「ニナ!気を付けろ!ローブがふっ飛ぶぞ!」

「ヒュー、ローブ、ローブが、フードが、」

「だあっ!くそっ、濡れた!意味ねえ!」


びゅんびゅんと空気を裂くような音は、レイブンクローの七年生のチェイサーの箒が勢いよく飛んでいく音でも、ハッフルパフのビーターふたりが振り回すクラブの音でも、そして大鍋をひっくり返してもひっくり返してもとても敵わないこの大雨の中を飛び回るスニッチの羽ばたきでもない。風の音なのだ。
イアンがローブにかけてくれた防水の魔法はしっかりと私のシャツやセーターを守ってはくれているけれど、それが風で捲れ上がってしまえば意味はない。どうにかフードが飛ばされないようにと俯いて座っていても、指と爪の隙間に酷く意地の悪い風と雨は入り込んでしまって、フードを拐ってしまおうとする。


「ニナ、大丈夫か!?」

「う、うん、平気、平気じゃ、ないけど、平気っ……!」

「酷い雨だな!風も!嵐だな!」


ヒューの口が、狼のように大きく開く。そうしなければ、彼の普段は針のような通る声も風と雨に叩きつけられ、耳に届くまでに砕けてしまうのだ。
すっかり諦めたらしいジェインやジャックは手摺に掴まり、カナリアイエローの三角の旗を振り回している。上級生に混ざり何かを叫んでいる二人はとっくにローブは脱いでしまっていて、時おりジャックはローブをひっくり返し、カナリアイエローの裏地を見せ付けるようにローブまでもを振り回していた。イアンはそんなジャックを呆れたように眺めていたけれど。
そんなみっつの背中を、私とヒューは観覧席の一番後ろ、晴れていれば競技場もハッフルパフ生の頭もよく見えるその席から見下ろしていた。濡れたそこに座って、フードを掴み直す。談話室に出る前にニコラス先輩に渡されたカナリアイエローの三角はとっくに吹き飛ばされて、私達の手に振り回すべきものは何も無かった。


「今どうなってる?」

「ええと、…………二百三十点差!」

「どっちが!」

「負けてるの、負けてるわっ!」


ぴったりとくっついて座っても、声が雨と風に叩きつけられてしまう。だから思わず、ほら!と大きく得点盤を指差せば、当たり前のように私のフードは風に拐われてしまって、途端に顔はびっしょりと濡れてしまった。


「何してんだよ!」

「だっ、だって……!」


頬が痛い。耳が痛い。目を開けていられない。本当に、酷い雨だ。
手探りでフードを探している間にヒューは私の前に立ち、風がふうっと息継ぎをした隙間にすっぽりとフードを被せてくれた。額に張り付いた前髪は、きっと寝起きのそれよりも酷いことになっているのだろう。ありがとうと呟きながらも私はそれが気になって、指先で濡れた前髪を右に流した。


「ねえヒュー、私、何だか私、疲れた……」

「おっ、こうしてる方が聞こえるな」

「え?あっ、本当、本当だわ。ああ、もう声を張り上げなくても良いのね」

「まあ、俺は立ってなくちゃ駄目だけど……」


それにしても、サミュエルの言う通りだったな。
ヒューはそう言って、フードを掴まえたまま私に覆い被さるように背中を丸める。そうすると冷たい風も雨も入り込んでくることはなくて、ヒューの甘い、チョコレートの匂いだけが私の濡れた鼻先を撫で上げた。


「サミュエル、今頃心配してるかしら?」

「ニナのことはな。風邪なんかひくなよ、俺が殴られる」


言われて、私は競技場に来るまでのことを思い出す。彼は、サミュエルは天気が悪過ぎるからと私達を引き留めたのだけれど、ヒューはそんな彼にお前は直ぐに風邪をひきそうだからな、とからかったのだ。その時ヒューの腕をつねった細い指先を、私は確かに見ていた。
殴るなんてこと、しないだろう。けれどもしかすると、手のひらで軽く、はたき落とすように叩くことはあるかもしれない。ヒューが何か、きっとサミュエルにとっては余計なことを言った時にそうすることを思い出して、私は曖昧に首をひねった。


