初めはただ、此処から出てニナに会えば何と言われるか、それが聞きたくなかっただけだった。そうして湖の底に沈むように寝ている間に見る夢は靴底が剥がれてニナにどんどん身長を追い越されていったり、僕ではない何か、壁や本棚やそういったものを眺めてニナが此方を見てくれなかったり、言ってしまえば置いていかれてしまうような、そんな夢だった。
それが段々と浅く、深く、重くて暗い、まるで酷く居心地の悪い場所に閉じ込められたような嫌な夢になり始めたのは、それまでは昼間にそうしていたキングが夜中にまで僕のトランクをこつこつと叩き始めた頃からだ。


「トムなんて、もう知らないわ」


スカートを変えて、靴を変えて、場所を変えて、ニナはいつも真ん中に立っていた。ラベンダーのカーディガンや、踵の低い靴を、いつどこで身に付けていたか、僕は細かいことまで覚えていない。それでもはっきりと分かるのはその真ん中に立つニナは僕の好きなスカートや靴を身に付けて、それでいて僕の聞きたくない言葉を酷く怒った顔をしながら口にしているということだけだ。
四角い窓から、すっかり記憶の隅に放っていた路地裏が見える。薄く埃かぶったその窓は小さな薄暗い僕の部屋の隅に引っ付いていたもので、そしてニナはいつもそこから、僕に彼女の世界の端っこを与えてくれていたのだ。


「トムなんて、嫌いよ、嫌いだわ」


部屋の真ん中に立って、ニナはやはり酷く怒った顔をする。もう何度この夢を見たのだろう。それは日に日に恐ろしく現実味を帯びるばかりで、一昨日は部屋のドアの隙間からミセス・コールがあの頃と同じ目でこちらを覗いていて、昨日はそこにエイミーもいた。四つの、まるで暗闇を這い上がってきたかのように全てを知っている目玉が、呆然とする僕を見ているのだ。
そんな夢に悩む夜を、僕はベッドの上で飽きるほど繰り返し、そして今日、とうとうダークブラウンの瞬きと共にニナが消えて、ミセス・コールと三人にも増えた子供達の目玉だけに見詰められる僕はとっくに、起き上がることも難しくなっていた。



「ねえトム、そろそろ起きた方が良いと思うよ、俺は。だって君、もう随分こうして休んでるもの。そろそろ起きてくれなきゃあ、またスラグホーン先生が覗きに来るんだ。知ってたかい?スラグホーン先生ったら、昨日は夜中の一時に間違えて俺のベッドを覗いたんだ!」


額の上に、ランプでもぶら下げているのだろうか。
まるで火がそこにあるかのように頭が熱くて、視界は妙に眩しい。どうにも上げることの出来ない瞼を持ち上げてはみるけれど、そうしたところで見えるものは水面に映したかのように揺れているものだから、何も見えやしない。そこにあるのはきっとただのベッドの天蓋か、そうでなければアルファードの二日はたっぷり練習したような不貞腐れた顔なのだろう。
そんなことを考えながら、僕は頭の片隅で夢の糸を離す。遠くに流れていったそれを今更取り戻すことも、その糸の先にどんなものがくくりつけられていたか思い出すことも出来なかった。僕は、何の夢を見ていたのだろう。夢の中でなら昨日のことだって思い出せるのに、目が覚めてしまえば今日見た夢だって思い出せない。ただ分かるのは、とても、嫌な夢だったということだけだ。


「それと、あ、そうそう、ダンブルドア先生が、これをお見舞いにって。レモンキャンディかな?ひとつ貰ったんだけれど、君のをね、これ、相当レモンが入ってるんじゃあないかな。君がこんなの食べたら、多分喉がやられるからクラッブに渡しておくよ。彼って何でも食べるからね」


アルファードの声が、何故だか遠い。何処にいるのだろう。いつもなら、昨日までなら確かにそこに、ベッドの縁か、隣にある彼のベッドにいたはずなのだけれど。
枕の上で、頭を動かしてみて気付いた。額は酷く汗ばんでいて、頭の奥深くに何か悪いものが根をはったように重く痛む。嫌な夢を繰り返す度に頭は痛んでいたけれど、どこか胸の痛みにも似ていたそれは今日は全くの別物だった。そうだ、多分これは、熱が出たのだ。


「あれ、トム、今日は食べなかったのかい?折角美味しいものを選んで持ってきたのに、ほら、ローストビーフのサンドウィッチ!これ、この間食べたんだけれどすっごく美味しくて、今日も食べてきたんだ。トム、一口で良いから食べるべきだよ。ねえ、カーテン、開けるからね」


