「ロバート、あなた、それってまさか私の手紙じゃないかしら?」


夏の牧師というものは、どんなに小さな村の寂れた教会であろうと忙しいものなのだと父さんは言う。曇り空の多いこの国で、唯一外に一日中洗濯物を忘れていても許されるのが夏で、そしてそんな夏に誰もが式を挙げたくなるものらしい。朝から二組のマグルの恋人達に祈りを捧げに行った父さんが帰ってくる頃には、二組の恋人達は夫婦となり、若い芝の庭で踊り明かすことだろう。テーブルに並ぶサマープティングをニナに手渡す自分を考えながら、私は陽が傾くまで帰ってこない父さんのシャツを膝の上で畳んだ。私は勿論、夏だろうと洗濯物を一日中外に干し忘れたままになんてしないのだ。
しかし、つい、手紙を取り忘れてしまうことはある。何せマグルの郵便物は郵便受けに入るけれど、それ以外、例えばロバートが仲良くなった森梟からの鼠だとか、母さんの古い友人や私の友人からの手紙は、ぽつん、といつの間にか玄関のドアの隙間に挟まっているのだから。


「これ?これね、さっきドアに挟まってた」

「ええ、そう。私ってば気付かなかったのね。それで、その手紙は……」


父さんのシャツを避けて、私はロバートの足下に落ちる封筒らしきものを見る。丁寧にも細かく破られたそれに、見覚えがあった。確か、休みに入って真っ先に手紙を送った彼女からの返事が、あの、細かく破られたそれと、同じような色だったはずだ。
ロバートの手が、便箋を広げる。彼はもうすっかり文字も読めるし、そして、父さん曰く育ち盛りだった。文字を読める彼は、大きな瞳に飲み込んだ言葉をどんどん頭に書き写してしまうのだ。
それが、ニナからの手紙の内容でも。


「ニナって書いてるよ!あのね、トムがね、酷いんだって!」

「まあ!何てことっ!」


便箋を振り上げたロバートの細い手首を慌てて掴み、彼女、ニナからの手紙を奪い取る。ああ!と小さな弟は背伸びをして私から手紙を奪い返そうとしたけれど、魔女の中でもずっと身長が伸び始めるのが早かった私が相手では敵うこともない。
ロバートの額を片手で押さえながら、丸く歪んだ彼女の文字を追いかける。休みに入って、授業を受けることがなくなったからだろう。試験で上から五番目にいたとは、優し過ぎる父さんでも頷くことの出来ないその文字は、いつもの気の抜ける言葉遣いでどれほど緊迫している状態なのかを訴えていた。


「……煙突飛行が、もっと早く普及したならね」


アンドリュー先輩と出掛けたっきり、トムが、一緒に寝てくれません。
その言葉に全てが丸きり込められていることを、彼女はきっと気付かないのだろう。そしてそれを伝えるためには、手紙では無理だと私には分かっていた。
煤だらけの暖炉を横目に、いつかどこかで会えないものだろうかと思うものの、小さな小さなロバートの大きな魔力と、それを隠さなければならない魔女の母さんに、それからマグルの父さんを思う。私がいなければ母さんは出掛けることすら出来ないし、そして父さんは恋人達を夫婦にすることも出来ないのだ。ここは、マグルの視線をいくら避けても避けられない、マグルの為の教会なのだから。
せめて煙突飛行がここにもあったなら、ニナを呼んで、お茶くらいは出来るのだけれど。


「ねえねえ姉さん、今日はお菓子、くっついてないの?」

「……あなた、ニナがくれるお菓子が好きなのね」

「うん、前にくっついてた大きなキャンディ、好きだなあ」

「また今度、訊いておくわ。どこで買ったのかね」

「ええ、でも、くっついてるから美味しいんだよ、姉さん。知らないの?」

「あら、ロバートったら!」


人から貰うから良いのだと悪気無く言うロバートの額を指でついて、私は封筒だったはずの細かく破られた紙切れを拾い集めていく。ニナをここに呼んでお茶を出来るのは、きっとこの紙切れがちゃんと封筒のまま、開かれることなく私の手元に届くようになってからのことだろう。
小さな弟、ロバートの頭を撫でて、私は今頃眉を下げて頬杖をついているだろうニナを思い、手紙を撫でた。いつか踊りましょうね、と書かれたその意味を、考えながら。