「でも、」


サミュエルは優しいから、と、続けようとして、止めた。
ヒューの藍色の瞳が、振り返って競技場を見る。ふたり揃って、目を細めて見つけたものは肩をぶつけながらも並んで飛んでいくふたりの魔法使いで、そしてそれは、青とカナリアイエローのシーカーだった。
アンドリュー先輩のような、稲妻のような飛び方を、彼等はしなかった。


「えっ、え、点差、」

「げっ、もう三百点もいれられてんじゃん……!」

「ええと、それじゃあ、」

「スニッチ取っても、負け」

「ええっ!?」


カーン!と勢いよく鳴ったのは、ハッフルパフのゴールに例のレイブンクローのチェイサーが投げ込んだクアッフルが通り抜けた合図だった。何てことだろう、三百十点差だ!
ゴールの前で、カナリアイエローのキーパーが風にあおられている。彼のクリーンスイープ一号は、横からの風に弱いのだ。ジャック曰く素人らしい彼は時おりゴールに箒の柄をぶつけながら、そうしてそこに浮いていることが精一杯だった。


「あいつ、駄目だな。ジャックの方が良かったかも」

「でも、まだだわ、まだ終わってないものっ……」


頭の真上を、ブラッジャーが笑うように飛んでいく。乱暴なそれはカナリアイエローの背中を叩いて、私が手のひらで視界を遮るよりも先に、背中を叩かれた彼、七年生のキーパーは、箒の柄からずり落ちて、その場でぶらりと箒にぶら下がっていた。


「これは無理だな……」


わ、と、手摺に掴まっていたハッフルパフ生達が声を上げたおかげで、ヒューのため息は私にしか聞こえなかった。
稲妻ではない、真っ直ぐ風も雨も裂いて飛んでいくふたつの箒が、競技場の真ん真ん中でぐるりと旋回する。伸ばされた腕は、長過ぎる手足は、こういう時随分と役に立つらしい。歓声なのか、野次なのか。それでも伸びたその指先は、しっかりと金色の羽ばたきを捕まえていた。
ウィリアム・グレイは、キーパーが落っこちてしまうよりも早く、自らその試合を終わらせたのだ。


「……負けたな」

「…………うん」


どちらからともなく頷いて、それから目を見合わせる。百六十点差になった得点盤に、ヒューはつまらなさそうに首を傾けるのだった。
雨と風のせいで、何も分からないままに終わってしまったその試合が、まさかとんでもない嵐を連れてくるとは、その時の私は知らなかったのである。






「何でそんなに濡れてるの……!?」


トムの真っ黒い瞳が赤く光ったのは、きっと気のせいだろう。
ヒューとふたり、寮に戻る途中、廊下の先に図書室へ向かうのだろうトムの姿を見付けた時には、私はすっかり自分の顔や前髪が濡れてしまっていたことを忘れていたのだ。忘れたまま、ヒューに寄り道をすると伝え、トムに声をかけてしまったのだ。
見開かれた真っ黒い目に、私は今更ローブのポケットからハンカチを取り出した。しかし、私の手はトムの手よりものんびり屋らしい。私のハンカチが前髪を拭くよりも早くトムのレースのついていない、真っ白いハンカチが私の頬や鼻を撫でて、それから額を撫でた。
トムの、匂いがする。


「まさかクィディッチを?観に行ったの?この天気の中?」

「スリザリンとグリフィンドールの試合も、雨は降ってたわ」

「降っていたけれど、こんなに降ってはいなかったよ……!」

「スリザリンは確か、勝ったのよね。二十点差でしょう?」

「そうらしいけど、それより、……あまり、思ったより、濡れてないね」


トムの左手が、私の髪をひと房掴んで、そして彼は不思議そうに首を傾けた。
そうらしい、と言うことは、トムは試合を観に行かなかったのだろうか。思いながら、試合が終わるなり真っ先に私のもとへと早足でやって来たミネルバの燃える頬を睫毛の先に思い出し描く。二十点差で負けたらしいグリフィンドールの彼女は、それでも廊下を走って減点されるようなことは決してしなかった。ただ、叫ぶようにスリザリンの揃いの箒や、わざと危なっかしく飛び回るビーターへの文句は言っていたけれど。あれこそ見付かれば、廊下を走るよりも大きく減点されていただろう。


