「あ、ラヴィー、もう平気なの?」

「うん、平気、あの、ありがとう、平気よっ」


トランクの底、お気に入りのスカートや錫の鍋底の下敷きになっていたセーターは、何故だか甘い匂いがする。もしかするとトランクの何処かにチョコレートやラズベリー色が潜んでいて、匂いだけがこっそりぶら下がってついて来たのかもしれない。
そんなセーターの裾を下ろしながら大広間まで駆けていれば、丁度開け放されたそこから出てきたイアンがレースのハンカチを広げるような優しい声で笑いかけてくれて、思わず立ち止まる。彼の後ろを歩いていたジャックは何も言わなかったけれど、当たり前だろう。彼は大きな口いっぱいにローストビーフのサンドウィッチをほうばっていて、手を振ることしか出来なかったのだ。
先に抜け出してはきたけれど、ジェイン達三つ子の森梟の談話室での食事で同じものを食べた私は、思わず口の端を親指でなぞる。夏に食べたカフェ・フォーテスキューの萎びたそれよりも、ホグワーツのそれの方がずっと美味しかった。


「それは良かった。ヒューも心配してたよ。午後の授業は出られるの……あれ、その髪どうしたの?」

「あ、これ、これね、リリスがしてくれたの。彼女、とっても器用なのよ。……似合わない?」

「リリスって、……ああ、あのブロンドの魔女。ううん、全く、全然そんなことない。似合うよ。勿論普段の髪型も好きだけれどね、ラヴィーらしくて。ただ、珍しいなって思って」


少し弾む息を飲み込んで、私は頭に触れてみる。ミネルバよりも緩いシニヨンはリリスとお揃いらしく、私のダークブラウンでは彼女のブロンドには到底敵うはずもないけれど、それでもとても素敵な髪型だと思っていた。
ぐっと親指を立ててくれたジャックに私は嬉しくなって、頬をゆるめる。


「ありがとう、ふたりとも、嬉しい。とっても嬉しいわ。あの、じゃあ、私行くね、行かなきゃ」

「思ったことを言っただけだよ。引き留めたりしてごめんね、それじゃあまた授業で」

「うん、ええ、また」


ひらりとローブを翻し、イアンはゆったりと流れるような足取りで去って行く。ちらりと振り返った彼は小さく笑って手を振ってくれて、私はそれに手を振り返しながらローブを抱え直した。
午後の授業に、唯一グリフィンドールと合同の変身術の授業はない。ミネルバに早く会って、何も心配はいらないのだと伝えたかった私は、ローブも首もとのカナリアイエローも身に纏う間もなく食事を終えて飛び出してきたのだ。私は今朝から、うんと悪い夢を見て寝込んでいることになっていたらしい。教室に私がいないことに気付いたビンズ先生に、ジェインは咄嗟に叫ぶようにそう言ってしまったのだ。きっと、同じ教室でその叫びを聞いていたヒューかサミュエルか、どちらかはそれをミネルバに伝えてしまっているだろう。


「ミネルバ、ミネルバ、ミネルバっ、いた、いたいたっ」


ローブとカナリアイエローを抱えて、大広間へと駆け込む。グリフィンドールの長テーブル、一番奥、サンドウィッチからチーズを引き抜いたダンブルドア先生の座る職員テーブルのすぐ目の前の席、ぴんと伸びた背中はそこにあって、私は大慌てで脚を動かす。そんな私の足音に気付いたのだろう、きっちりと隙間のないシニヨンが振り返って、綺麗な瞳をまん丸くさせた。


「ミネルバっ!」

「ニナ、あなた!魘されてたんですって?酷い夢を見たって!ガーランドとメイフィールドから聞いたわよ、どうしたって言うの!?」

「ああ、あのね、違うの、違うのよ、私、違うってことを言いに来たのよ」

「それってどういうことなの?魘されてはいなかったってこと?」

「あ、ニナっ!もう大丈夫なのっ?」

「あ!ニナいた!何してるんだよお前、医務室行けよ!」


抱えていたそれを、ミネルバの隣に下ろす。レイブンクローの長テーブルからサミュエルが、丁度大広間に来たらしいヒューがそれぞれ駆けてくる。私はそれにひとつひとつ頷いて、ふう、とシャツの一番上の釦を外しながら、手で顔を扇ぐ。走ったせいだろう、顔が少しだけ、熱かった。


