かりかりと、乾いた羊皮紙の皮膚を羽根ペンの先が引っ掻く音が響いている。けれどたった三つきりのその音は殆どの生徒が眠ってしまったことを教えてくれていて、前の席、フードをすっぽりと被り机に突っ伏して眠るヒューは、時折鼻を詰まらせたような寝息を立てていた。ホグワーツ城の外はすっかり秋に飲み込まれてしまっているけれど、巣穴の暖炉にはまだ火が寝そべっていないのだ。
後でラズベリー色を分けてあげよう。ローブのポケットの中身を確かめて、ビンズ先生の子守唄に耳を傾ける。オランダ魔女の話はどこまで進んだのだろう。瞼を優しく撫でるような皺だらけの声は、耳を傾けるほどに私の瞼を撫でるのだ。


「ニナ、教科書、進んだよ」


瞬きが重くなりかけていた私の肩を、白い指先がつつく。その指先はそのまま私の教科書の頁を捲って、そうして羽根ペンを握り直した。


「ありがとう、サミュエル、」

「大したことじゃあないよ。それに、僕も、そろそろ眠い……」

「うん、うん、私も……」


かりかりと、羊皮紙を引っ掻く音はふたつになる。ひとりで机の真ん真ん中に突っ伏すヒューの前の席には、授業の始まりを報せる鐘が鳴る前から眠っていたジャックと、欠伸を飲み込んで目尻を拭うイアンが座っている。その斜め前に座るレイブンクローの魔女は船を漕ぎながら羽根ペンを動かしていたけれど、彼女はとうとう船旅に出てしまい、羽根ペンの音はイアンのひとつ分だけになってしまう。
サミュエルが、わ、と、珍しく大きな欠伸をして、長い睫毛を震わせた。くっついてしまった瞼は、一度そうなると引き離すのはとても難しい。ヒューのように突っ伏すことはなかったけれど、ほんの少し背中を丸め、サミュエルは眠りの海に落ちてしまった。


「1752年、新種の魔法薬を作り出した彼女はその後スペインに移るのですが、それは何故だか分かる生徒は、起きている生徒は、ああ、今日はもうマクヘルガとラヴィーだけですかね……それじゃあこのまま教科書を追いかけましょう」


名前を呼ばれ、肩が揺れる。は、と顔を上げればそれはイアンも同じだったらし。ぴんと伸びた背中は少しだけ引きつっているようにも見えて、私は溢れそうになった笑いを慌てて引っ込めた。
眠気を山ほどに乗せた船を見送って、足元に置いていた鞄を膝に乗せる。確か、鞄の底に、天文学の資料の名前が書かれた羊皮紙がいたのだ。ミネルバが書いて渡してくれたそれは、インクからミントの抜けるような匂いがしたはずだった。


「え、っと、」


書きかけのレポートふた巻きを端に寄せ、赤い日記帳を一度取り出す。入れっぱなしにしていた防衛術の教科書の下敷きになっていたそれを手に取り鼻に寄せればやはりミントの匂いがして、瞬きをすれば瞳がひやりと冷たくなった気がした。
防衛術の教科書に、ミントの匂いを挟む。取り出した赤をしまおうとして、背表紙を撫でて、何となく、それを開いてみた。もしかすると、トムが何かを書いているかもしれないと思ったのだ。


「あ、」


思わずぽろりと溢れ落ちた声を、慌てて隠すように口に手を当てる。それに気付いたのはイアンだけで、彼は半分閉じてしまった瞼の下から此方を振り返り、何故だか小さく笑って、そのまま頬杖をついてしまう。寝惚けていたのだろうか。
首を傾けながら、私は鞄だけを足元に下ろし、赤い日記帳を膝に乗せた。私よりも丁寧で、真っ直ぐ横に走る文字は今朝はいなかったもので、初めて見るものだった。


──ごめん 今日のお昼は 別々で


滲んでいない、掠れてもいないそれをなぞって、羽根ペンを握る。気にしないで、と返事をしようと思い、インク瓶にペン先を浸したところで、隣の頁に慌てて走ったインクの足跡を見付けた。