「そう、そうなの。イアンがね、ローブに防水の魔法をかけてくれたから」

「じゃあどうして顔は濡れていたの」

「……フードが、飛ばされちゃって……」

「……ああ、なるほど」


奥歯を噛み締めるように、トムは頷いてみせる。廊下の窓を叩く雨に、想像することは楽だったことだろう。風は先程よりも弱まっていたけれど、それでも吹いていた。


「それで、試合はどうだった?」

「ええ、あのね、負けたわ、百六十点差で負けたわっ」

「えっ」

「スニッチはね、とったのよ!多分ね、あそこで彼がスニッチを、スニッチを捕まえられなかったら、四百六十点差で負けてたと思うのっ」

「…………楽しかった?」

「んん、雨と風で、何も分からないうちに終わったから……。でも、晴れていたらきっと、楽しかったと思うわ」


だって、そうしたらきっと、カナリアイエローの三角の旗を振り回せていたはずなのだから。
両腕を広げて見せれば、トムは困ったような顔をして笑う。トムはあまり、クィディッチに興味がないのだろうか。トムが私よりもうんと上手に箒に乗れることを私は知っていたので、私はついスカートの裾を握り締めた。私は箒から落っこちたことはないけれど、けれど父さんや母さんに誉められたことは一度だってないのだ。とても上手に乗れるのに、どうして興味がないのだろう。


「そういえば、僕、これから図書室だけど、ニナは?どうするの?」

「…………図書室で何をするの?」

「レポート」

「…………あの、あの、また、明日ね、トム。それか、今夜、日記帳で、お話ししましょうね……」


トムの真っ直ぐ真横に走る規則的なインクを思い浮かべて、私は慌てて背中を向ける。彼の真面目な横顔を眺めるのは楽しいだろうけれど、彼はそんな私に自分もレポートをすればどうかと言うに決まっているのだ。休みの日に、それもこんな日に教科書を開くことは、頬を燃やしたミネルバもしない。


「ふふ、じゃあまたね、ニナ」

「う、ん、うん、またねっ」


ハンカチを振って、来た道を戻る。ハッフルパフ生が大勢通ったのだろう。地下へと伸びる薄暗い階段はそこらかしこに水溜まりが出来ていて、一段下りる度に靴の踵が楽しそうな声を上げた。
階段を下りきって、水溜まりを辿る。そうしているうちに寮の入り口までたどり着いてしまって、私は爪先でリズムを叩いた。


「ヒュー、もう着替えたかな……」


私もはやく着替えよう。そうだ、こんな雨の日は、明るいサフランイエローのしゃりっとしたスカートが素敵だろう。
現れた小さな扉をひいて、巣穴の通路を進んでいく。トムのハンカチでは、私の前髪は乾ききることは出来なかったらしい。しっとりと濡れた短い前髪を右に流して、私は談話室の扉を押し開いた。
その時だ。


「わっ、」


ばふん!と、カナリアイエローのクッションが私の真横に飛んできたのは、何故なのだろうか。


「だから!お前のせいだろ!」


いつもと違う、明るくない談話室の真ん真ん中に、人だかりが出来ている。驚きのあまり、私の肩はおかしくなってしまったらしい。ぎいぎいと、まるで骨が錆びたかのような奇妙な動きでカナリアイエローを拾い上げて、私はその場に立ち尽くす。
人だかりのその中には、いつか湖にいたアンドリュー先輩の友人の魔法使いやクィディッチチームのメンバー達が立っていて、そして彼の真ん前、やはり人だかりのその中に、長過ぎる手足を邪魔そうにして立っているウィリアム・グレイがいたのだ。
カナリアイエローのマントは、ウィリアム・グレイのマントは、芯まで濡れていた。


「ニナ、大丈夫か?当たってないよな?」


爪先が、じんと痛い。
腕を掴まれて、私は息を震わせ振り返る。飛び込んできた瞳は藍色で、彼は私の頬や肩を触って頭の天辺から確かめるように見つめていた。


「お前が試合を終わらせたんだぞ」

「そうよ、何で点差が縮まるまで待てなかったの!?そしたら勝てたかもしれないのに……!」

「せめてあなたも一緒に点を稼いでくれればよかったのよ」

「周りを見ないからこうなったんだぞ!」


視界が暗いのは、ヒューが私の目の前に立ったからだ。競技場でそうしてくれたように、私をそうっと、隠すために。けれど、どうやったって棘だらけの声は耳が拾い上げてしまって、止せばいいのに、私はそれをまじまじと見つめてしまうのだ。
彼等は、彼女達は、何の話をしているのだろう。私の爪先は、どうしてこんなにも痛いのだろう。どうしてウィリアム・グレイは、何も言い返さないのだろう。
だって、彼は何にも、爪先ぽっちだって悪くはないじゃないか。


「お前がシーカーになったせいで、落ちた奴もいるんだぞ!」

「メイフィールドならあんなことしなかったわ!」

「本当ならアンドリューがシーカーで、今年からキャプテンになるはずだったんだからな」


ぱちん。聞き慣れた名前に、意識が跳ねる。は、と視線をずらせば、人だかりの外、談話室の隅、暖炉の前に座る七年生のキーパーの背中を叩くニコラス先輩と、それからその隣には彼、アンドリュー先輩がそこにいて、彼は白い顔で振り返った。
くすんだ赤毛は、濡れていない。彼は試合を、観に来なかったのだろうか。


「アンディ、お前も何か言えよ。言いたいことあるだろ?」

「そうだぜメイフィールド、お前散々落ち込んでたじゃん!」


人だかりの中から、声が飛んでくる。それをどうすれば良いのか分からなかったのか、アンドリュー先輩は顔をしかめただけで、何も言わなかった。
そうだ、何も言わなかったのだ。湖の時のように、止めろとは言わなかったのだ。
じん、と、痛んだのは、本当に爪先なのだろうか。


「お前なんかが、友達のひとりもいないお前なんかが、クィディッチなんて出来るわけねえだろ!」


爪先だと、良かったのに。
ニコラス先輩のダークブラウンの瞳が細められ、そしてそれはアンドリュー先輩に向けられる。けれどやっぱりアンドリュー先輩は白い顔をして黙っていて、止めろとは、言ってくれなかった。


「あ、おい!逃げるな!」


人だかりが真っ二つに割れて、そこからウィリアム・グレイが飛び出してくる。そのまま私の直ぐ真横、談話室の扉を抜けた彼が巣穴の通路を走り抜けていく足音だけが響いて、そうして最後にばたん!と扉の閉まる音だけが通路から響いてきたのだ。
彼の七変化になりきれない髪は、あの素敵な髪が、赤や黒や藍色を行ったり来たりしていた訳は、きっと、そうなのだ。
今の私と、同じなのだ。


「ニナ、」


ヒューが、私の腕を引く。カナリアイエローのクッションを抱き締めて立ち尽くす私の踵は、根っこなんてはえていない。けれど、動くことは出来なかった。
じん、と痛い爪先から、ゆっくりと現れた真っ赤な怒りをどうにかしないと、動けなかった。


「あ、」


ヒューの藍色に、ダークグレーの星がひとつ滑り落ちていく。大きく振り上げたのはカナリアイエローで、私は震える腕でそれを思い切り投げつけた。


「ぶっ、」


アンドリュー先輩に、クッションを、投げ付けてやったのだ。


「あ、アンドリュー、先輩、の、へなちょこ!」


だん!と床を踏みつけて、私は叫ぶ。本当は、全員にクッションでもチェスの駒でも靴でも何でも、投げつけてやりたかった。投げつけてやって、カナリアイエローのマントを引っ掻き回して、裾を踏んづけてやりたかった。それでもそうしなかったのは、出来なかったのは、本当に弱いのは私自身で、そうすることが酷く怖かったからだ。だって、私は一年生ではないけれど、まだ小さな二年生なのだ。
それでも私は、アンドリュー先輩には、アンドリュー先輩だけは、許せなかった。
たった一言でも、湖の時と同じように一言でも、他の誰でもないアンドリュー先輩が言ってくれれば、こんなことにはならなかったのに!


「あ、おい、ニナ、」


揺れるグレーの瞳が、クッションを片手に私を見る。ヒューの声を耳が弾いて、頭の奥では真っ赤な嵐が吹き荒れていた。そうして私は談話室の扉をくぐり、濡れた巣穴の通路を駆け抜ける。
彼の行方は、濡れたマントが足跡となり教えてくれていた。


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