「あの、平気なの、私、本当に平気だわ。ごめんなさい心配かけて。私、それが言いたくて……」


手を止めて、ぽつりとこぼすように話す。ずっと寝ていただけだと、言うべきだろうか。けれど、それを話せばベッドに倒れこむように飛び込んだその前の前の出来事まで、トムとのやり取りを天辺から爪先まで全て丸めて話してしまわなくてはならない気がして、私はただ、平気なのだとしか言えなかった。
色の違う三組の瞳が、じ、と私を見つめてくる。正面にミネルバ、テーブルの向こう側にサミュエル、真横にヒュー。私はとても居心地が悪くて、思わず視線を泳がせた。


「あ、」


ばしゃんと、溺れるように、スリザリンのテーブルに泳がせた。
真っ黒くて丸い小さな頭が、座っている。トムと同じような髪と瞳を持った、魔法使いが。けれどその隣にトムはいなくて、私は瞬きの隙間に揺れる波が足元を飲み込みそうになる感覚がした。怒ってなんかいない。だけれど、私から謝りはしない。それでもやはり、心配はしてしまう。
彼の顔は、ドラゴンが火を噴く前も、間も、その後も、酷く青白かったから。


「……あの、あのね、ごめんなさい、ちょっと、ほんの少し、私、行ってくるから!」

「え、ちょっと!ニナ!」

「うおっ」


無理矢理言葉を放って、私はヒューを避けて早足で歩く。ミネルバが私の名を呼んだけれど、応えることなくスリザリンのテーブルへと向かった。
殆ど駆けていたそれに気付きこちらを向いたのは、スリザリンのテーブルの隅、開け放された扉に近い席に座っていたアイスブルーだった。けれど、そんな彼の斜め前に座る真っ黒くて丸い小さな頭、スリザリンの一年生の魔法使いのそばに立つ。
彼の名は、確か、アルファードだ。トムは彼を、アルファードと呼んでいた。


「ねえ、」

「ん?……んん?誰だい?君」

「あの、ええと、ううん、あの、訊きたいことがあるんだけれど、良い……?」

「別に良いよ、勿論、俺に答えられることにしてくれるならね」

「大丈夫だわ、きっと大丈夫だと思う」


アイスブルーが、マルフォイが私を睨み付けている。そう言えば私は彼に、何かした気がする。覆い隠してしまうように霧のかかった、頭の奥に引っ掛かって引っ張り出すことも出来ない何かに首を傾けながら私はそうっと腰を折り、アルファードの耳元にそっと顔を寄せた。考えたところで霧は晴れないだろうし、晴れたところで私はマルフォイにどうすることも出来ない。


「あのね、」

「うん、何だい?」


彼はきっと、アルヴィ先輩のようなスリザリン生なのだろう。カナリアイエローを首もとに座らせてはいない、それでも彼と同じスリザリンではないとは分かるだろう私に、彼はちっとも嫌な顔をしない。秘密の妖精の話に口許を緩ませて、はやく言って、と囁くように体を傾けてくれた彼は、良い魔法使いだ。
彼がトムといてくれて、トムが彼といてくれて良かったと、私は今更そんなことを思った。


「トム、どうしてる?」


真っ黒い瞳が、瞬きをみっつ、それから私を見て、丸くなる。不思議そうに私を見つめた彼は声を出さずに唇を動かして、トムってあのトム?と訊ねてくる。私は何も言わず、黙っていた。
ううん、と、唸るような声を出して、それから彼は顔を寄せてくる。今度は私がそんな彼に耳を寄せる番だった。


「昨日からずっと、ベッドで丸くなってる。多分、俺はね、ピーブズに何かされたんだと思うな。それか、すっごく大変な減点をくらったんだ」

「……体調、悪そう?」

「ううーん、どうかな。でも、間違っても良好とは言えないと思うよ。さっきもサンドウィッチを持っていったけれど、ほんの少ししか食べなかったし。美味しいのにね、サンドウィッチ」