こつこつと、キングがトランクを叩く音だけは聞こえていた。開けても良いかと訊ねるのはキングなのか、それともアルファードなのか、今の僕には区別がつかない。
視界がまた、妙に眩しい。ベッドに投げ出していた腕を外に出せば空気が冷たくて、心地が良かった。そしてその指先を手繰り寄せるように、ベッドの下からキングが細く長い尾を伸ばしてくる。開けろ、と、彼は失礼にも僕に命令までしてくる。


「わ、キング、駄目だよそんなに引っ張ったら……え、あ、あ、トム?トム?あれ?待って、君、何て言うのかな、兎に角すっごく、今までで一番気分が悪そうだ!」


重い頭をどうにか持ち上げて、僕はベッドから半分ずり落ちながらトランクを引っ張る。引っ張り出すことは、出来なかった。力が入らないのだ。


「何してるんだいトム、そこから医務室へ行けるって言うのなら話は別だけれど、そんな風には見えないね!」


慌てたように、それでもアルファードは僕の代わりにトランクを引っ張り出す。彼の傷のあるそれよりも、僕のトランクはずっと軽いのだろう。大して服も入っていないそれを勢いよく引っ張り出してしまった彼はそのまま尻餅をつき、自分のベッドの縁に頭をぶつけていた。
弾き飛ばされたキングが、しゅ、とひとつ怒って、アルファードの足を叩いていく。滑るようにトランクの取手までのぼった彼は、一体何を探しているのだろうか。ベッドから体ごと全部ずり落ちて、僕はがちゃがちゃと鍵を開ける。乱暴だね、と、アルファードが頭をさすりながら呟いた。


「ねえ、キング、君ってどれだけそのトランクに入りたいんだい?ここ最近ずっとじゃないか。夜中にまで部屋に入り込んで!スラグホーン先生じゃないんだから止めておくれよ」


ぎ、と、トランクが音を立てる。ほんの少しの隙間から滑り込んでいったキングの尾にアルファードは話しかけていたけれど、キングは応えない。
床に寝転がるなんて、こんなこと、したことがない。重い瞼を閉じて、そのまま丸くなる。アルファードが僕の肩を揺すったけれど、僕は起き上がるつもりもなかったし、起き上がれる気もしなかった。
頭が、痛い。僕は本当に、一体どんな夢を見ていたのだろう。


「トム、起きて、起きて!医務室へ行こう、俺が連れていってあげるから、起きて!う、わ、キング、駄目、駄目だよ!トムの荷物を勝手に出しちゃ、うわっ」


がちゃん!と、勢いよく、何かがトランクから吐き出された。
瞼を持ち上げて、額の汗を拭う。キングは何も言わずただ息を漏らすばかりで、何を吐き出させたのか教えてはくれない。それでも謝りもしないから、それを吐き出させることが目的だったのだろう。やっぱり妙に眩しい視界の中を手探りで探して、僕は指先に冷たい何かが触れたのを感じた。
引っ掻くように、それを手繰り寄せる。その度にちゃりちゃりと金具が擦れるような音がして、じん、と、頭が痛んだ。ごとん!と、続いてまた何かをキングはトランクから吐き出させ、ああ、とアルファードが声を漏らす。
僕は、なんて酷い、と、喉の奥で叫んだ。
なんて酷い。なんて酷いことを、してしまったんだろう。


「トム、ああ、ごめんよ、今片付けるから!キング、駄目だよ!そこを退いてくれないかな、わ、わ、止めて、噛もうとしないで、やめて!ごめん!」


もう知らないと、言われる筈だ。ニナは一体、どれ程僕を待っていてくれたのだろう。
冷たいそれを引き寄せて、蓋を親指で擦るように撫でる。開かれていないそこにあの日の時間が現れることはないが、今見たところでどうにもならない。ただ、酷く後悔するだけだ。
トランクのそばに吐き出されていた物、黒い日記帳の表紙を捲って、僕はすぐにそれを閉じた。ニナの丸くて歪んだ文字が、いくつも列になって続いていた。会いたい。話したい。そればかりが書かれた頁の一番左端に、丁寧な、それでもやっぱり、丸くて歪んだニナの文字が、そこにいたのだ。
入学おめでとうだなんて、どうして僕は、あの夜に読んでおかなかったのだろう。
冷たいそれを、ニナがくれた時計を額に当てて、僕は爪先からゆっくりと飲み込まれていくのを感じていた。夢だ。これは夢だ。どれが夢なのだろう。瞼を下ろしてもいないのに湖の底はゆるやかな丘に変わって、ニナはまた、いつものように、真ん中に立っていた。そうだ、夢だ。だって、これからニナがどんな顔をして僕に何て言うのか、僕はどこまでだって思い出せる。


