大きな木製の椅子に腰を下ろさず、ヘルベルト・ビーリー先生と一緒になって部屋の中を歩き回るスラグホーン先生を見て僕が真っ先に考えたことは、何故僕のローブや靴が濡れているのかということよりも、一体彼女、ニナ・ラヴィーは僕をどう思い、そしてそれをトムに言いやしないかという何とも情けないことだった。


「さてはて、困った。どうしたもんか。ホラス、罰則は如何様に?うちの小さな魔女は困ったことに、身に覚えが無いらしい。ただ、クアッフルを打ったことは確かだがね。覚えがなくとも、言い逃れはまあ出来まい」

「ううむ、窓は確かに割れていたし、あの日競技場を使っていたのはハッフルパフだとは知っていたが……。石か何かとは思っていたんだが、しかし、石避けの魔法はかけていたから不思議で……」


ビーリー先生の足がぴたりと止まり、彼の丸い、ずんぐりとした手が、僕からきっちり長椅子ひとつ分は空けて立っていたラヴィーの肩を撫でる。ラヴィーは、ルクレティアが言っていたように、本当に自分が窓を割ったことを知らなかったらしい。その証拠に彼女の顔は不思議そうな、しかし割ったかもしれないという罪悪感や不安の覗く、何とも言えない奇妙な表情を浮かべていた。
しかし、それを見て唸るのは、ビーリー先生でも、スラグホーン先生でもなく、僕の頭の奥である。


「まあ兎にも角にも、罰則を与えてしかるべきだとは思うがね。ただ、ホラス、私が聞くに、君のところの小さな魔法使いにも問題があるように思えるが、如何かな」

「うちの?マルフォイに?」

「そうさ、そうとも。君の話だと、うちの小さな魔女はそちらの小さな魔法使いに酷く言い募られていたようだが、それは脅しではないかね」


二人の、年老いたとまではいかない、しかし青年期はとうに通り過ぎた魔法使いが、丸い瞳でお互いを見ている。僕はスラグホーン先生の引き摺るように長いローブを見下ろしながら、今すぐに此処から飛び出したくて仕方がなかった。
ニナ・ラヴィーは、僕を、馬鹿な魔法使いだと思ったことだろう。空の器ほど、落とすと煩く音を立てるように、頭が空っぽな奴は口煩く何かを喋る。そしてそれは、あの時に限っては、間違いなく僕だった。


「ほっほう、つまりなるほど、罰するならば諸共、と?」

「そうですな、全くその通り」

「……まあ言われても見れば、紳士にあるまじき行いをしていたとも思える……」


ラヴィーの手が、居心地の悪さを表すようにスカートの裾を撫でている。そんな彼女の背中をビーリー先生の丸い手が叩けば、彼女は何を考えているのか、部屋の隅を見上げて、それからビーリー先生を振り返った。


「さて、それではどうかね。次の満月の夜、満月草を摘みに行って貰うのは」

「おお、なるほど。なるほど。それは良い、実に良い!ちょうど棚にある分を使い切るところだった。ヘルベルト、そうしよう!しかし、森にやるのは危険じゃあないか?」

「いやいや、森とは言えど、奥まで行くわけでもあるまいて。森番に見張らせておけば良いでしょうよ。それに、少し脅かすくらいでないと、罰にはなるまい」


ラヴィーが、ぎょっとした顔をして、ビーリー先生とスラグホーン先生を交互に見上げる。しかし、彼女はやはり何を考えているのか。彼女の視線が行き交うのは二人の丸い腹のあたりで、顔を見てはいなかった。本当に、何を、考えているのか。
ローブの内側で、親指を握り込む。このことが知れたら、僕は一体どうなるのだろう。ルクレティアならまだいい。彼女は恐らく僕を一生笑うだろうが、それでも彼女は、ブラック家の者以外を人前で貶すことは滅多としない。ただ、ヴァルブルガは別である。他人の不幸は蜜どころか、そこに砂糖を足して煮詰めたように甘く感じるのが彼女である。僕は、このことを誰かに知られるわけにはいかなかった。
ましてや、トムに、ニナ・ラヴィーを慕っている彼に、まさかラヴィーをそれとなくトムから引き離すつもりで身の程を知らせるつもりが、訳も分からず腹が立ってそれがスラグホーン先生に見付かっただのと、知られるわけには、いかないのだ。


