「ああ、酷い、なんて酷い、夢に見たらどうしてくれるって言うんだろう、あのグリフィンドールの魔法使い達め!」


俺はああいう魔法生物が一番苦手なんだ!と、とてもアブラクサス・マルフォイの心配をしているとは思えないアルファードの声が、きん、と廊下に響いた。
消灯時間も間近になった地下の廊下を、灯りも持たずに並んで歩く。角ナメクジの姿を思い出したのだろうか、う、と口元を手のひらで覆い隠し、しかしそれでもグリフィンドールめ!と大きな声を出す。そんな彼の姉はアブラクサスが目を覚ますなりつまらなさそうにさっさと寮に戻ってしまって、夜も遅い廊下で大声を出す彼を叱るのは壁にかけられた絵画の中の年老いた魔法使いだけだ。そもそも、彼女、ヴァルブルガ・ブラックがアルファードを叱るような魔女なのか、僕には分からないが。何せ彼女は、酷い悪夢から目覚めたようなアブラクサスを見るなり、二日は魘されなきゃ面白くない、と眉を寄せたような魔女なのだから。


「夜の廊下は静かに歩くものだぞ、ブラック家の魔法使いめ!」

「うわあ!ご、ごめんなさい……!……ねえトム、どうしてブラックだってこと、分かるんだろう」

「さあ……似てるからじゃない?」

「ああ、そうか、そうだ、それだ」


湿気ったモスグリーンのローブを身に纏った魔法使いに睨まれたアルファードの声は、いつもよりは小さい。それでも耳を寄せなくても聞こえる程の声に首を傾けて答えれば、彼は酷く納得したように前髪を撫で上げながら項垂れて、それから深くフードを被ってみせた。
本当は、その魔法使いがグリーングラス家の魔法使いだから分かるのだろう、とは言わず、僕は絵画の隅に書かれたグリーングラスのサインから目を逸らし、ローブのポケットに手を突っ込む。そこにあるのはニナから四つも持たされたラズベリー色のキャンディと医務室で食べたチョコレートヌガーの包み紙だけで、僕は何も掴まずにポケットから手を出した。ニナがキャンディと呼ばずにラズベリー色と呼ぶこれは砂糖と蜜を溶かして固めたようなものだけれど、それでもアルファードにひとつだって寄越すことはしたくない。


「あ、そうだ、トム。昼間のグリフィンドールの魔法使い、罰則だって。その罰則、何か聞いたかい?」

「いいや。僕、授業以外はずっと医務室にいたから」

「そうだと思って、言いたくて堪らなかったんだよ!あの魔法使い達、今夜スラグホーン先生と一緒に夜の見回りだって!何でも、夜のうちに摘まなくちゃあいけない植物が森の側にあるらしいんだよ」

「森の側に?へえ、それって、もしかすると凄く災難だ」

「災難も災難!箒のお尻が燃えているよりもね!」

「夜の廊下は静かに歩けと言ったばかりだろう!ブラック!」


グリーングラスの魔法使いの声がびりびりと飛んできて、アルファードは慌てたように廊下を曲がり寮へと続く階段を下りていく。アルファードは、頭は悪くない。悪くないから、要領よく、逃げ足もはやいのだ。
階段を一段下れば、談話室の扉を開けて僕を待つアルファードが見えた。湖の底にある談話室はいつでも薄暗く、そこから漏れる灯りは頼りないもので、階段を照らすには頼りないものだった。


「恐い恐い、酷い絵画だ。俺、明日も、その次の明日もあの絵画の前を通るだなんて考えたくもないな。ねえトム、明日は俺といよう。それからお昼もさ、寮に戻らず他所で過ごそう。そうしよう。ね?」

「いや、お昼は……」


階段を下りきれば、アルファードの手が僕の背中を叩き、後ろ手に扉を閉めた。まだ暖炉に火をくべるのは早いのだろう。暖炉の前に置かれた古びたランプの灯りを頼りに本を読む魔女の背中を横目に、僕は瞼の裏でダークブラウンの瞳を思い出していた。
瞬きをする度に、長い髪を揺らして彼女は僕を見る。今日は一度も会えなかった彼女と明日も会えないのは、とても落ちそうにない鍋底の焦げをブラシで擦り落とせと言われる程に嫌なことだ。


「………………」

「……な、なに?トム……?それにほら、アブラクサスのこともさ、気になるだろう?」

「……いや…………」


けれど、きっと、この調子だと彼はずっと、僕から離れないだろう。その上、アブラクサスのこともある。もしも彼が明日も一日医務室にいるとなればアルファードは例えマダム・ペペに追い出されることになろうと医務室に行きたがるだろうし、それに僕を巻き添えにしたがるのは目に見えている。仮に退院出来ていたとしても、トランクを三階の窓から放り投げるような魔法使いだ。アブラクサスの顔が山トロールのような色に変わるまで今日のことを訊きたがるのだろう。そしてやっぱり、それに僕を巻き添えにしたがるのがアルファード・ブラックなのだ。
僕は、とうとう傷がつくまでトランクを放り投げ続けた彼に、今日のことをあまり深く知られるわけにはいかない。


「…………いいよ、分かった。明日は君に付き合うよ」

「本当かい?やった!言ったからね?約束だ、俺はちゃんとこの形の良い耳で聞いたんだから」

「形が良いか僕には分からないけれど、あまり騒ぐとまた叱られるよ」


だって、談話室にも絵画は山ほど飾られているのだ。
言葉を飲み込んで、僕はそうっと火の無い暖炉の斜め上、湖の底の暗い淀みを絵の具に使われたような魔女を指差して、部屋へと急ぐ。ぱちんと口を手で隠したアルファードは、絵画だけでなく、暖炉の前に座っていた魔女にまでも睨まれていたことを知っているのだろうか。
アルファードとは違う、けれどとてもよく似た濃いグレーの瞳を持つ二年生の彼女もまた、ブラック家だった。


「夜は静かに過ごすものだ、トム」

「君はいつでも静かにしようと気を配るべきだね、アルファード」


くすくすと、床を転がるようなアルファードの笑い声が後ろから追い掛けてくるのを聞きながら、僕は瞬きの隙間に現れた彼女に肩を落とす。
湖の底の談話室に、淀んだ悩みは尽きないのだった。




──ごめんね 今日も 一緒にお昼を食べられそうにないんだ


「不味いことになったわ、とっても酷いことに、これじゃあまるで悪夢だわ」


こん、こん、と、ミネルバの指先が木のテーブルに二度もぶつかったのを、私とサミュエルは首を傾けて眺めていて、ヒューは狼のような大きな口を開けて欠伸を溢しながら横目に見ていた。
今朝はどうにかお腹のあたりにいたミネルバの機嫌が、今は何故だか膝の辺りをさ迷っている。授業で何かあったのだろうか、それとも酷くお腹が痛むのだろうか、と不思議に思いながら彼女のお皿にクランペットを二枚取り分ければ彼女はそれをフォークで切り分け始めたので、どうやらお腹の調子は悪くはないらしい。


「どうしたの?どうかしたの?ミネルバ」

「ああ、聞いて、聞いてちょうだいニナ。酷いのよ、今朝も酷かったのだけれど、それでも気を持ち直してあなたとお昼を過ごそうと思っていたら、もっと酷いことになっていたのよ!」

「ミネルバ、ミネルバ、ねえ、何が酷いことになっていたの?」

「点数よ!あんなのってあんまりだわ!」


クランペットの端っこに乗せようと思っていたルバーブのジャムが、匙の上からぼとんとテーブルの上に落っこちてしまったことに、ミネルバは気付かなかった。
慌てることもなくサミュエルがそれを紙のナプキンで拭ってくれて、私はありがとうと返しながら今度こそきちんとミネルバのお皿にルバーブのジャムを座らせた。すると彼女はそれをひと掬いで全てフォークに乗せてしまって、クランペットに向かうのだろうと思っていたそれはそのままミネルバの形の良い、小さ過ぎることも大き過ぎることもない、生真面目な言葉には慣れっこな口に吸い込まれてしまった。しかし、それでもミネルバの機嫌はやっぱり膝のあたり、それよりも下にきてしまったので、彼女にとってルバーブのジャムは好物ではないらしい。


「点数って、ああ、そうか、昨日グリフィンドールは減点されたんだね」

「ええ、そうよ、正解よメイフィールド……。噂は本当だったらしくって、スリザリンの、誰かとまでは知らないのだけれど、兎に角まあ、ナメクジの呪いで……けれどまさか!あんなに減点されるなんて!」

「え、で、でも、それは昨日のことでしょう?昨日は、今日じゃあないわ」

「それが!今朝見たらまた点数が減っていたの!あの男子達!罰則中にあの呪いは自分達じゃないとか言って減点されてたのよ!大人しく罪を認めればそんなことにならなかったのに!」

「ああ……だから今朝のマクゴナガルは少し機嫌が悪かったわけだ……」


サミュエルの言葉に、ミネルバは今朝のことでも思い出したのだろうか。いつもは砂糖を入れないミルクティーに彼女は今朝みっつも落として、それを二度もおかわりしたのだ。こん、こん、と、ミネルバは先程よりも早いリズムでテーブルに指先をぶつける。そうしてそのまま頭を抱えてしまったけれど、それでもフォークは離さなかった。
銀のお皿に、プラムケーキをひと切れの半分、乗せてみる。それからそこにクロテッドクリームを薄く塗り付けて、私は頬杖をついて隣に座るミネルバの鼻筋を見つめた。彼女の高い鼻筋は、今日も綺麗だ。


「……さっき見たけど、グリフィンドール、また点数減ってたぞ」

「え、そうだったんだ。僕、ああいうのってあまり見ないから知らなかった……」

「…………ええ、そうなのよ、減っていたの。それも、最下位にまで!」


ひと切れの半分のプラムケーキの真ん真ん中に、フォークの尖った頭が突き刺さる。クリームを塗ったそれには少し濃いブラックティーが合うだろうと宙に浮かぶティーポットを捕まえて、私はそれをカップに注ぎながら鼻を寄せた。良かった、きっと、摘んだばかりのダージリンだ。
プラムケーキを飲み込んで、フォークを置いたミネルバの爪の先にカップを座らせてみる。彼女の白くて細い、羽根ペンを握ることがとても好きなその指は、迷子にならず真っ直ぐカップに添えられた。


「その上、今朝まではレイブンクローが一番だったのに、今じゃあスリザリンが一番多いのよ!どういうことなのか分からなくってそこに立っていたら、スリザリンの一年生が魔法薬学で点を貰ったんだってうちの一年生が言うのよ!」

「あー……、そっか、魔法薬学はスラグホーン先生だし……」

「でも、お前もニナも、たまに加点されるだろ」

「たまにね。砂糖漬けのお菓子を貰う方が多いかな」

「私なんて!グリフィンドールなんて!魔法薬学で加点されたことなんて一度しかないわよ!」

「うーん、まあ、でも、スラグホーン先生はそこまで目立つ贔屓はしない魔法使いだと思うけれど……。お気に入りの生徒は、いるらしいけれどね」


会話と会話の隙間に、ミネルバはダージリンを飲み干してしまう。空になったそれが嬉しくて、今度はテーブルの端にあった丸いフラップジャックを半分に割って、お皿の端に座らせる。すると一息つく間もなくフラップジャックはミネルバの手に拐われて、私は慌ててマーマレードの瓶の蓋を開け、残り半分のフラップジャックにほんのひと匙それを乗せた。
生真面目な口元についたフラップジャックの欠片をローブのポケットから取り出したハンカチで拭ったミネルバの瞳は、何故だかドラゴンが住んでいた。


「知っているわ、私、知りたくもないけれど、つまりはスラグホーン先生のお気に入りは私じゃあないってことだわね」

「俺でもないな」

「…………僕とニナも、まあ、別に、そこまでだと思うけれど……」

「少なくとも二年生でのお気に入りはあのルクレティア・ブラックと!アブラクサス・マルフォイなのよ!」


私の方がずっと効き目の良い寝付き薬を作れるわ!
どん!とひとつ、大きくテーブルを叩いたミネルバの手は、そのまま私がそうっと差し出したマーマレードを塗ったフラップジャックを掴み取り、そのまま真っ直ぐ、彼女の口へと向かう。よく食うな、と呟いたヒューは、ミネルバが来るまでに自分が食べていた小さな山のようなパースニップのことを忘れたのだろうか。サミュエルが私に取り分けてくれた分まで、彼は食べてしまったというのに。
トムならきっと、そんなことはしないだろう。ぼんやりと、今日は一度も会えていない彼のことを考えながら、私はミネルバの眉間の深い深い谷を見上げた。どうやら、マーマレードを乗せたフラップジャックは彼女の好みだったらしい。甘いフラップジャックには、少しだけ酸っぱい、このホグワーツのマーマレードがよく合うのだ。
瞬きの間にすっかり深くなくなった谷に、私は空のカップにダージリンを半分注いだ。


「もう、もう!……何だか私ってば、凄く、甘いものばかり、食べてるわね?」

「魔女だから、そういうものだと思うよ」

「そう、そう、魔女だからな」

「魔女、そうね、魔女だから、良いわよね……。それにしたって、一年生が、まさかたった一回の魔法薬学の授業で二十点も貰えるなんて、どれだけお気に入りだって言うのかしら」


半分きりのカップの中味を一口で飲み干して、ミネルバはそこで漸く手を止めた。その間に私はミネルバのお皿にチップスを乗せて、その隣に蓋を開けたモルトビネガーの瓶を立たせてみる。すると彼女の手はまた動きだし、チップスにふた振り、モルトビネガーを振りかけていく。


「サミュエル、二十点も貰ったこと、あるか?」

「うーん、どうだろうね。君は?ヒュー」

「…………五点、減点、された」


大広間の開け放された扉を潜るように、レイブンクローの生徒達が入ってくる。授業を終えたばかりなのだろう。大きなお腹をした鞄を抱えた魔女達は正しくレイブンクロー生で、おまけに大きな本を一冊、それぞれに抱えていた。
そんな彼女達とすれ違うように、ひとりの魔法使いが大広間を出ていく。ブロンドからジンジャーの赤毛に変わった彼は、カナリアイエローのローブの裏地をはためかせて扉の向こうに飲み込まれていった。
ウィリアム・グレイは、本当はどんな髪色を持っているのだろう。どんな瞳の色なのだろう。サミュエルのくすんだ赤毛も、ヒューのダークグレーの星が流れる瞳も素敵だけれど、彼の髪も瞳も、きっと素敵なのだろう。一度だって見たことのない、もしかすると見たことのあるかもしれないそれを睫毛の先に浮かべながら、私は大広間に駆け込んできたスリザリン生を眺めた。
あ、と、私は思わず腰を浮かす。


「あのルクレティア・ブラックでさえ十点の加点なのに……。あの一年生が余程お気に入りか、それか、親が素晴らしい魔法使いと魔女なんだわ……」

「親は関係ないだろ」

「あるのよ、あるの!だって、自分の先輩を悪く言いたくはないけれど、グリフィンドールの六年生に、頭は良くないのに親が魔法大臣の知り合いだからって気に入られてる魔法使いがいるんだから」

「へえ。それじゃあ、その一年生もそうなのかもしれないね」


スリザリン生が、一年生の彼が、テーブルの端のサンドウィッチをひとつ取り、それを手に足早に大広間を出ていく。後から来たもうひとりの一年生は睫毛に重なる深い夜の前髪を右に流して、それからふと、此方を見る。
私の腰が浮いたことにサミュエルが気付いて、彼は何故だか、は、と口元を手で覆い、私の上げた右手を見ていた。


「そうよ、あの、トム・リドルには、きっと、そういう仕掛けがあるのよ」


ひらり。先程の一年生、アルファードが取っていったものと同じサンドウィッチを手に取った彼が、トムが、辺りを見回して、それから小さく私に手を振ってくる。蕩けるように目尻を下げてトムが笑ったので、私もそれに返すように瞬きをして、右手を振った。
ヒューが深くフードを被り、テーブルの下に沈んでいったことに気付いたのは、トムがアルファードを追い掛けるように大広間を出ていったその時だった。


「ヒュー?ヒュー、どうしたの?パースニップを食べ過ぎたの?」

「…………いや、俺、何か、いや……」

「ええっと、ニナ、ごめん、ひとつ、気になることがあって。ずっと気にはなっていたんだけれど……あの、訊いても良いかな?」

「え?ええ、うん、良いわ、勿論。なあに?サミュエル」


かたん、と、チップスを突き刺したままのフォークがお皿に戻されて、ミネルバはぶるぶると震えるその手で顔を覆う。私はそれを横目に、テーブルを乗り越えるように腰を上げて此方に唇を寄せたサミュエルに耳を寄せて返した。
隠しきれないミネルバの耳は、マンドラゴラの根を煮詰めたような酷い色だった。


「あの、ニナの言ってたスリザリンの弟って、トムって、やっぱり、あの、トム・リドルで合ってるのかな……?」


細く白い、青ざめても見える指の隙間から、ミネルバの瞳が私を盗み見ている。私はサミュエルの言葉の意味を全ては飲み込めなくて、首を傾け、それからひとつ、頷いてみせた。
あの、トム・リドルとは、どういう意味なのだろう。そう言えばミネルバの生真面目な唇が、トムの名を呼んでいた気がするけれど、私の頭はフラップジャックや、アルファードとトムの持っていったサンドウィッチでいっぱいだ。
あのサンドウィッチは、ローストビーフのサンドウィッチだろうか。夏に食べた萎びたサンドウィッチよりもずっと美味しい、サンドウィッチだろうか。


「ええ、そう、そうよ。私の弟よ、自慢の弟よ」


言えば、何故だかミネルバの機嫌はとうとう床に落ちて、ずぶりと沈み、そうして彼女はそのまま項垂れるようにテーブルに突っ伏してしまって、それから彼女は燃えるような悲鳴を上げて、大広間から飛び出していってしまったのだった。



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