「やっと見た」


ニナの口が、動く。けれどそれは確かに、ニナの声ではないと、僕は気付いていた。
頭が、痛い。重い。どうしてこんなに、熱いのだろうか。ちかちかと、瞬きをする度に熱が弾ける。僕は黙って夢に飲み込まれながら、キングが小さく笑う音を聞いていた。






「ウィリアム・グレイ?ウィリアム・グレイって、あの、ウィリアム・グレイ?」


私の向かい、同じように床にべったりと座り込んだジェインの口に、ジンジャーのビスケットが吸い込まれていく。もうほんの二枚しか残っていないそれは彼女のお気に入りになったようで、私の持っていたクラレットの包みの中身は殆ど全て彼女のお腹が食べてしまった。
ふたり掛けのソファに並んで座っていたアンとリリスが、揃って顔をしかめている。誰からともなく顔を寄せて、囁き声で話し始めたのはアンだった。


「なあにあなた、シーカーなら誰だって良いわけ?止めておきなさいよ、メイフィールド先輩なら良いけれど、グレイは駄目よ」

「え、え、そうじゃないわ、違うわ」

「あら、違うのなら良いわ。良かった、驚かせないでよ」


まったく、と呟きながら、アンはブルネットを波打たせる。その隣でリリスがほうっと胸を撫で下ろしたのは、彼女もまた同じ事を思っていたからだろう。
驚かせるつもりなんて無かったのだけれど。それに、ウィリアム・グレイの何がそんなに彼女達の顔をしかめさせるのだろう。そんなことを考えながら、私は絨毯に指を沈める。ジェインのこぼしたビスケットの欠片は、明日の朝には屋敷しもべ妖精達が丸きり全て取り除いてくれているはずだ。指先に感じたビスケットの欠片を払い落とし、また一枚、ビスケットを口に放り込んだジェインを見た。


「そうよね、だって、あんなに素敵な先輩ってなかなかいないもの。ニナはあの先輩が一番だわ、勿論知ってるわ」

「出たわ、赤毛贔屓。ジェイン、それやめた方が良いと私は思うわよ」

「ち、違うわよっ、赤毛、赤毛は、赤毛って素敵なんだからねっ、リリス!」

「あらそう、ごめんなさいね。まあ確かに、私はあなたのジンジャーは素敵だと思うわ、ジェイン」


囁くようにくすくす笑って、リリスはジェインの肩を叩いた。私は彼女達がどんな家系で、どんな育ち方をしてきたのかはちっとも分からない。それを訊くべき日は、一年生の秋は、とっくに通り越してしまっていたのだ。
袖の膨らんだモスリン、レースの襟元、髪を結ぶモーブのリボン。アンもリリスも、そしてジェインも、私には何も変わらなく見えている。妖精の噂が好きな、お喋りな魔女達だ。けれど、ふと、私でなければ彼女達はどんな風に見えるのだろうかと思う。それは多分、私から見たアンドリュー先輩と、それからウィリアム・グレイから見たアンドリュー先輩は全く正反対の真っ逆さまに見えているのかもしれないと、考えてしまったせいだった。
ぶるりと頭を振って、ジェインの三つ編みをつまみ上げたリリスの細い手首を見つめた。


「それで?どうしたって急にあんな魔法使いの話をしたがるっていうの」

「んん、あの、ただどんな魔法使いか知りたかっただけなのよ。たまたまね、会ったから。でも、ねえアン?あんな魔法使いって、どんな魔法使いなの?」


波打つブルネットが、ぴたりと動きを止める。今朝の彼女はスミレを浮かべたオイルで髪を撫で付けたのだろう。ベッドに寝転んだそのままの髪で毎朝起き上がってくる彼女は、広がるそれを大人しくさせることに長針三十歩分はたっぷりと櫛を握りしめていた。私はそんな彼女も好きだけれど、そう言うと彼女は針鼠のように怒ってしまう。
目尻のきゅっと上がったアンの瞳が、床を見て、暖炉を見て、膝を見る。泳ぐそれを追いかけている間にビスケットはジェインの口に吸い込まれていて、クラレットはその役目を終えた。