「ふむ、ふふふ、それではホラス、満月に」

「ああ、満月に。晴れると良いが」

「大丈夫だろう。週刊魔女によれば、次の満月は晴れるらしい」

「そうか、それなら問題はないな。では、ミス・ラヴィー、ミスター・マルフォイ、お行きなさい。罰則について詳しくは、また追って報せよう」

「…………はい」


こっくりと、ラヴィーが頷き、ビーリー先生はその背中を押してさっさと部屋を出ていってしまう。背中まで丸いその後ろ姿は、どこか少しばかり楽しんでいるようにも見えた。そして、その背中に隠れるラヴィーは、酷く、落ち込んでいた。


「……失礼します、スラグホーン先生」

「ああ、ああ。ミスター・マルフォイ、紳士に」


踊らない爪先を眺めてから、僕はスラグホーン先生に軽く頭を下げる。彼なりに僕を励ましたのだろうか。目尻に皺を寄せ、不器用に片目を閉じた彼に僕は何も言えず、もう一度だけ頭を下げて、閉じきられていなかった扉を引いて部屋を出た。


「…………何を、してるんだ、僕は」


そうして漸く、僕はそこで頭を抱え、唸った。
何だって彼女を見ると、こうも僕は気が短くなるのだろうか。マーマレードのようなラインの入ったダークグレーのセーターを思い出しながら、僕は髪をかき上げる。彼と、トム・マールヴォロ・リドルが渡したのだと言うそのセーターは、何故だか酷く、気に食わなかった。
いつだって彼女は、彼女を取り巻く全てが、気に食わなかった。


「………………雨が降るまじないでも、調べるか」


廊下の向こうに、二人分。ビーリー先生の重い踵と、ラヴィーの踊らない爪先の足音が響いている。僕はそれが聞こえないふりをして、図書室ではなく、梟小屋へと向かった。
誰にもこの事を話すな、と、僕はその日、生まれて初めて、自分から手紙を出したのだった。たった一行の走り書きの手紙を。






「良かったな、減点されなくて。今の状況で減点までくらったら、上級生に何言われるか」


私がどれだけ丁寧に書いても、それよりも綺麗に書くことは出来ないだろう。縦にほんの少し背の高い文字が、真っ白い便箋に一行走っただけの手紙を私はその日のうちに暖炉の火にくべてしまって、そうしてそれは、私の口からマルフォイの名を出す資格を一切取り払ってしまった。
今更になって、思う。正しくこれが、ペガサスの鼻先を流れた春生まれの魔女の不幸だったのだと。


「それはそうだけど……。ニナは罰で森へ入らなくちゃならないんだよ、ヒュー、分かってる?」

「俺が代わりに行ってやるよ、ニナ」

「君、森へ入ってみたいだけだね…………」


大広間のテーブルに突っ伏せば、隣に座っていたサミュエルが私の背中を撫でてくる。昨日、寮まで送り届けてくれたビーリー先生の丸い手は温かくて、湿った土と若いイラクサの匂いがしたけれど、彼ほど優しくはなかった。
顔を上げて、けれど体は起こさないまま、向かいに座るヒューを見る。彼の素直な髪は珍しく跳ねていて、深くかぶったフードから顔を覗かせていた。その下にあるふたつの藍色はつまらなさそうな顔をして、しかしそれでもそこには、ダークグレーの星が煌めいていた。
ヒューは、きっと、楽しんでいるのだ。私が昨日、ミネルバとリリスが話し込んでいる間にスラグホーン先生とスリザリンの生徒に出会ってしまって、告げ口をされてしまったことを。少なくとも、彼、ヒューやサミュエル、それから何故だか私から箒一本分離れて座るミネルバの中ではそうなっている。


「ヒュー、ねえヒューは、知ってたの?私が、その、窓を割ったって、知ってたの……?」

「知ってた」

「えっ!」

「ハッフルパフは殆ど知ってる」

「ええっ!?」


知っていて、誰も彼も、黙ってくれていたのだろうか。私だけが、知らなかったのだろうか。
考えて、私が打ったクアッフルをこっそりと取りに行ってくれた誰かがいたことに気付く。それが誰だったのか、私には分からない。けれど、そうしてずっと黙っていてくれていた誰かに、ハッフルパフの生徒に申し訳なくて仕方がない。結局私は、減点はされなくとも、罰則を与えられてしまったのだから。


「マクゴナガルとあいつがちゃんとしてたらな」


箒一本分先で、ミネルバの肩が揺れ、それから隣の隣のテーブルで、リリスの肩が揺れる。


「ミネルバもリリスも、悪くないわ。……そもそも、私が、窓を割ったりなんて、する…………も、森って、怖くない?危なくない?わ、私、平気かしらっ……」

「面白いに決まってるだろ、森だぞ?」

「ああ、もう、ヒュー、やめて。ニナ、大丈夫だよ。何なら僕が魔法をかけてあげようか」


視界の端で、ミネルバは教科書に頭を垂らして丸くなっている。それを横目にサミュエルを見上げると、彼はグレーの柔らかな瞳で私を見つめて、それから私の手をとった。


「魔法……?」

「まあ、まじないだけれど。気休めに」


サミュエルのなめらかな指先が、私の手のひらを天井に向ける。その真ん中にサミュエルはそうっと息を吹き込んで、一瞬、そこに唇の先が触れたかと思えば、彼はそれを包むように私の手を閉じさせた。


「な、にしてんだよ、サミュエル」

「何って、まじないだけれど……。ニナの右手に、僕の幸運を少し分けただけ」

「幸運?サミュエルの幸運を、分けてくれたの?」

「うん、そう。母さんが父さんにしていたのを、見てたんだ」


そう言って、サミュエルは握りこんだ私の右手を撫でる。この中に、彼の幸運はいるのだろうか。おまじないだから、効果は分からない。けれど確かにそこにはサミュエルの込めてくれた真っ白い羽毛のように素敵な何かがあって、私は自分の爪を見下ろした。


「……俺も、」

「わ、私もする!ニナ、手を貸してちょうだい!」


そうしていれば、ばたん!と大きな音を立てて、ミネルバが立ち上がる。長テーブルの下には先ほどまで彼女の頭が垂れていた教科書が落っこちていて、どうやら音の正体はそれらしかった。
ミネルバの手が、私の左手を掴む。そうして彼女は私の手のひらに唇を素早くくっ付けて、ほんのひと粒も取り零さないように、と素早く私の手を閉じさせた。それから彼女は、ほ、と息をつくように肩を落として、私の手を撫でる。


「良かったね、ニナ。これで平気だ」

「……う、うん。あの、ありがとう、ふたりとも」

「良いの、良いのよ……せめてこれくらい……!満月の晩まで、毎日してあげるわね!」

「あ、あの、私も!私もするから、許してちょうだいね、ニナっ……!」


隣の隣のテーブルから、リリスが叫ぶように言ってくる。気になんて、ちっともしていないのだけれど。それに大きく二度頷けば、リリスはミネルバと同じように肩を落として、小さく笑ってくれた。
次の満月まで、こうして幸運を分けてもらえるのか。ミネルバの手の下で、左手を開いて、閉じる。ミネルバは私の手が、どんな風に見えているのだろう。何度も何度も、繰り返し手を撫でる彼女の真っ直ぐ高い鼻先は真剣に私の手を見つめていて、私は何だか少し、笑えてしまった。


「私もしてあげるからね、ニナ!ねえ、アン、あなたも勿論するんでしょ?」

「私は特別に、身代わりの押し花を用意することにするわ」

「どうして?それに身代わりだなんて、何だか気味が悪いわよ」

「身代わりはあるに越したことはないわ。それに私、さっき酷いレポートが返ってきたばかりだから……だから、分けてあげられる幸運なんて無いのよ……」


舌の上で、蕾のように若くて苦い笑いを転がしていれば、ふ、と、ウィリアムがゆっくりと此方へ歩いてくるのが見えた。今日はどんな気分なのだろう。床を見すぎて髪も瞳も床と同じ、湿り気を持った石の色をしたウィリアムが顔を上げて、ふわふわ揺れる毛先から、チョコレートを浸したように染まっていった。
ウィリアムが、小さく笑う。ヒュー曰く、小さすぎるその笑みが私はとても好きで、私はすっかりミネルバとサミュエルの幸運の溶けた手を振った。けれど、彼は私たちの側に座ることはなく、ずっと離れた席へと腰を下ろす。
ウィリアムはいつも、彼の長過ぎる手足には短いローブの下で、手を振り返してくれていた。


「……相変わらずだな」


ぽつりとヒューは呟いて、頬杖をつく。やはり今日も私の瞳だけが見ていたらしい彼の右手のことを、みんなはいつになれば気付くのだろう。はやく気付けばいいのにと思いながら、私は天井を見上げた。
今日は穏やかな、しかし寒い曇り空だった。


「……トムにも、秘密にしなくちゃ」


ぽつりと、頬の内側に隠すように、そうっと呟く。マルフォイとのことも、罰則のことも、私はトムには何も言わずにいようと決めた。だって私は、お姉さんなのだから。お姉さんは、弟の手本になるべき存在なのだから。
母さんや父さんが知れば、きっと顔を真っ青にすることだろう。杖を片手に今にも怒り出してしまいそうな母さんを宥める父さんの背中を思い浮かべて、私はただ、いつかトムにもこのまじないを教えてあげようと、それだけを考えた。


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -