「ニーック!ニック!ニコラス!ニコラス様!ブラウン様!ちょっと止まれ!ちょっと!ほんの少し!」


皺だらけの乾燥した口から、まるで此方を寝かし付けるつもりでぼそぼそと退屈に続くビンズ先生の魔法史の授業の後に、若い魔法使いの叫ぶように大きな声は頭に酷く響く。


「ニック!バレンタインカードって何だよ!バレンタインカードって、何だよ!?」

「……何って、バレンタインカードはバレンタインカードだろ」

「そうじゃねえだろ!チョコレートの食い過ぎで頭が溶けてんのかよ!」

「んだとこのもじゃもじゃ赤毛、暴れない柳までぶっ飛ばされてえのか」


僕の直ぐ真横を駆け抜けていったくすんだ赤毛の魔法使いが、ダークブラウンの魔法使いのローブの首もとを掴む。しかし、いつも大広間で気の抜けた顔をして皿に山盛り、取り分ける前のトライフルをそのまま全てひとりで食べていたようなダークブラウンの魔法使いは、お伽噺のような胃袋と舌を持ちながら、その上を滑り吐き出される言葉は存外汚かった。暴れない、大人しい柳までぶっ飛ばすとは。
これだから、ハッフルパフは嫌なのだ。今だけはグリフィンドールの赤に目を瞑り、彼らのカナリアイエローの首もとを睨み付ける。くすんだ赤毛の魔法使いがあまりに勢いよく駆け抜けていったせいで乱れたプラチナブロンドを撫で付けるように耳にかけながら、僕はさっさと寮に荷物を置きに戻ろうと足を動かす。昼食を取るには、魔法史の教科書は分厚く、重過ぎた。


「アブラクサス、寮に戻るのか?俺達はこのまま大広間に行くけど」

「ああ、荷物を置きたいんだ。僕の分の席を取っておいてくれ」

「そうか、分かったよ。それじゃあまた後で」


地下へと続く階段を下りながら、声をかけてきた友人に右手を上げて返す。魔女ならばここで、それなら自分も荷物を置きに行こうとくっついてくるのだろうか。ヴァルブルガが機嫌の良い時はいつもそういう風に彼女について回る魔女達を思い出しながら、僕は鞄を持ち直す。従姉妹でありながらひとりを好んで特別誰かと一緒にいたがらないルクレティアとは違い、ヴァルブルガは良くも悪くも、周りを惹き付ける魔女だった。


「……まあ、魔法使いを惹き付けることはないみたいだ」


しかし、その周りとはスリザリンの魔女達、つまりは純血主義の家系の魔女が殆どで、そういった魔女に彼女が好かれるのはある意味で正解なのだろう。彼女は間違いなくどこまでも澄んだ純血で、それを誇りに思っているに違いなかった。
ただ、問題なのは、あまりにも魔女らし過ぎるということだろう。


「あ、おいマルフォイ、丁度良かった」


まるでマグルに信じられているような、出会えば呪われ、魔女鍋にマグルを放り込むような恐ろしい魔女そのものだ。彼女ならば、やりかねない。マグル生まれの、特にグリフィンドールの魔女を酷く嫌い、鼻に皺を寄せて真っ直ぐな背中を睨む彼女を思い出していれば、階段を下りきり、寮の扉を前にしたところで中から扉が開き、見知った上級生が現れる。
四年生の彼は正しく純血ではないが、それなりに古く、それなりに真っ直ぐな、スリザリンの家系の魔法使いだった。


「どうしました?」

「いや、大した用じゃないんだ。ただ、君は確か、この間グリーングラスから本を借りていただろう?」

「……グリーングラス……ああ、はい。借りました。フランスの魔法使い作家の」

「そうそう、それだ。『呪われた獅子達』、読み終わったら僕に回してくれないか」


そんな名前の本だったか。借りるだけ借りて、しかし十頁も読んでいないマホガニー色の小さなそれを思い浮かべながら、僕は首を傾ける。確か僕はあれを、サイドテーブルに置いたままにしていた筈だった。


