「トム、トム、おーい、トム、何してるんだい、大丈夫じゃあなさそうだけれど、訊いてみていい?調子はどうだい?」


うっそりと重い色をしたベルベットのカーテンを引いて、ベッドの中を覗きこむ。昨日からずっとベッドの上で丸まっていた友人、トムは丸一日がとっくに過ぎて二日目の夜になってしまったというのにやはりそこで丸まっていて、身動ぎひとつしない。それでも何度かベッドを降りて、着替えや食事といった最低限のことはしているのだろう。真っ白な、いつもなら皺ひとつないはずの、だけれど今日は特別皺だらけのシーツの上にある手首は、昨日と違う服を着ていた。深いロイヤルブルーのそれすら、皺だらけだったけれど。
サイドテーブルに置いてある銀のゴブレットに入っていたはずの水がない。後でいれてきてやろうと思いながら、俺はそれを手に取りトムのベッドの上に飛び乗る。そのまま彼の布団を剥ぎ取るのはとても難しいが、手に持っていなければそうしようと思っていたことを忘れてしまうのだから仕方がない。


「トム、しっかり。おーい!トム!」

「や、め、」

「起きてるのなら返事はしなくちゃいけないよ。ほら、トム、調子はどうだい?どんな具合?」


うつ伏せに丸まっていたトムが、下から俺を睨み上げてくる。それに怖じ気付いてしまった俺はそろそろとベッドの縁に座り直しながら、誤魔化すように踵を鳴らした。一度きりしか聞いたことのないハッフルパフのリズムはとても下手で、きっと寮には入れてもらえないだろう。


「……あー、トム、本当に、具合はどう?良くないのは分かるけれど、それでもほら、何かあると思うんだよ」

「…………何かって」

「ほら、気分が悪いだとか、今にも吐きそうだとか、頭の中でトロールが暴れまわってるだとかさ、そんな感じで」


もそもそと、トムは寝返りをうつ。そうして仰向けになり正しく枕の上に頭を乗せたところで、その下からするすると黒い何か、キングが出て来て、俺はキングに手を差し出した。けれど彼はそのままベッドをおりて、トムの黒い革張りの、俺のものとは違い傷がつくかどうかを試したことのない、丁寧に扱われたトランクの上に落ち着いた。どちらも真っ黒いせいで、まるでキングがトランクの飾りに見えてしまう。


「最高に気分が悪いよ、ありがとう」

「…………俺のせい?」

「……いや、多分、絶対、自分のせい」

「何したんだい、トム。スリザリンの点数は減ってなかったし、ピーブズに何かされたってわけでもないなら、湖の風に当たりすぎたのかい?そうじゃなきゃゴーストを何回連続で通り抜けられるか試したんだ。そうだろう?」

「……半分君のせいで、頭が痛い」

「ええっ、ごめん!」


謝りながら、俺はベッドからおりて床に這いつくばる。相変わらず飾りのように澄ました顔をして落ち着いているキングにもう一度手を差し出してみれば、彼はわ、と口をあけ、それから息を漏らした。
こつこつと、キングの尾がトランクを叩く。俺は無視されてしまった手を引っ込めて、肩を竦めた。キングが何を言っているかなんて、分かるはずがない。


「……アルファード、キングは何て?小さくて聞こえない」

「聞こえないって?大丈夫、俺にも聞こえてないもの。けれど、トランクの上にいるよ。中に鼠でも入り込んだんじゃあないのかな」


言って、トムのベッドの隣、自分のベッドのカーテンを引いて、そこに座る。ふたつのベッドの間には小さな窓があるけれど、そこに座れるほどの場所はなく、そしてそれがあったところでそこは談笑するには向かないだろう。何せスリザリンの寮は湖の底にあって、小さなそこからは今はすっかり暗くなった湖の底が見えるだけなのだ。天気の良い日はクリンピーやグリンデローが絡まるように泳いでいるのを見られるけれど、見ていて楽しいものではない。ケルピーなら、いくらかは楽しいけれど。
ベッドの足元にあったスリザリンカラーのクッションを枕の上に重ねて、それを背凭れにもたれ掛かる。トムは時おりベッドの下を気にしていたけれど、起き上がろうとはしなかった。
彼の顔は、まるでその白い頬の下に湖の底があるかのように真っ青だった。


「……あ、」

「……なに」

「ああ、ううん、何でも。ただ、ダンブルドア先生が心配していたよって、伝えようと思って。あとはアブラクサスとか、ゴイルとか、その辺も」

「…………そう」


呟くようにそれだけ言って、トムはまた寝返りをうつ。そうしてこちらに背を向けたトムは、疲れてしまったのだろう。それきりゆっくりと上下するだけになった胸や肩は、眠りに落ちたことを教えていた。