「ローストビーフの?ローストビーフのサンドウィッチ?」

「あ、君も食べたのかい?あれ、美味しいよね」


こっくりと頷いて、ふふ、と笑う。喉の奥、お腹の底で燃えていたものは煙をもくもくと吐き出して、私の目を覆っていたらしかった。今はそこに、何もない。だから私は、彼のことがよく見える。
すっかり辺りを見渡せるようになった私の視界に映る彼は、首もとの緑がよく似合う素敵な魔法使いだった。やはり彼で良かったと、私はまた思った。
アイスブルーが、音もなく立ち上がる。それを追いかけるようにアルファードは立ち上がり、最後に私の耳に弾むような秘密の妖精の話を吹きかけた。


「君って、トムが好きなのかい?だからトムがいないことを心配したんだ。そうでしょう?」


私を睨むアイスブルーが、視界の端に立っている。苛ついた彼から隠れるように私はアルファードの肩に手を乗せながら顔を寄せて、それから、天井を見上げた。
一羽の梟が、すう、と滑るように飛んでいく。それはグリフィンドールのテーブルを通り越し、ダンブルドア先生前に落っこちるように着地して、銀のまざる髭に飛び込んだ。


「ええ、とってもね。とっても、好きよ」


アルファードが目を丸くして、私を見つめている。驚いたように振り返った彼の鼻先が私の鼻先に触れそうになって、私は一歩下がった。
トムよりもやわらかな真っ黒い瞳が、とろけたように笑う。形の良い鼻筋に私は今になって気付き、それから形の良い耳も今更見付けてしまった。踝まで届きそうなローブの丈が短くなって、マダムのお店に丈を直しにいく頃、妖精はきっと魔女達に噂話を囁くのだろう。彼はとても、綺麗な顔をしていた。
それでも私は、トムが一番、綺麗だと知っている。いつだってトムが一番優しくて、特別に素敵なのだ。


「そう、応援するよ。俺、君みたいな魔女って好きだもの」


アルファード、と、マルフォイが呼ぶ。最後まで唇の先で囁くように話していた私達が交わした言葉を、マルフォイが知ることはないだろう。私は決して誰にも言わないし、そしてアルファードもまた、言わないはずだ。
だって、分かるのだ。燻るような煙を全て吹き飛ばしてしまった私の目に映る彼は、とても素敵な、良い魔法使いで、それから彼は何故だか、私によく似ている気がした。こういう時、言うのだろうか。それは魔女の直感だと。
覗きこめば此方を見つめ返してきそうな真っ黒い瞳が、ゆっくりと瞬きをする。重ねるように瞼を下ろせば彼は笑って、ひらりと手を振った。


「じゃあね、また」

「ええ、またね、また」


ちらり。アイスブルーの瞳を見る。彼は天辺から爪先まで苛ついていて、やっぱり私を睨んでいたけれど、私はほんの少し奥歯を噛み締めてしまうだけで、何てことはない。
まるでシルクで出来た薄いマントのように、マルフォイは器用にローブを翻して去って行く。それを追いかけるアルファードのローブはばたばたと騒がしかったけれど、ちっとも変ではなかった。


「ニナ!何をしてたの!?突然スリザリンのテーブルになんて行くんだもの、心配したじゃない!」


ふわふわと、浮かぶような足取りで、ミネルバ達のもとに戻る。私を迎えてくれたのはミネルバの尖った大きな声で、私は思わず肩を竦めながら彼女の隣に座った。
私がいない間に、誰かが畳んでくれたのだろう。四角く折り畳まれたローブとその上に丸められていたカナリアイエローを膝に乗せ、スカートのしわを伸ばす。シャツの釦をきちんと上までとめれば何故だか息がしやすくて、不思議だった。