「何て言うか、私も詳しくは知らないのよ、ただ、彼ってとっても気難しい魔法使いらしいの。そう、直ぐに怒るんだって、四年生の魔女が話してたわ」

「アンの言う通りよ、ニナ。私もその話を聞いたことがあるもの。それに、四年生にもなって友人のひとりもいないのよ。余程のことだと思うわ、私はね」

「そ、そう、そうなの……」


ちくちくと、囁き声に混ざって棘が飛んでくる。今となっては私は彼女達を友人だと思っているし、彼女達もまた少なからず私を悪くは思っていないだろう。此方を見るなり飛び立つように逃げ出していた三つ子の森梟の背中はすっかり姿を消して、今では私を見ればまるで旅の途中で大木を見付けたかのようにひと休みというお喋りをしていく。それが嵐のようだと思う日もあるけれど、私は決して嫌いではなかった。
長過ぎるせいで使い勝手の悪そうな腕や脚を、睫毛の先にぶら下げる。頭の奥にしまっておくべきか、それともローブの裏地を覗いてみるべきか、悩んだ。彼のことを知ってどうするのだろうと、自分でも思う。けれど、一度視界に入ってしまって、そこに名前まで書き加えられてしまったのだ。そのインクを塗り潰すようなことを、私は出来そうにない。私は、塗り潰されていた魔女なのだ。


「でも、私は別に、みんなが言うほどの魔法使いじゃないと思うわよ?」


膝を視線で撫でた私は、顔を上げてジェインのリボンを見つめる。リリスの持った丸く大きな手鏡の前で丁寧に結んだそのリボンは空気を纏ったように膨らんでいて、とても素敵だ。ジェインはそれに指先で触れながら、アンとリリスからふいと顔を背けた。


「何よジェイン、私達が悪口言ってるみたいじゃないの」

「そういうことを言ってるんじゃないのよ、アン。私はただ、そこまで気難しい魔法使いには見えないって思っただけ」

「気難しいに決まってるわよ。そうじゃなきゃあ、変じゃない」

「変かしら?たまたま気の合う友人がいないだけかもしれないわ。もしかしたらみんなに秘密でどこかで会ったりしてるのかも」

「……ニナは?あなたはその魔法使いを見て、会って、どう思った?そもそも、この話ってあなたが持ち込んだ話だもの、勿論あなたも意見を言うべきよ」

「え、ええ?」


アンのブルネットが、ざわざわと波打っている。それは彼女の機嫌が良くはないことを教えていて、私は思わず息を細めた。
腕も脚も、長過ぎる魔法使いだった。背中は随分と薄くて、縦に長い。もしかするとアンドリュー先輩よりも高いその頭の天辺には、ふわふわと揺れる髪があった。七変化では、ないとイアンは言う。髪と瞳の色だけが変わるのだと。クラレット、ラズベリー、ダークブラウン。瞬きをすれば砂糖が溶けて崩れるように染まるそれを、私は、そうだ、思ったのだ。だから私は、気になるのだ。
素敵だと、思ったのだ。


「………………あ、の、」

「……やめ、止めよ、この話はおしまい!もう終わり!」


言って良いものか、悩んでしまう。それにジェインは気付いてくれたのだろう。飛び出すように私の前で手を広げて、彼女は私をアンとリリスから隠してしまった。


「そんなに気になるのなら、今度みんなで試合を観に行きましょうよ!折角シーカーに選ばれたんだし、どんな腕前か見なくちゃね。それか、休みの日に後をつけてみるの!それが良いわ、そうしましょ」

「ええ!何よそれ、そんなの、そんなのって、楽しそうじゃない!」

「でしょう?アン、あなたが探偵遊びが好きだってこと、知ってるんだからね」

「……あなた達って、子供じみた遊びが好きなのね」

「何よ、文句あるのリリス。良いわよ、私達三人でそうするから。あなたは部屋で詩集でも読んでいれば良いわ」

「…………し、しないとは言ってないわよ、私は」


くすくすと、ジェインの背中が揺れる。彼女はすっかりふたりの魔女の舵取りを覚えてしまっているらしく、ちらりと振り返ったその唇からは悪戯に舌が覗いていた。
ほ、と、息を吐く。膝に下ろした視線が少し震えて、思わず目を閉じた。そうすると真っ暗なそこに薄くて細い背中が見えたけれど、それはとぷんと瞼の裏から頭の奥に飲み込まれていく。頭の隅、一番右端のキャビネットの引き出しに、私は黙って鍵をかけた。


「あ、ねえそれよりニナ、私、あなたに訊きたいことがあったのよ!」

「え、なあに?なにを?」

「あのね、あなたってガーランドとマクヘルガなら……」


ジェインの丸い瞳が私を映して、それから辺りを見回した。妖精の羽音が辺りに響いてはいけないのだ。
けれど、ジェインはぴたりと動きを止めて、ああ、と項垂れてしまった。どうかしたのだろうかと私は彼女が見回していたように談話室を見回して、それから、あ、と口を開ける。丁度、ヒューが戻ってきたのだ。
藍色の瞳が私を見付けて、右手を上げて此方にやってくる。それにこたえるように手を振れば、何故だかジェインは口許を隠して私を横目に見つめていた。小さな爪に隠された口許は、ゆるんでいた。


「ニナ、何して、」

「ラヴィー、ちょっと良いかな」

「ぐ、」


その口許がほどけて落ちてしまうんじゃないかと思うくらいにゆるんだのは、ヒューの後からやってきたイアンがヒューの肩を押し退けるように此方へやって来た時のことだった。
イアン、と私が呼べば、イアンは薄い唇を動かして、それから眉を寄せる。器用に左の眉だけ持ち上げた彼はローブのポケットから何かを取り出して、それを睨み付けるように見下ろしていた。小さな、羊皮紙の切れ端だった。
折り畳まれたそれを、イアンは差し出してくる。インクの滲んだそれは、イアンが書いたものではないだろう。彼のインクは今年出たばかりの新作の滲み防止インクで、去年のインクよりもずっと滑らかに羊皮紙を滑るのだ。


「これ、私?私に?」

「……あー、その、スリザリンの……あの、魔法使いが」

「……アルファードから?」


ストロベリーブロンドを揺らして、イアンがまた唇を動かす。そこから漏れるものは何もなくて、彼はそのまま唇を閉じてしまったけれど、きっとアルファードなのだろう。
イアンの肩越しに、背伸びをしたヒュー、それからジャックが私を覗いている。それに肩を揺らしたのはジェインで、アンとリリスは詩集の話に夢中だった。結局のところ、アンは、リリスの読む詩集が嫌いではないらしい。
滲んだ羊皮紙を、開いてみる。私よりも大きくて右の頬をつままれながら書いたような文字が、横に伸びている。たった一言だけのそれはすぐに読み終えてしまって、私はひとつ瞬きを落とし、ローブの内ポケットにしまいこんだ。


「イアン、ありがとう、私、あの、行くわ」

「あ、待って、ラヴィー、その前にひとつ、訊きたいんだけれど……」

「なあに?なあにイアン」


ヒューの藍色が、イアンの左肩から彼の耳をつまらなさそうな色で見つめている。星の流れないそれをぼんやりと眺めながら、私は真っ黒い、形の良い頭を思い出していた。賢くて優しい、彼の頭を。


「……やっぱり、良いや」

「え?いいの?どうしたの?」

「いや、ただ、そんな関係でもないし、ううん、良いんだよ、気にしないで、ごめん」

「……イアン、お前、変……」

「うるさいな、ヒュー。ジャックじゃないんだから止めてよ」

「どういうことだよそれって!?」


首を傾けて、私は立ち上がる。ローブの内ポケットをそろそろと撫でて、裾を払った。
スカートに、皺はない。杖はきちんとポケットの中にいて、そしてラズベリー色に埋もれている。まだふたつだけ残っているアルヴィ先輩のトフィーは、医務室で食べることにしよう。クランベリーのトフィーが私で、そうしてブルーベリーのトフィーは、トムだ。


「ジェイン、あの、私、行くね、アン、リリス、行ってきますっ」

「え、どこへ行くのニナ、」

「良いところよ、とっても良いところっ」


丸い瞳に、言葉を投げる。私の言葉を受け止めても、それを上手く扱うことの出来ないらしいジェインはアンとリリスに向けて首を傾げて、そしてまたふたりの魔女も首を傾げた。
此方を見たヒューに手を振って、飛び出すように巣穴を出る。耳の奥に、きん、と静かな空気が針のように刺さったけれど、私はちっとも気にならなかった。


「トム、なんて言うかしら。怒るかしら。許して、くれるかしら」


言いながら、私はふふ、と笑う。内ポケットにしまいこんだ滲んだ羊皮紙の切れ端は、たった一言、医務室、とだけ書かれていた。


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