「うん?ああ、とってもよく似合っていると思うよ。目立って仕方がない気もするけれどね。俺の緑はどう?格好いい?」

「……うん、似合うわ、とっても」


下の睫毛と上の睫毛が重なるのが、よく見える。ゆっくりと瞬きをした彼女の右手は『西洋魔法史』の表紙を撫でて、その下に浮かぶ銀のインクがぎらぎらと眩しく光った。


「うん、そうね、そうだわ、気が合いそうだって、私も思う」


私も、アルファードみたいな魔法使いって、好きだもの。
表紙を撫でていた右手が、ローブのポケットに突っ込まれる。右足を上げて本を支えた彼女を心配するよりも早く、ポケットから何かを掴み取り出した彼女がその右手を俺に差し出したので、俺は慌てて両手を皿にした。


「あげるね、ラズベリー色」


ころんとひとつ、ラズベリー色の丸いそれが、手のひらの上に落とされる。彼女は満足げに、唇で大きな半月を描いてそこにいて、俺はそれを手に歯を覗かせて笑ってみせた。
品がない、と大人の魔女や魔法使い達から叱られたことのあるその笑い方に、彼女はやはり、右手でテールグリーンの表紙を撫でるだけだった。


「ありがとうっ、俺、君とは上手くやっていける気しかしないなあ!」

「トムともね、トムともずっと、仲良くしてね」

「勿論さ!だってトムは俺にとっての愛する親友だからね!」


彼女が肩を揺らし笑えば、長い長いダークブラウンの髪が揺れて、そこに飾られた小さな花が、ぷかぷかと甘い匂いを泳がせる。多分きっと、恐らく、俺はその時、エインズワースさんと同じ、正しく正解な姿で笑う、一年生だっただろう。
その夜、俺を放って本を読み耽るトムの隣で食べたラズベリー色のそれは、ただただ甘い、けれども書き取りという罰則に疲れた右手を労るにはぴったりな味がした。


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