「ふふ、ごめん、ごめんなさい。でもね、平気なの。心配しないでね」

「……何をしてたっていうの?私、あの子、知ってるわ。ブラックの、どちらかの弟よ。どっちだか知らないけれど」

「アルファードって言うのよ、ミネルバ」

「ええ、そうらしいわね。でもそんなことは良いの、エリックだろうとマーフィーだろうと、私には関係のないことだわ。ただ、関係があるのはあなたなのよ、あなたのことだけなの」


ああもう、と、まるで大寝坊して朝の会議に間に合わないと騒ぐ父さんを見つめる母さんのような声を出し、ミネルバは私の肩を抱き寄せる。すっかり私にくっ付くことが当たり前になっていることに、彼女は気付いているのだろうか。空いた手で私の手をつかまえたミネルバの眉間には深い深い谷があったけれど、それでも彼女は、不機嫌ではなかった。私の手をつかまえた彼女の手は、梟の雛を撫でるように優しい。


「……魔女って、あんなもん?」

「…………そうじゃないかな?大体は」


向かいに座って待っていたふたりは、困ったように視線を横に滑らせる。私はそれに気付いていたけれど、黙ってミネルバの手を握り返す。魔法使いの彼らは私達魔女を生態の分からない魔法生物かのような目で見るけれど、私達魔女はたったひとつきりの大きな喧嘩を挟めば仲良くなってしまう魔法使いこそ、不思議でしかないのに。
額に寄せられたミネルバの頬を、ちらりと見上げる。やはりよく見えるようになった私の目にはカボチャジュースのことだとか、明日には夕食にならび始めるだろう魔女鍋のように黒いチョコレートケーキのことが見えていて、それから、その先にある箒の端っこや、素敵なリボンのことを考えた。
そうだ、ハロウィンもある。クィディッチだってある。そうして、彼女の、ミネルバ達の誕生日も、祝わなければ。
そこまで考えて、私はふと、思い出した。
そういえば私は、ミネルバ達の誕生日を知らない。


「ねえ、ねえ、誕生日は、みんなって、いつが誕生日なの?」

「え?随分と突然だね、ニナ」

「だって、今思い出したんだもの。それで?ねえ、サミュエルは?サミュエルはいつ?」

「僕はまだまだ先だよ。春だもの」

「俺も。6月頃だからずっと先だな」

「6月頃?6月頃って、6月の、いつ?」

「6月頃は6月頃だ、そのまんま、5月でも7月でもないってことだよ。だって、叔父さんが覚えてなかったから、いつも大体6月の真ん中で祝ってる」

「えっ、ええっ、そういうものなの?そうなの?」

「ヒュー、一応訊くけれど、それってつまり冗談だよね?」

「あー、大体は真ん中、たまに終わり頃になるけどな」


サミュエルが、目眩を覚えたように額を押さえる。魔法界でも当たり前でないことを当たり前のように言うヒューは、やはり当たり前のような顔をしてフードをすっぽりと深く被っていて、つまらなさそうに頬杖をついた。彼の中ではきっと、誕生日というものは妖精の魔法のようなものなのだ。彼がダークグレーの星を流すのは、決まって防衛術の授業だけだった。
黙ったままのミネルバの手を、ぶらりと揺らす。は、と顔を上げた彼女はヒューの話を聞いていなかったのかもしれない。
彼女はいつも正直で、私に嘘を吐くことはない。一度だって、なかった。だからだろう、私は今になって、ミネルバは嘘が上手ではないらしいということを知った。膝から私に視線を泳がせた彼女の口許が、ふるふると震えていた。


「ミネルバ?」

「あ、あの、ええと、私……」

「うん、うん」

「……あの、実は、私の誕生日って、」


ミネルバの正直な唇が、ぽつりぽつりと、私にだけ拾える小さな言葉を溢す。慌てて耳を寄せた私は思わず顔を覆って、俯くことしか出来なかった。


「あの、来週なの。10月の4日……火曜日よ……」


八日後だなんて、私に、何が出来るのだろう。
ホグズミードにも行けず、梟通販はきっとカタログを取り寄せて終わってしまい、何も出来そうにない私はただただ顔を覆うことしか出来なかったのだ。


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -