友人を選ぶときは靴を見るのだと、二年前の夏、ホグワーツからの手紙が届いたばかりの僕に言ったのはスリザリンの監督生としてその年ホグワーツを卒業した、グリーングラス家の血筋の魔法使いだった。


「おお、珍しいなマルフォイ、君がそんなに足音を立てて歩くなんて」

「急いでるんだ、気にしないでくれ」


汚れ防止魔法に防水魔法。ガリオンを積めば積むほど、靴を買ったばかりの状態に保ち、しかし足によく馴染むよう魔法がかけられているのが僕達のような魔法使いの靴なのだと、彼は言っていた。僕達のような、つまるところ上流階級の魔法使いや魔女を見分けるにはそういったものを見ろと、そういうことなのだ。
爪先の汚れていない、靴紐すら光る革靴を通り過ぎ、僕は踵を踏み鳴らすように歩く。何だって今、僕はそんなことを思い出しているのだろうか。舌の裏に苦味がくっついたような、魔法薬学や薬草学の授業の後のような、まるで嫌な臭いのする何かを感じて、僕はひとりローブの裾を払うように叩く。
視界の端を過ったのはダークブラウンの背中ではなく、夜より暗い、黒い背中だった。


「アルファード、トムを知らないか?」


僕に気付かず階段を上ろうとしていた彼、アルファードを呼び止めれば、アルファードは動く階段の手摺に手をかけ驚いたように僕を振り返る。まさかこの煩く響く足音の持ち主が僕の革靴だとは思わなかったのだろう。目を丸くして爪先、踵、それから僕の目を見たアルファードは、首を傾け廊下の先を指差した。


「トムなら図書室に天文学の本を借りに行ったけれど……それにしたってアブラクサス、どうしたっていうんだい?珍しいじゃあないか、俺じゃああるまいし、そんな足音!」

「図書室だな。ありがとう、それじゃあ」

「あ、酷いや、その態度!もう俺には用は無いって顔!そうだよ君って酷い魔法使いだった!」


動く階段に引っ張られるように、アルファードの体が傾き彼は右足で跳ねる。そんな彼にこれ以上は用はないのだと正直に顔に出せば、彼は余程不満だったのだろう。酷い魔法使いだ!と彼はもう一度僕を罵るように叫んで、しかし、僕は彼の言うとおり酷い魔法使いである。さっさと彼から視線を外し、先程指差された廊下の先、図書室へと向かった。
カツカツカツと、踵が煩く響く。廊下の先、空き教室の前を曲がればグリフィンドールの魔法使いが二人の魔女を連れて前から歩いてきたのが見えたが、僕は廊下の端に寄ることはせず、視線を下げた。


「おいマルフォイ、後輩の声、聞こえたぞ。酷い魔法使いだって?」


爪先も踵も、くたびれすり減っている。
ダークブロンドの髪をした魔法使い、三年生だったか、それとも四年生だったか。僕よりも学年が上なことだけは間違いない彼に向かって鼻を鳴らして笑えば、僕が不機嫌そうな顔をして言い返すとでも思っていたのだろう、彼は奇妙そうな顔をして僕を見てきたが、僕はアルファードと同じく、また視線を外し、廊下を歩く。
ふと、あの踵の低い、低すぎる靴はどうだったかと、僕は何故だか、そんなことを考えてしまった。


「…………誰が、勝手に……」


あの手紙は、吠えメールは、出すつもりなんて指先程だってありはしなかった。そもそもあんな品のない、馬鹿げた、見るからに安っぽいもの、僕は嫌いなのだ。今更あれを僕に寄越したアルファードのローブを動く階段の手摺に引っ掛けてやればよかったのだと思いながら、僕の右手は首の後ろを掻く。僕はあんなものを使わなくても、彼女に、直接。
考えて、首の後ろから前へ、右手が動いて、足が止まる。僕は本当に直接、彼女を前にして、同じ言葉を吐き出せただろうか。


「………………馬鹿なことを」


吐き出せたに、決まっている。きっと、もっとずっと、彼女が泣き出してしまうくらいに、酷い罵りがいくらでも喉の奥から飛び出してしまうに違いないのだ。
大きな舌打ちを残し、千切れて落ちた黄ばんだ吠えメールを思い出す。泣くことはなく、しかし頬を怒りに染め上げて僕を睨んだ彼女は、一体何を思ったのだろうか。何故、僕を睨んだのだろうか。