「……良いなあトムは」


もう、魔女から好かれているなんて。
ゴブレットを持ち直しながら、頭の上、ベッドの天蓋よりも下のあたりで、ぼんやりと思い浮かべる。ゆるいシニヨンのよく似合う魔女は、甘い匂いがした。
魔女ってみんな、そういうものなのだろうか。ベッドに寝転がり、こつこつとゴブレットをつつく。トムの穏やかな寝息を聞きながら、俺は酷く意地の悪い姉さんのまとわりつくような甲高い笑い声を思い出し、体を震わせた。





「……お前ら、なんか、似てきたな」


ニコラス先輩がビスケットを割りながらそう呟いたのは、10月の3日、ミネルバの誕生日の前の日のことだった。
薬草学のレポートを書きながら、私は何度も何度も顔を覆い隠し、考える。私が宥めたマンドラゴラはとても素直な大人しい子で、斜め後ろで何度も泣き叫ばれていたイアンよりもレポートをまとめるのはずっと楽な方だ。
斜め後ろにしゃがみこんでいたイアンとジャックの間に座っていたマンドラゴラの泣き叫ぶ声が、耳元でわんと響いている気がする。耳当て越しでも聞こえてきた泣き声にジャックは倒れてしまったけれど、特に心配はないだろう。温室の隅で寝かされていた彼は授業が終わるなりすぐに目を覚まし、レポートを書かずに済んだと笑っていたのだから。
きっとあの子達にも、好き嫌いが沢山あるのだろう。好きな撫でられ方や、鼻唄や、そういったものがあるのだ。考えながら、私は羽根ペンを握り、インク瓶の蓋を開け、そして羊皮紙を見つめる。イアンよりは、ずっと楽に纏められるはずなのだ。私とサミュエルのもとへ逃げてきていたヒューが諦めたように、泣き叫ぶマンドラゴラを宥めてもらうまで頭を抱えていたイアンよりは、ずっと、ずっと簡単なはずなのに。
簡単なはずなのに、リボンがちらついて、集中出来ないのだ。


「……あんな魔法使い、いいか、あんな魔法使いは、ただの噛みつき妖精だ、ドクシーだ……」

「……誕生日の贈り物、何も、あげられない……」


ちらちらと、赤いリボンが視界の端で揺れている。ぱしんと手のひらで顔を覆い隠してもそれはどこからともなく表れて、私を見つめるのだ。赤いそれは、ミネルバに贈る筈の何かを結ぶにはぴったり上出来のリボンだった。
談話室の端の丸テーブルに突っ伏して、まだほんの三行、マンドラゴラの喜んだ角ナメクジの粉末を混ぜた土のことだけが書かれた羊皮紙に額を乗せる。直ぐ隣でグローブを枕に突っ伏していたアンドリュー先輩は何かを繰り返し呟いていたけれど、暖炉の前、床に座り込んでチェスをするヒュー達の声に隠れて殆ど何も聞こえなかった。


「どうしたニナ、誕生日が何だって?もうすぐなのか?」

「あの、ミネルバの誕生日が、明日なんです……」

「ミネルバ、ミネルバ……ああ、よく見るあの魔女。ほらニナ」

「あ、ありがとうございます」


ふたつに割ったビスケットのひとつを差し出され、私は起き上がる。こんな風に何か分けてあげることが出来れば良いのだけれど、私はミネルバに分けてあげられるものなんてひとつだって、半分の半分だって持っていないし、もしも出来るのならば、私が彼女の賢さや綺麗な指先や、そういった、真っ直ぐ筋の通ったものたちを分けてもらいたいくらいだ。私がミネルバに与えられるものなんて、ないのかもしれない。
テーブルの下で、脚をばたつかせる。唸りながらかじったビスケットは不思議な香りがして、私はすんと鼻を鳴らした。


「どうだ、美味いだろ。アッシュワインダーの卵で出来てるらしいから、風邪にも効く」

「アッシュワインダー?アッシュワインダー、ですか?」

「ああ、二年だとまだ習ってないな。まあそのうち習うだろ、今はとりあえず食えよ」


しゃくりと音を立て、ニコラス先輩はビスケットを口に放り込む。アンドリュー先輩の向こう側に座る彼の肘はアンドリュー先輩の背中に刺さるように置かれているけれど、痛くはないのだろうか。
今度ミネルバにどんなものなのか訊いてみようか。もしかすると、サイクス先生なら知っているかもしれない。大西洋を渡った彼女なら、何だって頭に詰め込んでいて、そしてその目に焼き付けている気がする。
そんなことを考えながら、もうちっとも進みそうにないレポートをくるりと巻いて、羽根ペンと一緒にテーブルの隅に追いやる。ハシバミの羽根ペンが一瞬きらりと光って不満そうな顔をしたように見えたけれど、私はそれに気付かないふりをしてまたテーブルに突っ伏した。


