それに気付いたのは、クリスマス休暇の前日、スリザリンとの変身術の授業を終えて、動く階段が此方を向くのを待っていた時のことだった。


「良かったわよね、レポートが出なくって。私、クリスマスはオランダのおばあ様のところへ行くから、変身術まで課題が出たら散々なクリスマスになってしまうところだったわ」

「僕はもう散々なクリスマスになる予定だなあ。クリスマスはウェールズで過ごすんだけれど、姉さんが帰ってくるんだよ。僕、姉さんって苦手なんだ」


僕より二歩、右斜め前で階段を待つスリザリンの魔女とレイブンクローの魔法使いが、爪先でお互いの踵を突つき合いながら話している。僕は何とはなしに耳にかけていたくすんだ赤毛のその髪を下ろして、手に持っていた『魔法植物図鑑 イングランドの便り』を開き、それ以外何も視界に入っていないふりをした。
しかしそれは、やはりふりでしかなく、かつんとひとり分の足音が響いて、僕から真横に箒半分離れた場所に、それ以上磨くことは出来ないだろうと思うほどによく磨かれた、黒い革の爪先が立ち止まるのが見えた。ふ、と、薄い茶色のインクで描かれたアビシニア無花果の枝先から、爪先を上って緑のローブの裏地、白すぎる手、それからプラチナブロンドの髪が流れる横顔を盗み見る。アブラクサス・マルフォイだ。


「あら、マルフォイ。あなたいたの。最近やけに静かだから気付かなかったわ。何だか顔色がいかにもゴーストらしいけれど、何かあったの?」


妙な気まずさを感じていれば、後ろに立った彼に気付いたらしいスリザリンの魔女が振り返り彼に声をかける。失礼な言い方ではないか、と僕は踵でそっと半歩後ろに下がりながら、やはり『魔法植物図鑑 イングランドの便り』を読むふりをする。身内の、兄さんの厄介事にすら巻き込まれることを嫌う僕なのだ、他人のそれに巻き込まれるのはもっとずっと嫌だった。何せ気分の良いものではないし、その上面倒なのだから。


「別に……寝付きが悪いだけだ。クリスマスを思うと気分が悪くて」

「ああ、マルフォイならそうでしょうね。お父様とお母様に連れられて行くパーティーは退屈でしょうし。大変よね、あなた達みたいなお家柄物だと」

「……君がプルウェットの従妹でなければ、君は今頃どうしてるんだろうな」

「……私はただ、忙しそうで可哀想だって言いたかっただけよ」

「残念だ、そうは聞こえなかった。僕みたいな暮らしを馬鹿にしてるのかと」

「…………マルフォイ、あなた、感じが悪いわ。とっても。酷くね」


ほら、やはり、気分は良くないし、面倒だ。
同じレイブンクローの魔法使いが、ローブの裾を揺らすことなく、隣の彼女、後ろの彼、それからその隣にいる僕を振り返る。眉間のあたりに彼の濃いブラウンの視線が刺さった気がしたけれど、僕はやはり『魔法植物図鑑 イングランドの便り』を読むふりをした。
そんな僕達を、階段は面白がっているのだろうか。いつもよりも勿体ぶるようにゆっくりと此方を向いたそれに、スリザリンの魔女だけが素早く跳び移り、くるりと此方を振り返る。勿論彼女は僕を見たわけではないが、それでもやはり、僕は居心地の悪さを感じていた。


「早く来なさいよ、ルー。行きましょう。気分が悪いわ」

「あ、ああ、うん」


ルーと呼ばれた彼が、濃いブラウンの視線で僕を引っ張ろうとしてくる。しかし、これから彼女は魔女特有のお喋りな口で、決して妖精の噂ではない嫌な何かを彼に聞かせるのは目に見えて分かっていたので、僕はアビシニア無花果に夢中で階段に気が付かなかったふりをした。苛立たしげに階段の手摺をぱちぱちと手のひらで叩く彼女に手を引かれた彼は恐らく今夜、談話室で僕を捕まえることだろう。言い訳は勿論、アビシニア無花果だ。


「……嫌になるな」


そして、彼は言い訳も何もなく、ただ純粋に、彼女と並んで階段を下りるのが嫌で、僕と同じくその階段に跳び移らなかった。
ゆっくりと彼方を向いた階段を下っていくふたりの姿を確かめて、僕はそこで漸く、頁を捲る。アビシニア無花果の枝先が続くその頁には枝先から落っこちた無花果の実を使った魔法薬の名前がずらりと並んでいて、そこに僕の知っているものはひとつもない。来年あたりに、習うだろうか。
もう読むふりは必要ないだろう、と、大人しく本を閉じる。先程のものとは違う、一階から伸びる階段がこちらを向いたので、僕はその先をぼんやりと眺めながらその階段に跳び移った。そうして、マルフォイもまた、僕に続いてその階段に跳び移る。


「あ、サミュエル、サミュエルっ」


息を止めたのは、勢いよく跳び移ったせいなんかではない。僕は階段を軽く跳び移ったのだし、そんなことで息が苦しくなるほど柔でもなく、そしてそもそも、息を止めたのは、僕ですらなかった。