「アブラクサス先輩」


彼女は、ニナ・ラヴィーは、僕がピアスを見付けてやったことに対する感謝の気持ちを、ほんの少しだって持ってはいなかったのだろうか。
いつの間にか廊下を見下ろしていた視界に、よく磨かれた、黒い革靴の爪先が入り込む。『春の星と巨人の関係』を手に、トムは唇にゆるやかな笑みを浮かべて立っていて、僕は思わず喉を押さえた。
彼は、トムは彼女に、何と伝えてピアスを渡したのだろう。


「……天文学の本か」

「はい。レポートを仕上げるのに丁度良いものを探してたんです」

「…………そんなもの借りなくとも、僕が教えてやったのに」

「本当ですか?じゃあ、次からはまずアブラクサス先輩に訊くことにしようかな」

「ああ、構わない。……ところでトム、話は変わるんだが、ひとつ、訊いても良いか?」


ん、とひとつ、喉を鳴らす。奥の奥、骨にくっついたかのような違和感の塊に眉を寄せたりせぬよう頬に力を込めて、僕はトムを見る。スリザリンらしい、ほの暗い瞳は、ひとつと言わずいくらでも、と笑っていた。


「君は彼女に、ニナ・ラヴィーに、何て言ってピアスを返したんだ?」


踵のすり減っていない、トムの革靴が僕の隣に並ぶ。奥歯で噛んだのは舌の上に這い出してきた違和感の塊で、僕はそれをそのままに、彼と並んで廊下を歩く。


「ピアス……ああ、ええっと、確か、親切な先輩が拾ってくれた、と言ったと思いますけど……」


それが、どうかしたんですか?
ほの暗い瞳の裏側に、何かがいる気がしてならない。嘘ではない、何か他の、スリザリンらしい何かが。
喉に当てていた手が、寒さのせいだろうか、やけに冷たく感じたので、僕はローブの袖に手を隠す。それが可笑しかったのだろうか、『春の星と半巨人の関係』を抱き抱えるように持っていたトムの手が真似するように袖を伸ばしたので、僕は気のせいだろうと頭を振り、違和感を飲み下した。
ただ、親切な先輩という言葉で、彼女、ニナ・ラヴィーが僕を思い付くはずがないということだけは、確かなことだった。





──消灯時間の三十分前 地下の廊下の東側 真ん中で

日記帳の頁に走ったばかりのインクを頭の中で繰り返し、目を凝らしても足元もよく見えない、地下の廊下を歩く。上から下に、水が落ちる音がするのはスリザリンの寮が近くなってきたからだろうか。ハッフルパフとスリザリンの真ん真ん中、東側の廊下の壁に手を沿え歩きながら、この廊下の真上には湖が広がっているのかもしれないと考えた。
唯一の灯り、廊下の壁にぽつぽつと灯る蝋燭を数えて、天井を見上げてみる。足の裏がそわそわと落ち着かないのは、消灯時間が近いせいかもしれない。もしもダンブルドア先生や誰か、監督生に見付かれば、こんな時間に何をしているのかと叱られてしまうだろう不安が、不思議と嫌ではないのだ。
湿った壁から手を離し、私は視線を前に向ける。蝋燭の頼りのない灯りの下で、丸い、形の良い頭が、此方を向いて立っていた。


「トムっ」

「しい、静かに、ニナ」


誰かに見付かってはならないのだとでも言うように、トムは右の人差し指を口許に寄せて、左手は背中に肩を竦める。だけれど、跳ねるように駆け寄った私を見るなり楽しそうに目を細めて笑ったので、彼もまた足の裏の落ち着きのなさを楽しんでいるのかもしれないと、私はトムの前に立った。


「ここ、静かだわ。さっきね、水の音がしたの」

「この辺りから湖なのかもね。天井が崩れたら僕達、大変だ」

「ええ、そう、大変、ああでも、トムはいつでも大変だわ。だって、スリザリン寮っていつでも湖の底だものね」

「そうだよ、夜も不安で眠れないんだ。だからニナに慰めて貰おうと思って」


口許に寄せていた指先で、トムは涙を拭うふりをする。やっぱり、足の裏がそわそわと落ち着かないのだ。いつもよりも悪戯な、けれど私よりは弾まない、落ち着いた静かな声で笑うトムに私は肩を震わせて笑い声を抑えた。


「ニナ、ほら、駄目だ、静かに」

「ふふっ、だって、だって、トム」

「……静かにしてくれなくちゃ、カードを渡さないよ」


笑い声は、隠れるのが得意だったらしい。途端に引っ込んだ私のそれに、トムは瞳だけで笑って首を傾ける。音もなく流れたトムの前髪は、イースターになれば、恐らくきっと、母さんが切りたがることだろう。左に流れたその前髪に、トムの長い睫毛が重なる。それを退かすようにトムは前髪を撫で付けて、それから畏まったように踵を揃え、背中に隠していた左手を私の前に差し出した。
蝋燭の灯りは、やはり、頼りない。頼りないけれど、そこにあるものが何なのか、それだけはちゃんと、分かった。


