華の人 | ナノ
揺れる頃






「鶴丸国永、おい、鶴丸国永や、……全く、あいつ、一体何処へ行ったのか」


ひたひたと、気配を消す術も知らない男が一人、廊下を行く。遠ざかる足音に胸を撫で下ろしたのは薬研藤四郎の小さな背中に隠れ膝を抱える鶴丸国永で、鶴丸国永は今、男から逃れるように短刀の部屋の隅に隠れていた。


「……大将、行っちまったぜ」

「…………おお」

「何だ、またやらかしたのか、あんた」

「いや待て、やらかしたとは、一体何だ。俺のことを何だと思ってるんだ?」

「何って、吃驚じじいだな」

「何だって、薬研、君はそんな風に思ってたのか!」

「おい、あんまり煩くすると大将が戻ってくるだろ」


背中合わせに、薬研藤四郎は答える。あまりにも酷い言われように鶴丸国永は振り返ったが、確かに男の足音が戻ってきていることが鶴丸国永の耳にも分かって、鶴丸国永はまた膝を抱えてその小さな背中に隠れた。
男の足音が、部屋の前を通り過ぎていく。鶴丸国永を見なかったか、と、障子の向こうで男が訊ねる声を聞き、いよいよか、と鶴丸国永は固唾を飲んだ。しかし、男の足音はそのまま遠ざかり、鶴丸国永と薬研藤四郎はどちらからともなく細く息を吐く。四十の男は、刀といえど返事の無い刀剣男士の部屋を勝手に開けることはしない、良識のある男であった。


「……それで、何だってあんたは隠れるんだ。やっぱり、嫌な役回りだったんじゃねえのか」


背中越しに、薬研藤四郎のため息混じりの声が聞こえてくる。嫌な役回り、とは男に付き従い志乃に会うことで、匿ってくれと部屋に訪れた際、言わずとも察した聡明な薬研藤四郎に同じような事を訊かれたので、鶴丸国永はそれが嫌な訳ではないのだと答えていた。
しかし、薬研藤四郎はまた同じことを重ねて訊ねてくる。薬研藤四郎の頭には、怯えた双眸の、白い顔をした比丘尼がいることだろう。それと同じ顔を見てしまった鶴丸国永はつい眉を寄せ、苛ついたように奥歯を噛む。


「……言っただろう、そういう訳じゃあないって。ただ、今日は都合が悪いから行きたくないだけだ」

「その都合とやら、訊いても良いのか?」

「いや、訊かないでくれ」

「…………鶴丸の旦那、あんた、本当に何をしたんだ?何か、されたのか?」


──したとも言えるし、されたとも、言えなくもない。
鶴丸国永は、自身の行いを振り返る。鶴丸国永はただ、手を掴んだだけだった。志乃があまりに寒そうに震えるものだから、温めてやろうとその手を掴んだ。すると志乃はますます震え、しまいには涙を溢し、逃げるように茶を入れてくると言って、そして結局、戻ることはなかった。
鶴丸国永は、手を掴み、それから多分、余計なことを言った。志乃はそのどちらにも怯え、泣いて、逃げた。何かをしたか、と訊かれれば、した、と明確に答えることは出来ない。何かしてしまったからこそ志乃は泣いたのだと鶴丸国永は分かっていたが、一体何が決め手となったのか一晩中布団の上で考えに考えたが、てんで答えは見つからなかった。故に、謝る言葉も見つからず、顔を合わすのは酷く気が重かったのである。
詰まるところ、ただ、気まずいの一言だった。


「…………なあ、薬研。君は、あの子が怯えていたと、言ったな」

「あの子ってのは、あの比丘尼か。それなら確かにそう言ったし、そう見えたぜ」

「俺も、そう見えたんだ。まあ、昨日、初めてだが」


抱えていた膝をほどいて、鶴丸国永は胡座をかく。それに気付いた薬研藤四郎が鶴丸国永を振り返ったので、鶴丸国永もそろそろと静かに薬研藤四郎に向き直った。


「やっぱりやらかしたんじゃねえか」

「いやいや、そういう訳じゃあ、……そうなるのか、やはり。でも、俺はただ、君の話をしようとしただけなんだが……」

「俺の話?またどうして」

「……主はただ具合が悪かったんだと思っているようだったんだが、や、俺もまあ、そう、思ってたんだが、どうにも君の言葉が離れなくてな。その、確かめようと、思ったんだ」

