ほんの少しはちみつを垂らしたミルクを飲み終えた私の胸は、アブラクサス・マルフォイの朝の習慣のせいでとても重苦しい色のインクがぐるぐると渦巻いていた。


「やあ変な顔のミス劣等生」

「………………」

「朝から僕を無視するなんて、流石ハッフルパフ。賢明じゃないね」


呆れたようなため息を吐きながら内心嘲り笑っていることをこの一週間で嫌と言うほど学んだ私はそのまま彼の言葉を聞き流して、手にしていたマグをテーブルに置く。底に残る溶けきらなかったはちみつを父さんが見つけると父さんは何も言わず温かいミルクをまたそそいでスプーンでそのはちみつを溶かしてくれたけれど、今はそれを自分でしなくてはならないし、そもそもする気にもならない。きっと、くすくす妖精が私の首にしがみついているのだ。思わず、首元をゆっくりと撫でた。


「朝のミルクは美味しいかい?ミス劣等生」

「………………」

「……無視は賢明じゃないと言わなかったか?」


ニナ!
低い声が私の名を呼んで、驚いた私がそちらを振り返ると同時に、熱い液体が私の胸元に降りかかる。テーブルに置いていたはずのカップにはいつの間にか魔法でミルクが満たされていたらしく、そしてそれはいつの間にかマルフォイの手にあったらしい。
頭からかけなかったのは彼の優しさか、私の胸から膝元まで、じんじんと熱く、ひりひりと痛かった。そんなものを、優しさと呼ぶのかどうか分からないけれど。


「スリザリン!特にお前!マルフォイ!いい加減にしろよ!」

「ああ、大変、足が真っ赤…。医務室へすぐに連れて行ってあげるからね、ね」

「タイラー、早く医務室に連れてけ!早くしろ!」

「わ、分かってるわよ!さ、立って」


どうやら私の名を呼んだのは、同じハッフルパフの上級生らしかった。マルフォイの行動に驚いて足を止めた生徒達をかき分けて、真っ直ぐにこちらへと向かってくる赤毛の魔法使いには見覚えがある。彼は私がハッフルパフと決まるなり真っ先に握手をしてくれた魔法使いだった。近くの席に座っていたレイブンクローの魔女が、慌てたようにローブのポケットに手を入れてハンカチを取り出し、それをしまって杖を取り出し、かと思えばまたハンカチを取り出す。早く連れていけと急かされてようやく私の手をとった魔女の胸には、監督生のバッチが光っていた。


「マルフォイ!いい加減にしろよ!一年生だからっていつまでも甘くみてもらえると思ったら大間違いだ!」

「ちょっとふざけてからかっただけです。そんなに熱くもありません。それに、本当に嫌なら言い返しますよ」


教員席から先生達が駆け寄ってくるのをぼんやりと眺めながら、彼らの言い合いを一目見ようと集まってきた生徒達をよけて医務室へと引っ張られる。先を行くレイブンクローの彼女の手はぶるぶると震えていて、何故だかそれが不思議で仕方なかった。
けれど、どうしよう。手をつかまれているせいで、うまく出来ない。


「それに、魔法が使えないスクイブのくせにホグワーツにいるあいつの方が悪いんじゃないですか?」


くすくす妖精が、ローブの端にまとわりついているのに、これでは上手く、払えない。
ミルクで濡れたローブの端を、私は左手でぎこちなく払う。ちりちりとした胸の痛みもじんじんと疼く足の痛みも全部落ちてくれれば良いのにと思いながら、私はスカートにべたりとついた溶けきらなかったらしいはちみつを見下ろした。






「ミネルバ、ちと、良いかな」


スリザリンと合同で行われた飛行訓練で、マルフォイが妙に機嫌が良かったことが癪にさわっていた私は、ダンブルドア先生の呼びかけに返事をすることが出来なかった。口を開けば彼への不満が飛び出してしまいそうで、口に鍵をかける呪文があれば覚えたいくらいだ。そんなことを覚える前に、彼や彼の周り取り巻く生徒の人を馬鹿にしたような笑いをかき消す呪文を覚えたいところでもあるが、わたしはどうにかその感情を一心不乱に飛行術の練習に向けることで鎮めることに成功したのだった。口を開いても不満が飛び出さなくなる程には発散出来なかったが。


「おお、ご機嫌麗しくないようじゃ。これから変身術だというのに」

「……嫌な生徒がいたんです」

「おお、珍しい。ミネルバがそんなことを言うとはの」


まだ数回しか授業で会っていないというのに、この人は何故私のすべてを知っているかのような口振りで話すのだろうか。すべてを知られたつもりなんて微塵もない私にとってその言葉は少しばかり不満で、思わず眉間にしわを寄せてしまった。寄せてしまってからやってしまったと後悔したが、彼はそんな私を気にしていないらしい。小さく笑って、ところで、と話を切り替えた。それがまた、不満だった。


「今朝の約束を、覚えておるか?」

「……窓際から二番目、前から三番目の席にあなたの代わりに座ること」

「そうじゃ。そのことなんじゃがな、あれはなかったことにして欲しい」

「…………は?」


この人は一体、何を言い出すのだろうか。
一瞬のうちにハッフルパフの彼女が私の脳内を駆け抜けていき、私は目を見開いてダンブルドア先生を見つめる。まるでその瞳の中に童心を閉じこめたかのようにきらきらと光る彼の目がとても残酷なものに思えて、私はわきに抱えていた変身術の教科書を思わず落としそうになる。それに気付いていち早く私の腕ごと教科書を支えてくれたダンブルドア先生によって、事なきを得たが。


「先生が仰ったことなのに、先生はそれを取り消すんですか」

「すまんのうミネルバ。じゃが、あそこはもう幸運の席ではなくなってしもうての。変わったのじゃ」

「……どういうことですか?」


おほん、とダンブルドア先生が咳払いをして、とんとんと私の教科書を指で叩く。その行動の意図が読めず真っ直ぐ彼を見つめていれば、彼はまた小さく笑って私を見た。
私よりも随分と背の高い彼は一度背筋を伸ばし、ぽんぽん、と自分のローブをまるで確かめるかのように叩く。そして適当に継ぎ足されたかのようなちぐはぐなローブのポケットにゆっくりと手を入れて、彼は頷いた。


「うむ、これが良い。そうじゃ。これが良い」


そういって、彼はローブから手を出し何かを握り締めているらしいその拳を私に差し出してくる。思わず再び眉を寄せて彼を見上げれば、彼はまたも小さく笑ってずいと拳を寄せてきた。
相も変わらず意図が読めないまま、私は渋々彼の手の下に自分の手を差し出す。こんなにもわけが分からなくなったのは、初めて母から杖を借りた時、何もしないうちに私の部屋の本棚が暴れ出した時くらいである。ダンブルドア先生は、暴れる本棚くらいわけの分からない先生だった。
よりによって彼の手から落ちてきたものが、ただのキャンディーなのだから。


「……何ですか、これ」

「マグルの世界にも美味しいキャンディーがあっての。それは中でも気に入っているものじゃ」

「知ってます、私もよく食べてましたから。そうじゃなくて、一体何故これを私に、」


黄色い包み紙をくしゃりと握りつぶして、私は彼にぐいと顔を寄せる。早くあなたの全く読めないその意図を私にわかりやすく教えてくれ、と目線で訴えれば、漸く彼はその気になったのだろう。
長い髭を撫でつけながら、ダンブルドア先生は私を見下ろす。その髭をまとめるリボンは昨日から一色増えていて、赤と黄色が彼の灰と白と鳶の髭を縛り付けていた。私には、彼が何故その色のリボンを選んだのかすらわからないのだ。ましてや、彼がどうして昨日ハッフルパフの彼女が持っていたキャンディーを私に渡すのかなんて、分かるはずがないのだ。