「……ライラックだわ、リラだわ」

「まだ蕾なのに、よく分かったね」

「それに、それにカードも」


きゅ、と縮こまったようなライラックの蕾に、鼻を寄せる。甘い匂いを抱き締めて春を待つそれを、トムはどこで見付けてきたのだろう。不思議に思いながら、ああ、と、私は小さなライラックの蕾の花束と、バレンタインカードを受け取る。
これはきっと、魔法だ。だって彼は、魔法使いなのだから。


「……ありがとう、トム」


ライラックのリボンと、蕾のそれが重なる。魔法使い達の間では、それを贈ることが流行っているのかもしれない。そんなことを考えながら、私は二つ折りのバレンタインカードの表面を親指で撫でる。去年は匂いだけをカードに閉じ込めていたけれど、今年はそれが花束になっていたことが嬉しくて、頬がゆるむ。
私の弟は、なんて素晴らしい魔法使いなのだろう。


「イースターまでには咲くと思うよ、上手くいっていれば」

「枯れたりしない?」

「ひと月はね。これも、上手くいっていればだけれど」


もしも枯れたら、イースターにも花を贈るよ。
バレンタインカードの縁を、トムの指が撫でる。去年よりも少し短い、良いバレンタインを、とだけ書かれたそれは、日記帳と同じ、丁寧で綺麗な文字で、だけれどひとつ違うことは、それが金色のインクで書かれているということだった。
蝋燭の灯りに、揺れるようにインクが光る。私はそれを眺めて、夜で良かったと、ひとり考えた。
もっと早く、吠えメールに叫ばれるよりも早く、トムからのバレンタインカードを受け取っていれば、私のバレンタインは中庭の芝生のように踏み潰されたまま、泥にまみれて横たわっていただろう。


「僕以外から、貰ったりしていないよね?」

「え?貰ったわ、ライラック色の、そう、これと同じ、ライラック色のリボンのバレンタインカード。言ったでしょう?」

「ああ、そうだった。ごめん、忘れてたや」


くつくつと、喉を鳴らしてトムが笑う。湿った壁が大きく口を開けて、トムのやわらかな笑い声を飲み込んでいくのを、私は横目に見ていた。
トムには、言わなくて良いことだ。ミネルバにも、サミュエルにも、ヒューにだって、言わなくて良いことだ。あれは、暖炉の火が消えそうだったから、薪の代わりに放り込んだことにすれば良いのだ。
ふ、と、息を吐くふりをして、私は大きな舌打ちを湿った壁へと吹き飛ばした。壁は何にも言わず、彼の、マルフォイの舌打ちを飲み込み、黙ってそこにある。何処からか聞こえる水の音が、ぴちゃんと響いた。


「……今日は、良い夢が見られそう」

「そんなに嬉しい?」

「うん、嬉しいわ、勿論嬉しいわ」


明日の朝、一番にミネルバに言わなくてはならない。あの吠えメールは燃えて無くなったけれど、代わりにトムが、こんなにも素敵なバレンタインをくれたのだと。何せ彼女は、夕食の間中ずっと、私を見つめていたのだから。きっと、吠えメールはどうしたのかと訊きたかったに違いない。
ライラックの蕾を、鼻先に寄せる。ミネルバよりも低いそれを、私は撫ではしなかった。


「ありがとう、トム、本当に、嬉しい」


蝋燭の灯りが、揺れる。ふふ、と笑ったのは私でもトムでもなく、通りすがりのゴーストで、彼女は湿った壁に半分体を沈め、私達のそばを通り過ぎていく。ひやりとした彼女の纏う空気に、まだ薄い、だけれどきちんと甘い、ライラックの匂いが触れて、私は頬をゆるめて目を閉じた。
ライラック色のリボンが瞼の裏に浮かんで、丸まって、それが蕾に姿を変えたのは、多分きっと、私の我儘なのだろう。あのカードもトムからなら良いのに、という、私の我儘のせいなのだろう。


「もうそろそろ戻らなくちゃ。ニナ」

「うん、うん。…………もう少しだけ、あと、少しだけ」

「……消灯時間、過ぎても知らないからね」


ふふふ、と、ゴーストが笑う。通り過ぎたふりをして壁の向こう側に隠れていたらしい彼女は、その夜、いつまでたっても足の裏がそわそわと落ち着かない私を寮まで送り届けてくれた代わりに、最後の最後、別れ際に私がトムの頬に唇を寄せるまで、そこで私達を眺めていたのだった。


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