「ニナ」


階段の下で、ニナが僕を待っている。大広間へ向かうところだったのだろうか、ニナは大きなハシバミ色の鞄を肩に引っかけ手を振っていて、僕は思わず駆け足になる。
ニナのダークブラウンの瞳は、いつもどこか他所を見ることを、僕は知っていた。


「サミュエル、ねえ、さっきね、さっき、サイクス先生がこれをくれたのよ。沢山貰ったから、ほら、はい、どうぞ」


しかし彼女のその瞳は、動く階段の手摺を見ても、アブラクサス・マルフォイを見ることはなかった。
ローブのポケットから、ニナが杖を巻き添えにトフィーを掴み上げるように出してくる。器用にもひとつも指の隙間からそれを落とすことなく、階段を下りきるなり慌てて手を差し出した僕の手のひらに六つも銀の包みを乗せた彼女は、ついでに乗せられてしまった杖ごと僕の手を握り込んで笑っていた。
かつん、と、黒い革の爪先が鳴る。よく磨かれたそれは、靴の裏側まで磨かれているのだろう。だからその足音は高く響いて、僕は横目に彼を見た。
アブラクサス・マルフォイがニナを盗み見るその横顔が、僕にははっきり見えていた。


「……サミュエル?サミュエルはトフィー、好きじゃあない?」

「えっ、あ、す、好きだよ。ただ、沢山あるなって、思って」

「うん、うん、あのね、サイクス先生が、明日でお別れだからって、この間ホグズミードでうんと沢山お菓子を買ったって。会った生徒全員に配るんだって言ってたわ」

「そうなんだ。まるで歩くハニーデュークスだね」


手のひらの上のトフィーの山から、杖だけをつまみ上げてニナは目を細め頷いてみせる。そんな彼女を見ていたのは僕と、それからアブラクサス・マルフォイだけで、彼はもう、真っ直ぐニナを見つめていた。


「まだね、まだ沢山あるの。だからね、後でニコラス先輩にもあげようと思って。一年生にはね、もう全員に配っちゃったんだって。だって、午前中はずっと飛行訓練だったから」

「そっか、喜ぶと思うよ、彼、僕の家でもずっと甘いもの食べてるくらいだから」


それも、自分でも得体の知れない何かを喉の奥に引っかけたような酷い顔で、見ていた。
杖をローブのポケットにしまって、ニナは長いダークブラウンの髪を耳にかける。慌てたように顔を逸らして、早足で僕達を追い越していった彼に、ニナはきっと興味なんてなくて、僕だけがただひとり、首を傾けていたのだった。






「ああ、最高、これだから妖精なんだ、これでこそ妖精なんだ」


妖精なんて何処にも見えやしないのに、手のひらに山ほど乗せたトフィーを握り締めてニコラス先輩が言いながら私をきつく抱き締めたのは、クリスマス休暇前、最後の談話室での夜のことだった。
ふかふかと柔らかな、今日は砂糖と生ぬるいミルクをぐるりと三回かき混ぜたような匂いのするニコラス先輩のセーターの鳩尾に鼻先が埋まる。後ろの方でヒューがチェックメイトと言ったので、彼とチェスをしていたイアンは負けてしまったのだろう。ガチャン!と駒の割れる音がして、誰かが物騒だわと声を潜めて話していた。
旋毛の天辺に何かが触れた気がしたので、セーターの鳩尾に鼻先を埋めたまま、視線だけでニコラス先輩を見上げる。私が声をかけるまで、高い位置にある窓の真下でカナリアイエローのリボンが描かれたカードに何かを書いていた彼は、羽根ペンをどこに放り投げてしまったのだろう。トフィーを見るなり勢いよく放り投げられた羽根ペンの行方が心配で、私はそれを訊ねるように何故だかやけに近いニコラス先輩の鼻先を見つめる。今夜のうちに出さなければ、カードはクリスマスに届かない。


「これ、あいつには?」


しかし、ニコラス先輩にそれは伝わらず、もしかすると彼自身、そんなことちっとも気にしてはおないのかもしれない。ニコラス先輩は私の背中に回していた腕をひとつだけほどいて、トフィーを握り締めた手を私の額の上でぶらぶらと揺らした。
あいつ、とは、誰のことだろうか。考えながら、彼の大きな手から落ちる影が癖のある髪を持つ魔法使いの後ろ姿を作り出して、私は何にも言わずに額をセーターの鳩尾にくっつける。
その魔法使いは、くすんだ赤毛を持っていた。


「イアン、何か今日は弱いな。ヒュー、次は俺!代わってくれ!」

「……うるさいな」

「ジャックには無理だろ……」


がたがたと、談話室の壁沿いに置かれたテーブルを囲う椅子の脚を引き摺る音に魔法使いの影は押し潰されて消えた。
背中にあったもうひとつの腕をほどいて、ニコラス先輩はトフィーをばらばらと丸テーブルに置く。カード一枚とインク瓶でいっぱいだったそこからトフィーの銀がひとつこぼれ落ちそうになったけれど、彼はそれを簡単に受け止めてしまって、それから軽く腕を振り上げた。


「おい、役立たず!」


振り上げて、投げた。
びゅん、と、真っ直ぐ真っ直ぐ飛んでいったそれが、暖炉の前、ソファを背凭れに三人並んで胡座をかいていたうちのひとりの魔法使いの頭にこつんとぶつかって、彼、アンドリュー先輩は、くすんだ赤毛の頭を驚いたように撫でながら振り返る。あ、と思った瞬間には彼のグレーの瞳がニコラス先輩を見て、床に落ちたトフィーの銀を見て、それから最後に私を見ていた。
睫毛は、こんなに重く震えるものだっただろうか。瞬きをすれば瞼の裏で何かが引っ掛かる気がして、私は黙ってグレーの瞳を見つめ返す。クィディッチの練習をしていないせいか、サミュエルよりも陽に焼けていたはずの彼の頬は、青白く透けていた。


「ほら、グレイも」


ぱちん。引っ掛かっていた何かが弾けて、私は振り返る。
ニコラス先輩の手から、今度はぽんと軽くトフィーが飛んで、部屋に戻るところだったのだろう、図書室から借りてきたばかりの『古代ルーン文字を解き明かす』を左腕に抱えていた彼、ウィリアムが慌てて出した手におさまる。夢を見ていたようなウィリアムの瞳は丸く見開かれ、眉を寄せてニコラス先輩を見るけれど、ニコラス先輩は自分で彼の脚を止めたにもかかわらず、早く行けと声もなく手を振った。
きっと、アンドリュー先輩につられるように此方を振り返ったあの友人達に、ニコラス先輩も気付いていたのだ。


「やる、ひとつだけな。ほら、行けよ。メリークリスマス」

「…………………………」


今日は穏やかな柔らかなブラウンの瞳が、ニコラス先輩ではなく、アンドリュー先輩のグレーの瞳を見る。風もないのに揺れる前髪の下で、くすんだ赤毛の下で、ふたりの魔法使いはトフィーを手に何を考えるのだろう。それはきっと、二人を真っ直ぐ眺めるニコラス先輩の瞳には目の前で形を成していくようにはっきりと見えていて、そうして私は永遠に、水の底に沈んだように見えないものだった。
だって私は、どうしたって魔法使いにはなれない。


「…………メリークリスマス」


視線を動かして、ウィリアムのお喋りではない唇から、掠れた声が零れ落ちる。ニコラス先輩の形の良い耳はそれをちゃんと拾ってくれて、だけれどまた声もなく手を振った。
そういうものなのだろう。魔法使いは、ニコラス先輩とウィリアムには、それで充分なのだろう。何せ、彼は、ウィリアムの髪がゆっくりと、溶けるように色付いたのだから。


「だあ!何で!俺のナイト!」

「……イアン、手加減……」

「しないよ、僕、今気が立っているからね」

「………………」

「何、ヒュー。子供っぽいって?子供だもの、良いじゃないか」


だけれど、アンドリュー先輩とウィリアムには、私とアンドリュー先輩には、それだけでは充分ではない。
銀のトフィーひとつきりで、私を睨む友人ふたりを飛び越えて、彼に駆け寄ることは出来なかった。


「あ、えと、ニナ、」


アンドリュー先輩が、床に手をつき立ち上がろうとするのを、二人の友人が引き留める。私はその隙間にそうっと瞬きをして、ジャックのナイトが叩き割られる音を聞きながらニコラス先輩から離れた。


「ニコラス先輩、それじゃあ、おやすみなさい」

「……ん、ニナ」


すい、と、ニコラス先輩は自分の頬を指で叩いたので、家族以外でもするものなのだろうかと不思議に思いながら、私はその頬に唇を寄せる。ガチャン!と叩き割られたのはやはりジャックの駒で、彼は壁に頭を打ち付け髪を引っ掻き回していた。


「おやすみ」


ニコラス先輩の高い鼻が、頬にささる。父さんや母さんのような音を立てるそれとは違う、触れるだけのそれをくすぐったく思いながら、私は小さく頷き踵を返した。
寒くもないのに、爪先が痛い。もしかすると靴が小さくなってしまったのかもしれないと思いながら、明日の夜、母さんと父さんに新しい靴が欲しいと言おうと奥歯を噛んだ。トムと並んでも彼が頭の天辺を気にしない、踵の低い靴を。


「ラヴィー、チェスしていかない?」

「ううん、もう、寝るわ、もう寝なきゃ。ありがとう、イアン、おやすみなさい」

「……そう、いや、いいんだ、おやすみラヴィー」

「うん、おやすみなさい、イアン。ヒューとジャックも、また明日」

「おう、おやすみ!」

「明日寝坊するなよ」


そんなことを、私はまた瞼の裏で何かが引っ掛かるのを感じながら、それに気付かないふりをするため考える。
クリスマス前の私の頭は、なくしたピアスや銀のトフィーに、それから爪先の痛い靴のせいで、いっぱいだった。



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