「つまり?」

「……君と何かあったのか、と、いや、何を、君に怯える必要があったのかと、訊こうと……」


したのだが、結局、出来なかった。
鶴丸国永の肩が、がくりと落ちる。薬研藤四郎のため息ともとれる息を聞きながら鶴丸国永は首を捻って、唇を尖らせた。考えもなしに訊こうとしていた言葉を薬研藤四郎に咎められている気がして、何ともばつが悪い。鶴丸国永はがしがしと頭を掻いて、それからその場に大の字に寝転がった。
おい、と、薬研藤四郎に足首を叩かれ、鶴丸国永は頭だけを持ち上げる。薬研藤四郎は呆れた顔こそしていたものの、言葉で直接鶴丸国永を咎めることはしなかった。


「それで、訊けたのか?」

「……いや、何も。君の話題を出しただけで、怯えて逃げられてしまった」

「そうか。……言っておくが、俺は何もしてねえからな?本当に、会っただけだからな?」

「分かってる、分かっているとも。君が失礼を働くとは思ってもいない」


自分とは、違うのだから、という言葉は、言わないでおいた。
うつ伏せになり、手の甲を枕に顎を乗せる。畳の目には埃ひとつ無い。薬研藤四郎は、細やかなところまで手を抜かず、手入れを行っているらしい。
──こんな良いやつを前に、何を怯える必要がある。
気配りの上手い、日々を丁寧に生きる、漢らしい刀剣を一目見て怯える志乃を想像することが、鶴丸国永は出来なかった。家鳴りをたいそう大事そうに撫でる志乃は烏天狗の風に守られ、死ぬように生きていて、生きるように死んでいるのだ。何を今更、それも、薬研藤四郎なんかに怯える必要があるのかと、鶴丸国永には不思議でならなかった。
そこで、不意に鶴丸国永は思う。志乃は、"薬研藤四郎"に怯えていたのだろうかと。


「……ふむ」

「何だ、何か思い付いたのか」

「いや、なに、ただ、何だ、まあまあ、」


曖昧にも程がある言葉を連ねて、鶴丸国永は手をついて起き上がる。廊下を歩く主の足音がまた戻ってきたのを鶴丸国永と薬研藤四郎はその耳に聞いて、どちらからともなく顔を見合わせた。


「まあ、一度、確かめてくるさ」


怪訝な顔をした薬研藤四郎に、鶴丸国永は凝りを解すかのように首の裏を撫でた。



1732年 京 洛外にて




ちゃりちゃりと、丸石を踏み締める足音が多い。男の後ろを並んで歩くのは鶴丸国永と、蛍丸に秋田藤四郎の三振りで、初めて化け寺と乱藤四郎が噂する寺に訪れた秋田藤四郎は気も漫ろに辺りを見回し歩いていた。
本堂の屋根の上を、烏天狗が飛び回っている。羽が動く度に風が吹いて、汗ばむ季節だというのにそこはえらく涼しかった。烏天狗が風を吹き起こすということは、志乃は恐らく境内の何処かで掃き掃除なり何なりをしているのだろうと、鶴丸国永は考える。


「ねえ、今日はどうして俺達も?」


鶴丸国永が頭の後ろで手を組めば、隣を歩いていた蛍丸が男には聞こえぬ声で囁いた。それに頷いたのは秋田藤四郎で、蛍丸の向こう側から鶴丸国永に視線を送ってくる。
男はいつものように、鶴丸国永を連れて寺に訪れるつもりで鶴丸国永を探し歩いていた。その男の前に蛍丸と秋田藤四郎を連れて、今日はこの二振りもと現れたのが鶴丸国永であり、当の二振りはただ「後で金平糖をやる」という文字通りに甘い言葉に誘われてやって来ただけである。連れてこられた理由は、男も、蛍丸も秋田藤四郎も、分かってはいない。しかし男は、まあお前が良いのなら、と、此方側に誘い込まなくてはならない志乃と顔見知りにもなった鶴丸国永の頼みであったし、断るだけの理由も出陣要請もなく、三振りを連れて寺に訪れたわけであった。
蛍丸と秋田藤四郎に向けて、鶴丸国永は人差し指を口に当ててみせる。真似て指を口に持っていく秋田藤四郎にくつくつと喉を震わせ笑いながら、鶴丸国永は秋田藤四郎の手を蛍丸の後ろから伸ばしとり、そのまま後ろに隠すように引っ張った。