「分かりました、それじゃあ今度渡します」

「よろしく。急いではいないから、いつでも良い」


扉を大きく開けて、彼は僕に先に通れと背中で扉を押さえてくれる。それに甘えて寮に入れば、彼は僕の肩を軽く叩き、昼食をとりに行くのだろうか、扉をゆっくりと丁寧に閉め、寮を出ていった。


「マルフォイ、さっきフィリップが探してたぞ」

「今会ったよ。どうも」

「ああ、それなら良かったんだよ」


部屋へと続く通路から、今度は先程の魔法使いよりも古く、真っ直ぐな、父上同士仲の良い魔法使いが現れる。適当に言葉を返せば、彼はさして立ち話をする訳でもなく僕に道を空けてくれたので、僕は彼に肩が当たらぬよう身体を傾け部屋へと向かった。
銀なのか、金なのか。どこまで薄暗ければ気がすむのか、ドアノブの色さえ区別がつかないまま僕はドアを開け、水底に揺れるようなテールグリーンのランプを灯し、三つ並ぶうちのひとつ、自分のベッドに鞄を置いた。


「…………面白いのか、これは」


それから、サイドテーブルに置いたままにしていたそれ、『呪われた獅子達』を手に取り背表紙を眺める。テールグリーンのランプのせいだろう、マホガニー色の背表紙は暗く淀んで、そこにあるはずの文字が見えない。右に左に傾けて、どうにか見えた金色の文字は獅子達の部分だけが剥げていて、持ち主であるグリーングラスは恐らく、『呪われた獅子達』を気に入っているのだろう。
ついでだから、持っていってやろう。思いながら、隣のベッドに広げられていた週刊魔女を覗き見る。誰が回しているのか、すっかり読み古されたそこには見覚えのある品のない便箋と封筒がインクで描かれていて、僕は思わずそれを手に取った。


「………………あれは、どこにやったか、」


僕はあれを、吠えメールを、どこに、置いたか。
サイドテーブルを振り返り、何もないそこを見下ろす。引き出しの取っ手を掴み、開けてみるがそこにあるのは使っていない便箋が三枚だけで、品のない、黄ばんだようなあれはそこにない。
頭の天辺から背中まで、凍った湖の水を真っ逆さまに落とされたかのような感覚に、僕はその場に立ち尽くした。

──しつこくつきまとうあの魔法使いに 嘘の噂を流して笑うあの魔女に あなたの素直な気持ちを伝えましょう
叫んで怒鳴る あなたの羽根ペンの新しい友人 『吠えメール』





ひやりと冷たく、どこか湿った廊下の壁に手を添えて、曲がり角から顔を半分、覗かせる。アールグレイが鼻を撫でるのは、爪先で立ち廊下の向こう、ハシバミの瞳の魔法使いと話すミネルバを見つめる私を後ろから覆い隠すようにサミュエルが立っているからで、私は自分の右手の直ぐ真上に置かれたサミュエルの手を横目に、こっそり彼のローブの袖に鼻を寄せた。


「まさかレイブンクロー生だったとは……」

「サミュエル、サミュエル、知ってるの?」

「話したことはないよ、七年生だもの。静かな魔法使いだし」

「……七年生」


ミネルバの背中や首筋はとても素敵だから、そういえば彼女は、二年生らしくはないかもしれない。
私より背の高い、生真面目な唇をした彼女の横顔を、壁に隠れて半分になった視線で見つめる。頬は白く、だけれど耳や首の後ろ側は熱をもったようにオペラに染め上げられていて、私はひとり、ほうっと息を吐いた。
ミネルバが、ミネルバだけが、大人の魔女に見えるのは何故なのだろう。私はちっとも、そんな風にはなれないのに。