──今日は中庭に行かない方が良いよ 晴れてるけれど 寒いから


ぽたん。インクが一滴、日記帳に吸い込まれてしまう。ヒューの鼻を詰まらせたような寝息が耳元をゆっくりと飛んでいって、サミュエルが寒そうに背中を丸めたのが横目に見えた。
一昨日、サミュエルにどんな夢を見たのか訊ねられた時、どうしよう、と思った。それでも昨日、またこっそりと逃げるようにそうっと離れて、ちっとも見付けられない水魔の守り人をトムと探した。けれど、もうそろそろ、止めたほうが良いのだろう。
ふたりきりの秘密はとても素敵なものだけれど、向かいの席にサミュエルとヒュー、それから右隣にミネルバが座って、左隣にトムがいる方が、ずっと素敵だ。それから、トムの向かいには、アルファードがいれば。


──分かった 寒くないようにしておくわ


それに私は、やっぱり嘘が下手なのだから。
水魔になる夢を見たと答えた時のサミュエルの可笑しそうな顔を思い出しながら、私は隣で背中を丸める彼にくっつく。頭を傾ければ額は肩に当たって、眠ってしまうにはぴったりだった。






「口笛なんて、教えて吹けるようになるものか?」

「え!?やっぱり吹けるんだ!アブラクサスなのに吹けるんだ!」

「おい、今の言葉に僕を馬鹿にする意味がほんの一滴だって入っているなら僕は寮に戻るぞ」

「ああ!ごめん!ごめんよアブラクサス!そんなつもりじゃあないんだ!ごめんよ!許して!」


此方を向いたアブラクサスの踵に、慌てて彼の腕にしがみつく。ポピーシードケーキを食べている時は機嫌の良かった彼の眉間には今はポピーシードの風味も残っていないのか、此方を睨み付けるように深い皺がそこにいる。


「いいか、僕は何も口笛なんていう下らない遊びの為に時間を潰すつもりはないんだ。トムが相談をしたいと言うから、それまで暇潰しで付き合ってるだけで……」

「分かった、分かった。アブラクサスはトムが好き、俺もトムが好き、だからアブラクサスと俺はとっても仲良し。良いねえ!」

「気持ちの悪いことを言うな!」


まあ、まあ。言いながら、アブラクサスの肩を叩く。中庭のベンチに彼を座らせようと背中を押すけれど、アブラクサスの機嫌は良くないどころか地面に落ちてしまったらしい。勢いよく手を振り払われて右手は痛んだけれど、それでも彼を責めるつもりなんて杖の先程にもないし、インク一滴分だって存在しない。大広間を出てからというものどろどろに汚れたような言葉ばかりを吐き出していた彼ではあるものの、結局のところ彼は面倒見が良いのだ。だからこそ彼は、俺と中庭にいる。
肩の上で真っ直ぐに切り落とされたプラチナブロンドを後ろで結びながら、アブラクサスはまた俺を睨み付ける。彼は変わり者だと噂のアルヴィ・エインズワースの全てがトロールに見えているかのように顔をしかめるけれど、そうして陽に透けそうな髪を束ねてしまえばとてもよく似た魔法使いだった。俺の目は魔女の目ほど細かいところまで見えないから、魔女から見ればちっとも似ていないのかもしれないけれど。


「それより、トムはどうした。まだか」

「ああ、マダムの所へ行くって。マダム・ペペに薬を貰いに行ったんだ。もうすぐ来るんじゃないかな、何せ俺が勧めたドリズルケーキも食べずに行ったんだし」

「何だ、まだ体調が悪いのか」

「うーん、そこそこ良い感じだと思うよ。だって、さっきの薬草学の授業なんてずっと機嫌が良かったからね。それに、最近何だか寝付きも良いみたい。魘されないもの」


ポピーシードにもドリズルにも見向きもしなかったトムの後ろ姿を思い出しながら、ベンチの手摺を叩く。指先にかわいた土がついたのでそれを払えばアブラクサスは眉をぎゅっと寄せてローブのポケットからハンカチを取り出し、それを此方に投げて寄越す。