「どうされましたか?」

「まあまあ、良いから。黙って隠れてるんだ」

「え?」


首を傾げた秋田藤四郎に、鶴丸国永はまた人差し指を口に当てた。
ちゃり、と、男の草履が丸石を踏んで、立ち止まる。おや、と顔を前に向ければ男の向こう、境内の奥では蛍丸がいつか言っていたように薙刀を振るう志乃と、それを影で見守る若い僧と修行僧とがいて、鶴丸国永はうっかり秋田藤四郎が見えたりしないようにと背中に秋田藤四郎を隠した。志乃はまだ、此方に気付いていない。


「鶴丸国永や、今日こそ上手く誘い込むぞ」

「ああ、分かっているとも」

「あの人は良い審神者になれる、きっと。分かるだろうに、お前達は」


男の草臥れた裃が、ふ、と息を吐くように上下した。蛍丸が声もなく頷けば何を感じたのか、志乃は石突きを地面に付いて振り返り、その黒目がちな双眸に男と蛍丸、それから鶴丸国永を映した。
──やはり、そうなのか。
鶴丸国永は、思う。一瞬の間、志乃は蛍丸を見て顔を強張らせたのを、鶴丸国永は確かに見た。しかしそれは男にも蛍丸にも悟られることなく、志乃はいつもの涼やかな声と顔で迎えでる。控えめに振られた手は陽に焼けることもなく、白く細かった。


「柳様、と、そちらは、いつかの大太刀の……?」

「おいおい、俺もいるんだが?」

「此方は蛍丸、と、おや、鶴丸国永、秋田藤四郎を隠してどうした。これ、出しておやり」


男に手招かれ前に出た蛍丸に続き、鶴丸国永に隠されていた秋田藤四郎が顔を出す。やはり、と確信したのは鶴丸国永で、蛍丸の右に並んだ秋田藤四郎を見た志乃の白い頬は忽ち青を透かして、がらん、と薙刀を落っことした。
──いや、違う。秋田藤四郎ではない、"秋田藤四郎"という刀を見たのだ。
咄嗟に薙刀を拾い上げた蛍丸に目も向けず、志乃は一歩、後ずさる。本堂の上は黒いうねりが轟轟と音を立て、木々の緑が吹き飛んだ。鶴丸国永はそれにますます確信して、目を丸く立ち竦む秋田藤四郎を男の後ろに隠した。秋田藤四郎には悪いことをした、と、鶴丸国永は今になって薬研藤四郎を連れてくれば良かったと後悔した。金平糖だけでなく、羊羮もやらねばならない。


「あ、ああ、」

「い、如何なされた、また具合が、顔色が悪い、今正琴殿を、」

「いや、待て待て、主、待ってくれ」


慌てた男の肩を掴んで、鶴丸国永は前に出た。志乃は酷く青白い顔をして耳を塞ぎ、目を逸らし、鶴丸国永に背を向け歩き出す。また戻らぬ気だ、と瞬時に鶴丸国永は頼りのない薄い背中を追いかけて、直ぐに捕まえてしまった。


「志乃、君に訊きたいことがあるんだが、良いかな?」


黒目がちな双眸が、怯えをそこに揺れている。ぎ、と泣いて鶴丸国永の足を蹴ったのはころころと小さな家鳴りで、続いて爪をたてたのは白く肥え太った猫又であった。


「君は、何に怯えているんだ」

「わ、私、私は、」

「今日も、昨日も、その前も、何に怯えている?」

「止めて、くださいませ、どうか、」

「薬研藤四郎にも、秋田藤四郎にも、怯えているわけじゃあないんだろう。君は、何かあったんだ。違うのか?」


本堂の奥から顔を出したのは、正琴と、見知らぬ町人と、木魚の付喪神であった。
慌てたように駆けてくる修行僧と若い僧の声が、鶴丸国永にも、志乃にも届いてはいなかった。鶴丸国永には志乃の荒くも消え入りそうな息遣いだけが聞こえていて、目には志乃のやはり青白い顔だけが見えている。
その場に崩れるようにしゃがみこんだ志乃の前に、鶴丸国永は膝をつく。鶴丸国永の手は奇妙なことに、考えるよりも早く志乃の背中を抱いていて、しかし志乃はそれすら気付かないのか、譫言のように涼やかではない、震える声を繰り返し吐き出したのである。