「それより、此処にいちゃあ悪いんじゃない……?ヒューでさえ遠慮して逃げたのに」

「……う、うん、でも、ミネルバが、此処にいてって……」

「それじゃあ、もう見ないでおこうか。もう半分以上は見たようなものだけれど」

「そう、そうね、うん、そうだわ。もう見ないわ、見ない」


頭を振って、壁に添えていた手で視界を覆う。そんな私が面白かったのだろうか、サミュエルは私の旋毛の上で喉を鳴らすように笑って、後ろから私の両方の手首を掴み、歩き出す。あ、と思い出したのは、後ろから私を抱き締めて不器用に歩く、父さんだった。
掴んでいた手首を引いて、サミュエルは私の視界を覆っていた手を退けさせる。廊下の角のその向こうに消えてしまったミネルバとあのレイブンクローの魔法使いは、今頃何を話しているのだろうか。サミュエルとふたり廊下の壁にもたれ掛かり、私は耳の上に座る銀のデイジーを撫でた。


「ヒューは多分、こういうこと、興味ないんだろうね」

「こういうこと?」

「うん、クリスマスの時も思ったんだけれど、こういう、バレンタインとかにさ」


私達の目の前を、グリフィンドールの魔法使いと魔女が歩いていく。ふたりの胸元にあったのは監督生バッジよりも大きく目立つ、グリフィンドールの色をしたバラで、私の視線は通り過ぎていくふたりの背中に吸い寄せられてしまった。あれも、バレンタインに関係あるのだろうか。


「それじゃあ、サミュエルは?サミュエルは興味、あるの?」

「げほっ」


それがふたりだけの特別なバレンタインなのだとしたら、とても素敵な魔法使いと魔女だ。
ぼんやりとそんなことを考えながら、私は廊下の角を曲がらず進んだふたりを見送り、サミュエルに問いかける。するとどうしたのだろうか、サミュエルは途端に酷く引っ掛かる咳をして、私は驚いて振り返る。喉に、大きな冬が来たのだろうか。真っ赤な顔をしてうつ向いたサミュエルに、私は慌てて彼の腕をさすった。


「だ、大丈夫?サミュエル、平気?喉、痛いの?あ、そうだ、あのね、あるのよ、ほら、ラズベリー色!」


右手はサミュエルの腕に触れたまま、左手を乱暴にポケットに突っ込んで、私はラズベリー色をふたつサミュエルの手に握らせる。
その時、喉をひきつらせたのはサミュエルではなかった。


「あ、ありがとう、頂くよ、うん……」

「……本当に大丈夫?水でも、飲みに行く?」

「そ、そうする、だけれど、ニナは此処にいて。僕、ひとりで、ちょっと、うん、水でも飲んでくるっ……」


触れてしまった黄ばんだそれを、ポケットの中で握り締める。ラズベリー色を取り出した時、一瞬、跳ねるようにポケットから飛び出しそうになったそれに、お腹の奥が重く脈を打っていた。
両手で頬を隠すように手を当てたサミュエルが、揺れる足取りで私に背中を向ける。水ではなく元気爆発薬にした方が良いんじゃあないだろうかと思いながら、私はちっとも重くないそれをポケットから取り出して、見下ろした。


「…………宛名も、書いてない」


握り締めたせいだ。横にいくつも皺の入ったそれを伸ばして、お腹と背中を何度も確かめる。ミス・ハモンドの唇のような、カーマインの走る吠えメールを届けた梟は、あんまり頭が良すぎるのだ。届けてくれなくても良かったのに。思いながら、私はその場にしゃがみこむ。
ライラック色のリボンのバレンタインカードは、本当に、素敵なものだったのに。


「……誰からかな」


素敵なバレンタインをニナに。たった一行、だけども甘い花のような香りのそれが書かれていたライラック色が、吠えメールの唇にびりびりと食べられていってしまう。それが嫌で、私は思わず、黄ばんだ便箋の口許をほんの少し、破ってしまった。
多分きっと、恐らく、それが間違いだったのだ。


「えっ、あ、」


皺だらけの便箋が、四つの角をぴんと伸ばして皺を伸ばす。見えない何かに引っ張られているのか、それとも便箋自体が動いているのか、身を捩るようにそれは私の手から抜け出して、私の真ん前、鼻先から杖を一本。近いその距離で、カーマインの唇を開いた。
かつかつと、よく響く足音が、近付いてくる。それがミネルバでなければ良いと、私は思った。