ふふふ、と笑うような鼻唄を溢す母さんの人差し指が、真新しい丸い花瓶にささる赤い花を撫でた。アンドリュー先輩の背伸びは母さんにとびきり気に入られたようで、母さんは夕刊予言者の写真を大事に切り取り、アルバムに挟んだのだ。
そして、私はそんな母さんの隣に座って、頬杖をついている。母さんの人差し指が花を撫でる度に、花はうんと頑張ってくれているのか、ぷかぷかと甘い匂いを漂わせ、小さく揺れていた。


「可愛いわねえ、若いって素敵ねえ」


アールグレイのティーカップを傾けた母さんは、そう言って花瓶を眺める。この花はそんなに若いのだろうか、と私も花瓶を眺めるけれど、その向こう側に座るトムを見ると、どんどん私の顔はテーブルへと近付いて、とうとう頬杖をついていたはずの私はテーブルに顎を乗せた。
リビングのソファの上で『スコットランド魔法使い年表』を読むトムは、テーブルに置かれたアールグレイがすっかり冷めてしまったことを知らないのだろうか。フリートウッズ箒専門店の隣で私が買ってきたそれに視線を落としたきり動かない睫毛に、私は足を揺らす。


「ねえニナ、あの男の子、面倒見が良くて素敵ねえ。私もホグワーツに入ったばかりの頃はグレーの瞳だとかブルーの瞳だとか、憧れたものだわ」

「……父さんの瞳は?ダークブラウンは、駄目なの?」

「あら、そんなことないわよ。でも、やっぱり素敵でしょう、グレーの瞳って」


母さんの視線の先には、私の知らない魔法使いや魔女がいるのだろう。ずっと昔にこの国に渡った母さんは、この国で初めてそういった瞳のマグルや魔法使い達を見たらしい。詳しく話してくれたのは私が初めて箒に乗って父さんを震え上がらせた頃だった筈だけれど、私はその時のことをすっかり殆ど頭から放り出してしまっていた。その頃の私にとっては箒の方が素晴らしく楽しく思えたし、そして今は、夜になる度に部屋に鍵をかけてしまうトムのことで頭がいっぱいだったのだ。
ふう、と息を細く吐き出して、トムの白い腕や、彼の羽織るカーディガンを眺める。肩にかけられたそれはゆったりとソファに足を下ろし、静かに目を閉じている。トムによく似合う深いダブグレーのそれは夏らしくはなかったけれど、暑くもない室内では丁度良いのかもしれない。


「勿論ね、父さんのダークブラウンの瞳も素敵だわ。でも、それに気付いたのってずっと後の話なのよ」

「……ずっと後なの?」

「ええ、そうよ。あの人が私に、ふふ、そうね、七年生の春だったわ」


テーブルにぺったりと頬をくっつけながら、母さんの細い顎筋を見上げる。真っ黒くて真っ直ぐなその髪に、父さんはきっと今も覚めない夢を見ているだろう。そういうものだと、ぼんやりとは知っている。知っているけれど、私がそれをきちんと知るのは、母さんが父さんの瞳に気付いたように、七年生になってからのことだろう。
すん、とアールグレイの匂いを嗅ぎながら、視線を泳がせる。音も無く、沈むように泳いだそれはトムの膝、指先、肘をのぼって肩にたどり着き、私は足をぶらぶらと揺らして起き上がった。トムの睫毛は、やはり動かない。
それがとても、面白くない。


「あら、ニナ、話を聞いてくれないのかしら?」

「んんん、また今度、今度ね」

「まっ、おかしいわね、魔女の大好物ってこういう話じゃなかったかしら」


口許を押さえた母さんを振り返らずに、私はぴょんと椅子からおりて、壁の取り払われたリビングへと爪先を進める。そろりとソファの後ろに回り込んで、背凭れごとトムを後ろから抱き締めてみる。けれど、トムの睫毛はやっぱり動かなくて、指先だけが頁を捲った。


「トム、トム、トムっ」

「……なに、どうしたの」

「…………どうもしてないの、どうもしてないけれど」


トムから手を離し、私はソファの背凭れを掴む。ぐっ、とソファに乗り上げて、そのまま前回り。ぐるりと視界に天井と足が入り込んだと思えば、ぼすんとお尻がソファにたどり着き、私は直ぐ隣に座るトムにもたれ掛かった。


「ちょ、っと、危ないよ」

「……危なくないもの。私、平気だもの」

「……それなら別に、良いけど」


そう言ったきり、トムは『スコットランド魔法使い年表』に沈みこんでしまう。それを、余程気に入ったと思えば良いのだろうか。そうして、喜べば良いのだろうか。例え睫毛を持ち上げてくれなくても、夜、部屋に鍵をかけて眠ってしまっても。
思わず唇を尖らせて、私は文字ばかりでつまらないそれから視線を逸らす。トムなら喜ぶだろう、と天井まで真っ直ぐ伸びる本棚を全てまわって選らんで買ったそれが、今では酷くつまらないものに見えてしまうのは、きっとトムのせいだった。
トムのアーモンドの爪が、『スコットランド魔法使い年表』の端を引っ掻いた。私はトムの肩に額を押し付けてみるけれど、そのアーモンドが私に触れることはない。


「…………トム」

「なに?」

「……トム、トムっ、トムトムトムっ!」

「なっ、なに?だから、なにっ?」


動かない睫毛を睨み付けて、トムの耳元で何度も同じ形の言葉を叫ぶ。ぱちん、と耳を塞いだ彼は驚いたように肩を揺らして、それから漸く睫毛を持ち上げ、真っ黒いその中に私を映した。


「何、ニナ、う、」


トムの頬を両手で挟み、逃がしてなるものか、とそのまま顔を近付ける。長い睫毛に縁取られた黒を覗きこむように見つめれば、すぐ近くで睫毛が震えて、細かな空気の揺れが頬に伝わる気がした。
ゆっくりと泳ぐ瞳を、その度に先回りして、時計の長い針がたっぷり二歩進む間、見つめてみる。そうしている間に先程まで感じていた不満は泡のように弾けていって、その後に残ったのはほんの体半分の満足感だった。残りの半分がどこに隠れているのか、私はちゃんと知っている。不格好なそれはトムの部屋の鍵に、それからトムのベッドの上にいるのだ。
揺らしたきり上がったままになっていたトムの肩が、魔法がとけるように下りていくのを横目に、私はそうっと手を離す。
トムはもう、睫毛を下ろさなかった。


「なにやってるのかしら、うちの子達は」


くつ、と母さんの細い喉が鳴る。私はそれに構わずトムの肩に額を押し付けて、細く白い、けれど私よりエルダーフラワーの実を摘むのが遅いその腕を抱き締めるように掴んだ。
膝に置かれていた『スコットランド魔法使い年表』を奪い、ソファの端の端っこに放り投げる。トムは驚いた声も不満の声も上げず、黙ってそれを眺めていた。


「……ねえ、トム、トム?」


ぽろぽろと、私の口は勝手に開き、彼の名をこぼす。その先のことなんて何ひとつ考えていなくて、私は一度奥歯で空気を食べた。昼間に噛んだ、ラズベリー色の味がした。
肩に顎を乗せて彼を見れば、トムは捕まえられた腕を見下ろしていたところで、長く真っ直ぐな睫毛の先しか見ることが出来ない。その向こうに座る母さんは余程あの赤が気に入ったのか、人差し指でつついては鼻唄を歌い、ティーカップを持ち上げていた。