「……ニコラス先輩、ニコラス先輩なら、何を貰うと嬉しいですか?」

「甘いもの」

「……んん、じゃあ、じゃあアンドリュー先輩は?先輩なら、何が良いですか?」

「シーカー」

「ニナ、こいつのことは視界に入れるな。気にしなくて良いから、な」


くすんだ赤毛の下で、グレーの瞳がまた何かを繰り返し呟いている。ぱ、と間に入り込んできたニコラス先輩の後ろにそれは隠されてしまったけれど、確かに不満そうな色がニコラス先輩の背中から覗いていて、私は椅子から立ち上がり、そうっと爪先で立った。
グローブを枕に突っ伏した彼、アンドリュー先輩が、湿った溜息を吐いている。けれど、背中に手を伸ばそうとした私にニコラス先輩はまた間に入り込み、そしてそのまま、まるで私の手は初めからそうしたかったかのようにするりとニコラス先輩の手に掬い上げられてしまった。


「え、え、」

「下がれ、ほら、駄目だ駄目だ、教育に悪い。妖精は妖精、こんな川トロールみたいな奴に関わるな」

「え、でも、アンドリュー先輩は、アンドリュー先輩です」

「アンディは今ただの役立たずの湿った赤毛だ。ニナのアンディは旅に出たんだよ」

「……いつ、帰ってくるんですか?」

「早くて、………………一週間、か?」


ニコラス先輩の爪先が私の爪先をつついて、下手なダンスのように手をとられたままアンドリュー先輩から遠ざけるように追いやられてしまう。巣穴の真ん真ん中、誰かが部屋から持ってきたまま談話室の住人になってしまったオリーブのクッションが踵に当たり、ニコラス先輩は漸く立ち止まり、腰を折った。


「いいかニナ、暫くアンディのことは放っておけ。じゃなきゃ、あいつは夜お前を部屋に連れ込んで抱き枕にするに決まってる」


私によく似たダークブラウンの瞳が、確かめるように覗きこんでくる。私の瞳も、間近で見つめればこんな色をしているのだろうか。今にも匂い立ちそうな、ホットチョコレートやチョコレートケーキのような瞳にひとつ頷けば、ニコラス先輩もひとつ頷いた。ごつん、と、額がぶつかってしまう。


「おあ、悪い、痛かったな。大丈夫か」

「だ、大丈夫です、でも、痛い……」

「素直だな……どこが痛い。ここか」


がちゃん、と、ヒューのナイトがイアンのビショップを叩き割る音を聞きながら、私はニコラス先輩に額を撫でられる。彼のセーターの袖には先ほど割ったビスケットの欠片がくっついていたけれど、それを取ろうとするよりも先にニコラス先輩の手は引っ込んでしまった。
溜息とは違う、けれど疲れたような細い息を吐き、ニコラス先輩は伸びをする。そのまま、わ、と狼のような大きな口で欠伸をした彼のセーターの袖には、やっぱりビスケットの欠片がくっついていた。


「ああ、そうだ、ニナ、良いこと教えてやる」

「え?」

「さっき言ってただろ。誕生日だとか何とか」

「あ、言った、言いましたっ」


がちゃん、と、今度はイアンのルークがヒューのナイトを叩き割る。ジャックが思わず目を閉じたのを横目に私は頷いて、ニコラス先輩を見上げた。


「談話室を出て直ぐ、廊下に、果物の絵が飾ってるの、知ってるか」

「……ええと、あ、はい、知ってます」

「あれをな、擽れ。梨が良い」

「はい、擽る……擽るんですか?」


首を傾けて、繰り返す。ニコラス先輩のダークブラウンが、きゅっと細められ、右の口端だけが器用に上がる。何かを企んでいそうなその顔を、私は初めて見た。


「ニナ、俺は甘いものなら何でも好きだ。特に、可愛い妖精から貰えるなら、何でも」


ちゃんと言ったからな。
に、と歯を覗かせて、ニコラス先輩は私の頭を叩くように撫でた。ぽろりとビスケットの欠片が落っこちて、オリーブのクッションがそれを受け止める。私はまた首を傾けて、今度はヒューのビショップがイアンのルークを叩き割る音をぼんやりと聞いていた。ジャックはやはり、また目を閉じていた。


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -