華の人 | ナノ
白梅の頃





「母上、あそこにもののけが」


幼子にしては飾り気の無い、茶粥に浸したような着物に身を包んだ娘が、ちょん、と指を指す。伏見稲荷の鳥居の上を向いたその指を咎めるように叩いたのは茶粥を一層煮立てた中に反物を落とし、仕方なしに仕立てたような着物を着た女だった。
熱心に毎朝毎夜、稲荷に参りに来ていた町人達が振り返る。娘は濃い茶粥の女に手を引かれても尚、鳥居の上、そこにひっそりと座り此方を見下ろすもののけから目を逸らすことはなかった。



1718年 京 洛外伏見にて




珠の髪飾りの上に挿した白梅の小枝が、走る度に香りをそよがせる。いとさん、何処へ、と通りを掃き清めていた丁稚と手代が白梅を追って声をかけるが、白梅の主、志乃は振り返りもせず下駄をことこと鳴らして駆けていく。


「竹吉、あんたいとさん何処へ行かれるか聞いとるか」

「へえ、いえ、何も……」


志乃が落としていった白梅の花ひと房を拾い上げながら、手代は通りの向こうへ飲み込まれていった志乃を背伸びして探す。江戸から京は洛外、伏見に渡り一年。茶粥のような着物に身を包んでいた志乃は六つから七つになり、茶粥は今や立派な鴇となっていた。
鴇色の小さな背中がついに見えなくなり、手代は踵を下ろし丁稚を見下ろす。昨年暮れにこの両替屋、福乃屋へやって来て三月が経とうとしている丁稚は未だ此処の勝手が分からず、いつ手代の拳が降ってくるかと肝を冷やしてばかりだ。今も丁稚は福乃屋の一人娘である志乃が守りもつけずに通りをことこと歩いていった様子を見て、唇を真っ白くしていた。


「まあ、おとせさんには言っとるか。竹吉、おとせさんに訊いといで。言うてへんかったらいとさん探しに行かんならん」

「へえ」


一先ずは拳が降ってこなかったことに安堵して、丁稚は箒片手に福乃屋の敷居奥へと入っていく。手代はそれを確かに見送って、通りを振り返った。例え守りであるおとせに行き先を伝えていなくても、手代には志乃が何処を目指していたのか見当がついていた。この一年、茶粥から鴇に変わっていく間に志乃は数度こうして守りもつけずにことこと通りを後にしたが、いつも決まってあの場所にいるのだ。そうして志乃は、朝に出たなら昼餉には、昼に出たなら夕餉には必ず戻ってくる。子盗りさえいなければ、守りなど必要のない聞き分けのある大人しい娘だった。


「……子盗りにさえ、会わなんだらええんだすが」


上方訛りで呟いて、手代はばたばたと喧しく足音を鳴らして戻ってきた丁稚を振り返る。堪えきれない笑みからして、志乃は行き先を告げていたのだろう。拳が降ってこないと信じきっている丁稚に、手代はぎゅっと眉を寄せて袖をたくし上げた。

白梅がことことと通りを行く姿を、浪人の男が眺めている。七つばかりの子がひとり何処へ行くのかと訝しがる目であったが、志乃は気付かず、髪に挿した白梅の小枝をちょん、と指でつつきながら黙って先を急いでいた。
──今日は、もののけはいないのかしら。
志乃はちょん、とまた小枝をつつき、ことことと先を行く。福乃屋のいとさん、と数度通りにある店先から声をかけられ手招きされるが、志乃は小さく頭を振ってからお辞儀を返し、またことことと歩くのだった。
志乃の頭には、初めて母と京は洛外、伏見を訪れた日のことが縫い付けられたように記憶として貼り付けられている。
今日から此処で世話になるのだからと、商売繁盛を願って伏見稲荷に詣ったその帰り道のこと。緩やかに下る境内を見下ろしながら母の手を握ったその時、志乃は不意に何かを思い振り返った。すると朱色の鳥居が並ぶそこに、まさにその鳥居の上にもののけを見たのだ。人とは思えぬ天色の髪を持つ、童子のようなもののけを。
志乃は直ぐ母にそれを伝えたが、まさか六つの娘が言うことを鵜呑みにする親ではない。店に帰り名を覚えたばかりの手代にも話した志乃であったが、不思議そうに首を傾げて首裏を掻いた手代を見て胸の奥がちりちりと痛んだ志乃は、その時初めて口にしてはならないものがあるのだと知った。思っても、見ても、口にせず胸のうちで隠していれば波風立たぬこともあるのだ。


「今日は、会えると良いのだけれど」


そうしてもののけのことを胸のうちに隠したものの、六つの娘が興味を削がれるわけではない。志乃はひと月経つごとに稲荷を訪れて、鳥居の上のもののけを探しくまなく歩き回った。それに不満を溢すのは守りで、志乃は六度目のもののけ探しからついにひとりで店を出るようになる。たまに行き先を告げるのを忘れるが、それでも手代が何度と志乃を見付けてくれていたので、志乃のもののけ探しが終わる気配は無かった。
大きな鳥居をくぐり、境内に入る。ことこと鳴る下駄に参拝者は振り返り、やはり訝しげに見るが、志乃もやはり気付かず、ちょん、と白梅の小枝をつついた。
志乃がもののけを見付けたことは、最初のあれから一度だって無い。


「もう何処かへ行ってしまったのかしら……」


上方訛りの無い幼子の言葉に、また参拝者が振り返る。それでもやはり志乃は気付かないので、誰かがたまらずぷっと吹き出した。
鴇色の裾をひいて、志乃は境内の奥へと進んでいく。ひとけの無い裏は日差しも殆ど入らず、黄昏のように薄暗い。七つの娘なら例え叱られて逃げ出そうと其処を隠れ場所には選びそうにもないが、志乃はもののけを見付けたい一心で足を踏み入れていた。


「おい」


その時である。
薄暗い志乃の視界が一層薄暗くなり、後ろから低い声が降りかかる。白梅の花弁を散らして志乃が振り返るとそこには見知らぬ浪人がひとり、袖口に手を隠すように立っていて、志乃を見下ろす表情は些かかたい。
浪人はつい先程ことこととひとりで通りを行く志乃を見ていたひとりだった。しかし、志乃はその浪人を知らない。気付いてもいなかった。勿論、浪人の表情の意味も、気付ける筈がない。


「お前、独りか」


上方訛りの無いつらつらと滑らかな言葉が降ってくるのが珍しく、志乃は何も言えずに浪人を見上げている。腰にある長く細いものを何と呼ぶのか志乃は知っていたが、それを使っている姿を未だかつて見たことがない。まだ七つの志乃には、目の前にいる浪人がこの世のものから少し離れた場所にあるように思えていた。
日に焼けた頬をつり上げて、浪人は笑う。かたかった表情はよりかたくなり、不自然なものになる。ちゃ、と腰のものを鳴らして志乃との距離を詰めたその足は、汚れきっていた。


「ぐっ……!?」


浪人の肩から揺らめきたつような気味の悪さなど見えもしない志乃が、同じく汚れた手が袖口から覗いたその瞬間のことだった。
ぐ、と苦しげに声を上げた浪人が、後ろから蹴り飛ばされたかのように跳ね、志乃目掛けて倒れ込んでくる。それに漸く気付いた頃には遅く、志乃はあっと言う間もなく浪人に巻き込まれ尻餅をついたが、直ぐ様立ち上がり距離をとった。
驚いて、志乃は振り返る。しかしそこには何もない。薄暗い境内が広がり、ただ静かである。浪人の直ぐそばには、志乃の手のひらほどの大きな石が落ちていた。


「な、何だあ!?」


思い出したように志乃が浪人を振り返ると、ちょうど目の前で浪人の脛に石が投げつけられた所であった。
志乃は瞠目して、口許を隠す。いつの間にか髪から落ちた白梅の小枝が痛みにもがいた浪人に蹴り飛ばされる。花弁を散らしながら飛んでいったそれを受け止めたのは志乃よりも幾つか上に見える子供で、白梅は大人しくその手の内で揺れていた。
それに上擦った声を上げたのは、浪人だった。


「ひぃっ、何で、何で浮いてやがる……!?化かされたのか!?化かされてるのか!?」


志乃の目には、白梅を持つ子供が確かに見えていた。去年の暮れに福乃屋にやってきた丁稚と同じ年頃の、天色の髪を持つ子供が。
浪人は思わず腰から刀を抜いて、立ち上がる。かたかたと震える両の手で構えたそれは子供に向けられることはなく、右往左往し、志乃を向いた。一瞬にして天色の髪から覗く瞳が細くつり上がったが、浪人がそれを見ることはついに無かった。
天色の髪を揺らして石を拾い上げた子供は、浪人の顔目掛けてそれを投げつける。あ!と叫んで地面に転げた浪人の顔が砂にまみれた。
かたかたと刀を揺らして、浪人がまた立ち上がる。鼻からは血が流れ落ちていた。震える刀の先が志乃に向かず、地面を削るように引きずられた。浪人の目には、鴇色の着物に身を包んだ娘しかうつっていない。売れば幾らか懐が温まるだろう娘しか、そこにはいないように見えていた。


「ああ!ああああっ!」


狂ったように叫んで、刀をおさめることもなく、浪人は駆け出した。ひ、と引きつった声をもらして志乃は頭を手で隠したが、銀に鈍く光るそれが志乃目掛けて振りかざされることはなかった。


「……あ、あの、」


今になって震えだした手をきつく握り締めた志乃を包んだのは、先程まで自分が挿していた白梅の香りだった。
振り返ると、そこには天色の髪を持つ子供が立っている。しかし子供は酷く驚いた顔をして志乃を見つめていて、後ずさった。まさか志乃が振り返るとは思っていなかったのである。子供は、浪人と同じく、志乃もまた自分が見えていないと信じきっていた。
だが、志乃は真っ直ぐ子供を見詰め、唇を噛んでいる。それに子供は大きく動揺して、視線をうろうろと泳がせた。


「……やっと見付けたわ、もののけさま」


泳いだ視線が、ゆっくりと志乃へ辿り着く。
志乃は頬を鴇色に染め上げて、七つの娘らしく笑っていた。




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