「これを持って、医務室へ行きなさい」

「……私より、ダンブルア先生が行った方が良いんじゃないですか?」

「今日のミネルバの口は厳しいのう」


まるで庭小人がいつも意地悪をしてくる子供が転んだ姿を見るかのように、ダンブルドア先生は嬉しそうに、愉快そうに目を細めて私の顔をのぞき込んでくる。もっとも、ここで言う所謂マグルばかりに囲まれて育った私は、このホグワーツの図書室で知るまで、庭小人の存在も知らず、見たことだってないのだけれど。
同寮であり同級生であり、そして同室でもある女子達に怖い顔と言われるほどの私である。きっとのぞき込んだところで何も面白い発見はないであろうに、それでも彼は未だ、私の顔をしみじみとのぞき込んでいる。レモンキャンディーを握り締める私の手を、ゆるく解きながら。


「授業に一度くらい出んでも、何も悪いことはありはしない、ミネルバ」


私より大きな骨ばった指先が、レモンキャンディーをつついて、それから私の眉間に触れる。まるで本の皺をのばすように不躾に撫でつけられてとても嫌な気持ちになったが、それでも私は大人しく彼の言葉を聞いていた。
もう少しで、意図が分かるのだ。彼が私にレモンキャンディーを渡した意図が。彼が幸運の席に座らせず、私を医務室へと行かせたがるその意図が。


「たった一度の授業の板書を失うよりも、気になる生徒と繋がれる機会を失う方が、より大きな損失ではないかの?」


思うに、気になる、ということに、意味がある。
眉間を撫でつけ終えた彼が、私の手のひらの上のレモンキャンディーを転がしたので、私はそれが手のひらからこぼれ落ちぬよう握り締める。途端に楽しそうに喉をならしてくつくつと笑うものだから、私は彼に全てを知られているような気がしてならなかった。
一週間やそこらで、私の全てを彼が知っているなんてありえないのに。ましてや、私がそんなことを望んでいるなんて。私はそんなこと、望んじゃいない。私はただ、つまらないことを言う人間に仕返しなんかする暇があるなら、飛行術の練習をしていた方がよっぽど良いと、それだけのことを。


「……ダンブルドア先生、私、彼女はスクイブなんかじゃないと思います」

「ふむ?」

「彼女はきっと、周りに畏縮して上手く魔力を扱えないだけです。だって、そうじゃなきゃホグワーツにはこれない。杖にだって選ばれない。そうですよね?」


早口でそう言って、私はダンブルドア先生に教科書を押しつける。まるでそうされることが分かっていたかのように驚くことなくそれを受け取った彼は、はて、と首を傾げて天井を見上げた。つられて見上げたそこには小さな蜘蛛がへばりついていた。


「はて、スクイブ?誰のことかな?そんな生徒、知らんのう」


その言葉が全てだ。彼女はスクイブなんかじゃない。劣等生かどうかは成績がでるまで分かりはしないが、それでも彼女はスリザリンに馬鹿にされるいわれはないのだ。


「おお、ミネルバ、授業内容はいつでも訊きに来なさい」


君になら特別、教科書の隅まで教えよう、という彼の言葉を待たずして、私は彼に背を向けて歩き出す。行き先は勿論、一度として未だ足を踏み入れていない医務室であった。
何がどうして彼女がそこにいるのか私は知らないが、私が彼女に言わなくてはならない言葉は知っている。


「私、ミネルバ・マクゴナガル、私の名前は、ミネルバ、そう、ちゃんと、言うの、私の名前は、」


ぶつぶつと繰り返して、ローブのポケットにレモンキャンディーを無造作に突っ込んだ。こんな姿を母に見られたらと思うと背筋が凍るが、それでも私は、それを繰り返さずにはいられなかった。
あんなに静かで穏やかな授業、彼女が隣に座らなければ私は知らなかった。




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