「わあ、アブラクサス、これって凄く手触りが最高!こんなものを持ち歩くなんて、君って何だか魔女みたいじゃ、」


俺の耳元を何か、目に見えない何かがびゅんと通り過ぎたのは、その時だった。
二階の窓から、杖を手に目を丸くしている魔法使いが二人見える。フードの裏地は深い赤で、中庭を覗けるようにと窓ガラスの取り払われたそこから頭半分身を乗り出して此方を見ていた。そして、アブラクサスは勢いよく後ろにぶっ飛んで、ベンチに腰を打ち付けた。


「あ、アブラクサス!?」


びゅん!と、今度は肩の直ぐそばを通り過ぎた何か、閃光がアブラクサスのお腹を突き刺して、彼は丸く踞る。風が吹いたのだろうか、中庭の木は微かに騒がしくて、俺の心臓も騒がしい。一体、何が起こったっていうんだろう!


「アブラクサス、アブラクサス!大丈夫かい!?少なくとも生きてはいるみたいだけれど!大丈夫かい!?」

「……………………う、」

「う!?うって何!?」


背中に手を添えようと、膝をついたことを後悔した。


「う、っ、」


だらんと伸びた、ベリーを食べ過ぎた後の色の舌の上を滑って、ニガヨモギを擂り潰した色の粘膜がぼとりと地面に落ちる。ぱちん、と思わず顔を覆った指先の隙間から見えたものはアブラクサスの口から吐き出されたナメクジで、違う、これは角ナメクジだ。そういった、手に付けば五度は石鹸で手を洗わなくては我慢ならないものを、アブラクサスは口から吐き出したのだ。何故だかベリー色に染まった、長く伸びた舌の奥から。


「あ、駄目、俺こういうの駄目、ごめんアブラクサス、ごめんね!見たくない!でも大丈夫、医務室には連れて行くから、連れて行くから!」


かわいた土で汚れたハンカチなんて、洗い立てのシャツのようなものだ。広げたそれで視界を隠しながら、俺は手探りでアブラクサスの腕を掴む。けれと、ぶるぶる震える彼の細い腕は湖の底に足をとられたかのように重く、なかなか立ち上がらせることが出来ない。スリザリンの寮が湖の底だからといって、足まで浸かる必要は爪先程にもないというのに。


「何をしている、誰だね、何をしたんだ!?そこか!君かね!」


うん、と腰を落としてアブラクサスの腕を引っ張りあげたのと、そんな俺を弾き飛ばすように固くて丸い何かが俺の背中にぶつかってきたのは同時のことだった。


「いたっ!」

「おお!すまない、すまない、君はどのブラックかな?そこにいるのはアブラクサス・マルフォイか、何だ何だ、一体何があったんだね?おおお、舌が腫れとる、ナメクジの呪いも、ほっほう!角ナメクジじゃないかね!」

「す、スラグホーン先生……!アルファードのブラックです!」


踞るアブラクサスの背中に被さりながら、ぶつかってきた彼、大きな丸いお腹ばかりが目立つスラグホーン先生を振り返れば、彼は俺とアブラクサスの顔を覗き込みながら杖を取り出す。俺の杖よりも長く太い、しなりのなさそうなそれは吐き気と角ナメクジを止める魔法薬を作るには丁度良いもので、俺は咄嗟に二階を指差しながらスラグホーン先生のローブの裾を引っ張った。
二階の窓から、杖を握ったまま動かないグリフィンドール生二人が、此方を見下ろしている。一階の廊下からは食事を終えた生徒達が、俺が爪先立ちで覆い被さる彼を、角ナメクジを見ようとしていて、俺は自分の視界を隠していたハンカチをアブラクサスの頭に被せた。後になって、ローブのフードを被せれば良いだけだったことに、俺は気付くのだけれど。


「先生、スラグホーン先生、あそこ、あそこ!」

「あそこ?」

「あそこですよほら、あそこ、二階だって!ほら、グリフィンドール生が!」

「二階から!なんと!そんな場所から狙ったのか!なんと!角ナメクジを!ほっほう素晴らしい!あいや、そうではないな、グリフィンドール、五十点減点!」


そんな馬鹿な!
二階の窓から、尖った叫び声が降ってくる。それを振り払うように頭を振って、俺は今度こそアブラクサスを立ち上がらせた。げえげえ、ぼとぼと。聞くに耐えない、粘りけの混ざる何とも嫌な音がしたのは気のせいだ。


「スラグホーン先生!俺達じゃないよ!本当だ!」

「何かの間違いなんです先生!」

「ええい、静かにしなさい!言い訳はよろしい!さて、アルファードのブラック、どれ、彼を医務室へ連れていきなさい。マダムには薬は持っていくからと伝えておくように」

「え、え、一緒に来てはくれないの!?ですか!」

「いやいや、何せこの角ナメクジが大層立派で、いや、行くとも、大急ぎでこの子達を拾い集めてからな。ほれ、急がねば舌が抜け落ちてしまうぞ!」


驚いて、アブラクサスを見る。顔までベリー色に染まった彼の口から伸びる舌は先程よりも杖二本は長く伸びていて、酷く腫れ上がっている。まさか根っこから抜け落ちてしまうのだろうか、とその付け根を覗き込もうとして、止めた。角ナメクジと、目が合ってしまったのだ。
額に手を当てて、そのまま瞼を撫でる。俺は果たして、医務室まで彼を運ぶことが出来るのだろうか。瞼の裏には廊下の途中で踞るアブラクサスを放って逃げ出す自分の姿が靴紐を結び直すよりもずっと楽に想像出来て、堪らずスラグホーン先生を振り返る。けれど、大きな丸いお腹は僕に気付きもしないし、見もしない。
その時だ。とん、と背中を肘でつつかれて、殆ど抱えるようにして支えていたアブラクサスを俺の代わりに誰かが、俺と同じ真っ黒い髪をした彼が支えてくれたのは。
ああ、君って、トムって、何て良い魔法使いなんだろう!


「遅くなってごめん、でも、これって一体どういう状況?」

「トム!ああ!遅いじゃないか!俺がどれだけつらかったことか!」

「いや、つらいのはアルファードじゃないと思うけれど……」


ぱ、と、口許を押さえた、けれど舌が伸びすぎて隠しきれなかったアブラクサスが、ぶるぶる震えながら首を横に振る。あ、と弾かれるように顔を二階の窓に向けた瞬間、げえげえ、ぼとぼと、また嫌な音がして、二階で項垂れるグリフィンドール生達につられるように俺も項垂れた。


「アルファード、僕が連れて行くから、君はその、途中で落ちたこのナメクジ、角ナメクジだね、拾ってきてくれる?」

「あー……それって俺が今一番やりたくないことだよ、凄いや」


アブラクサスの腕を肩に回して、トムは首を傾ける。それなら君が代わりに連れて行く?と、形の良過ぎる瞳は声に出さずに言っていて、俺は顔を手で覆って俯いた。
真横で、耳元でげえげえ、ぼとぼと、なんて、きっと俺も、角ナメクジではないけれど、少なくともトムが食べてくれなかった代わりに自分で食べたドリズルケーキを見ることになってしまいそうだ。


「それじゃあ、アルファード、頼んだからね」

「…………任せてよ」

「うん、任せたよ」


黒い革靴の爪先が、俯く俺を置いてさっさと中庭を出ていってしまう。後ろを振り返れば大きな丸いお腹が何処かから持ってきた古い大鍋に角ナメクジを摘まんで入れているところで、俺は意味もなくシャツの襟を立て、寝かせ、また立てた。首は、びっしょりと汗をかいていた。


「う、うう、トム、待って、やっぱり俺も行く!拾えないんだ!俺も行く!」


角ナメクジを拾い集めるなんて、そんなことをするくらいなら川トロールの鼻水を眺めている方がずっと楽しいに決まっている。
中庭を出て、廊下の角を曲がったトムとアブラクサスの後を慌てて追いかける。何故だかローブのフードの中に大きな葉を一枚入れたトムは呆れたように此方を見たけれど、それから彼は何にも言わず、アブラクサスを横目に見ていたのだった。



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