「君はお礼のひとつだって言えやしない、頭の悪い、無礼で、変な顔をした、最悪の魔女だっ!」


箒の柄を、誤って頭にぶつけてしまった時よりも、酷い。
便箋を握り潰すような、くしゃくしゃとした音を混ぜこんで、何故だか聞き覚えのあるその声が私を怒鳴り付ける。短く、だけれど私が思わずその場に腰を下ろしてしまうくらいには惨めな気持ちにさせてしまう、棘だらけの重いその言葉に、私は鼻や喉がきりきりと痛んだ。
私は、どうして、誰に、こんなことを。


「っ、」


チッ!最後にひとつ、鼻先で大きな舌打ちを残し、便箋は自ら破れてその場に落ちていく。ひらひらと、膝に落っこちたそれを手で払うことも出来ず、私はただ目を見開いて、立ち止まった足音の持ち主を、よく磨かれた黒い革靴の爪先を、見ていた。


「……マルフォイ…………」


爪先から、踝へ。吹き抜けの中庭から、ここまで細く長く吹き込んでくる風がローブを揺らして、裏地の緑は此方を向いていた。


「……これ、この、吠えメールは」


プラチナブロンドが、揺れている。アイスブルーの瞳は何も語らず、私を見下ろしている。彼は、この怒鳴り声を聞いたのだろうか。
変な顔だと、初めてあの紅の汽車で出会ったその日から私を嘲笑っていた彼の声は、あの、怒鳴り声と同じではなかっただろうか。


「……あなただわ」


そうだ。私はずっと、あの声で、変な顔だと、笑われていたじゃあないか。
誰が、あの声を、言葉を、忘れられるだろう。色素の薄い睫毛の下で、アイスブルーが私の膝を見る。破れたそれを、私は漸く払い落とし、ゆっくりと立ち上がった。
脚が震えた気がしたのは、きっと、気のせいに違いない。


「あなたの方が、マルフォイの方がずっと、酷い、最悪な、魔法使いだもの!」


じわじわと、お腹の底が熱くなる。きりきりとした痛みは溶けるように消え去り、爪先から指先へ、苛立ちの熱が走り抜けた。
破れたそれを、吠えメールを、腰を折りひっ掴む。それから腕を振り上げて、だけれどそれを投げつけることは出来ず、私はその場で勢いよく足を踏み鳴らし、ひっ掴んだそれはポケットにしまった。もしも私が破れたそれを放ったままにしたと誰かに知られて減点をされてしまうなんて、これ以上腹立たしいことがあるなんて、とても我慢できない。
マルフォイの為に、マルフォイのせいで、ライラックの甘い香りが消えてしまうなんて!


「マルフォイの、マルフォイのっ、」


グリフィンドールの魔法使いが、廊下の角を曲がって此方にやって来る。彼のローブに光る監督生バッジを見付けてしまった私は、酷い、せめて今日一日、マルフォイが眉をひそめるような言葉を吐き出せず、右足を強く踏みつけた。
酷い言葉なんて、思い付いてもいなかったけれど。


「…………マルフォイなんて、嫌い、大っ嫌いだわっ……」


出来るだけ低く、苛立ちと嫌悪を擂り潰して乗せた声で、マルフォイを押し退ける。ぎゅ、と寄せられた眉間の皺を睨み付けて、私は奥歯を噛み締めた。
グリフィンドールの魔法使いは、そんな私の声なんて聞こえなかったらしい。何にも言わずに私達のそばを通り過ぎていった彼を追い掛けるように、私はマルフォイに背を向ける。
マルフォイは最後まで、私に何も言わなかった。


「あら、ニナ、どこに……、ああ!ニナ、ちょっと、何処に行くの!」


後ろから、びゅんとミネルバの慌てた、少し上擦った声が私を追いかけてくる。けれど、私は立ち止まることなく、真っ直ぐ真っ直ぐ、廊下を進んだ。
ミネルバが中庭の真ん真ん中で私を捕まえてくれるまで、決して必ず、泣いたりなんてしないように、足を動かしたのだった。


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