「私、鍵って、嫌いだわ。とっても嫌いだわ」

「……うん」

「それから、私、昨日、ちっとも寝付けなかったの。梟がうるさいんじゃないの。でも、ちっともね、ちっとも寝付けなかったの」


どうしてだか、分かる?
トムの肩の上で、私は瞼を半分下ろして彼を見る。鼻から上がぼやけて見えなくなった彼は薄い唇をむ、と結んで、右に引き伸ばした。まるで右頬に言いたいことを詰め込んだような変な口をした彼の腕をゆっくりと下りて、私は指先をつかまえる。今日はひやりと冷たいその指先が、ほんの少し、寂しく思う。


「私、トムと一緒が良い。だって、素敵な夢を見れるの。本当に素敵なのよ」

「………………素敵な夢じゃ、なかったらどうする?」

「平気、平気だわ。だって、目が覚めたらトムがいるんでしょう?」


瞼を上げて、私は睫毛の先を見つめる。やっぱり右頬に詰め込んだトムは眉まで右に傾いていて、とてもおかしな顔をしている。私はそれがとても嫌で、絡めた指をほどき、親指のお腹で彼の眉間の深い谷を押した。
解すように押して、それから伸ばす。とてもおかしな顔はほんの少しのおかしな顔になって、そして私を見つめる。こめかみを伝って右頬を押せば、言いたいことを詰め込んでいたそこが狭くなったのだろう。わ、と開いたトムの口からは、静かに言葉が落ちてきた。


「僕の気持ち、少しは分かった?」


きらりと、黒い瞳を、光らせて。
す、と、波が引いていくように、トムの瞳が細められる。鼻筋にきゅっと寄った皺は、父さんが母さんにキスをされた時に見せる嬉しそうなそれにそっくりそのままで、私は目を丸くしてトムを見つめる。
かたん、と、ティーカップを置いたのは、母さんだった。その音を合図に口角を上げたトムが、私の手をとり喉を震わせる。くつくつと、猫のようなその震えは、トムが笑いを堪えた時に見せるものだった。


「え、え?」

「ねえ、僕の気持ち、分かった?」

「待って、私、何だか、待ってね、お願いね、」

「駄目、待たないよ。だってニナはいつも待ってくれないからね。ほら、早く答えて?僕の気持ち、分かった?」


トムが歯をみせて笑うのは、とても珍しいのではないだろうか。そしてトムはもしかすると、右頬にそれを詰め込んでいたのではないだろうか。溢れそうな鼻筋の皺や、綺麗に並ぶ白い歯を。
私の爪を、トムのアーモンドの爪が引っ掻く。擽ったいそれに私は何も出来ないまま、トムの鼻筋の皺を眺める。私の口がトムの求める答えを吐き出すのを待つその皺は、どこまでも楽しそうだった。


「残念、時間切れだ」


黒い瞳を蕩けさせたように細めたトムが、私の手を持ち上げる。小鳥のように突き出た上唇を見付けた時には、それは私の指先を啄んでいて、私はさらさらと流れたトムの前髪を見つめていた。
柔らかな頬が、笑っている。彼の部屋の鍵や、それからベッドの上にあったはずの体半分の満足は、どうやら此処にいたらしい。頭の上まで溢れかえるような満たされた気持ちに、私は思わず唇を噛む。
また、ラズベリー色の味がした。


「ニナ、僕をあまり、放っておかないでね」


母さんには秘密なのだろうか。妖精の羽音の囁きが、とても素敵な魔法を呟く。私はそれに小さく頷いて、トムの手を握り返す。彼の指先は、先程よりもずっと、温かかった。


「それから、ハツには秘密だけれど、」


耳元に寄せられたトムの唇が、くつくつと笑っている。そこに混ぜられた魔法を聞きながら、私は目を細める。彼よりも低い私の鼻筋には、きっと彼と同じ皺が寄せられていることだろう。


「僕はずっと前から、ダークブラウンの瞳が素敵だって、知ってたよ」


多分、誰よりも先にね。
トムのオペラ色の耳の向こう側に、鼻唄を歌う母さんが見える。母さんが七年生になるまで知らなかったそれを知っているトムの、夜のような真っ黒い瞳が素敵なことを、私はちゃんと、知っていた。



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