「小夜、小夜、許して、私を許してっ、小夜、どうかっ、小夜っ……!」


──"あれ"、とは、"小夜左文字"であったか。
"あれ"がお上に下ったと聞き、志乃は仏門に下ったと言う。"あれ"が行方知れずになったのは、嫁いだその日のことなのだろうと、鶴丸国永は漸く志乃の涼やかすぎる双眸の内を暴いた気がして、嬉しくも切なくもあった。妖の見える娘である。木魚の付喪神が、見える娘である。志乃は"あれ"と、"小夜左文字"と共にあり、事があり失ったのだ。
髪を落としてまで、この娘は悲しんだのか。鶴丸国永は思いながら、薄く細い背中を抱き込んだ。志乃の譫言のような声を聞いた男が僧と修行僧とを宥める間に内を暴けた嬉しさは切なさに食い殺され、鶴丸国永はいっそう強く志乃を抱き込んだ。
──この娘を、審神者に、出来るものか。
鶴丸国永は奥歯を噛みながら、思った通り、椿の匂いがする髪に顔を埋める。"小夜左文字"は、審神者にこそなれば、その手に戻すことが出来るだろう。男の本丸にこそそれは無いものの、鶴丸国永は確かにその刀剣が在ることを知っている。しかし、だからこそ、志乃を審神者にすることは出来ないと鶴丸国永は思う。


「あ、あの、大丈夫……?どうかしたの?」

「具合、悪いのでしょうか、あの、大丈夫でしょうか……」


蛍丸と秋田藤四郎の声に、志乃が顔を上げ、美しいその顔をぐしゃぐしゃに濡らし、鶴丸国永の腕を這い出て秋田藤四郎を掻き抱く。驚き目を見開く秋田藤四郎をよそに志乃はぶるぶると身体を震わせ咽び、蛍丸に背中を擦られながら、小夜、小夜と繰り返すばかりであった。

志乃がもし、"小夜左文字"を呼び起こしたとして、また手の内から溢れ落ちたら、志乃は一体どうなってしまうのか。
お上に下った"小夜左文字"は、そこで静かに生きている。しかし、次に溢れ落ちることは"小夜左文字"が折れ死んでしまうことを意味しているのである。刀を打ち直すことは出来ても、"小夜左文字"は何度だって死に、その度に志乃は広く暗いだけの後悔の沼に身を投げるのだろう。
鶴丸国永は、ただただ人が脆く、虚しいものだと、胸を掻き毟りたくてならなかった。


「小夜、許して、私を許してっ……」


ようやっと駆け付けた正琴の丸々とした手が、底から救い上げるように志乃の頭を撫でる。沼の底からでは、いくら手を差し伸べられても明かりすら届かないだろうと、鶴丸国永は思いながらも、蛍丸の手にあった薙刀を受け取り、志乃の名を呼んだ。


「志乃、」

「……………………」

「……此方に来れば小夜左文字に会えると言えば、君は、どうする」


審神者とは何たるかを、男と鶴丸国永は懇切丁寧に志乃に説いてきた。その内で、刀剣男士が折れることも、そして、志乃はこの俗世を離れ、荼毘にふされた形となって此方側につかねばならないことも、説いてきた。
戻る場所も無い所まで進んだ先にあるものが"小夜左文字"の死だとして、そしてそれで志乃が本当の意味で死ぬのなら、鶴丸国永は、もう此処には来たくないと思った。


「志乃や、さあ、奥で休もう、さあ」


黒目がちな美しい双眸が、鶴丸国永を捕らえ、揺れたのを、鶴丸国永は黙って見詰めていた。
志乃はその日正琴に連れられ、また、戻ることはなかった。




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -