華の人 | ナノ
蓮の頃





「主、今日も行くのか!」

「勿論。鶴丸国永、今日もついてくるのか」

「勿論!」

「そうかね」


比丘尼、改め志乃と名乗るその女は、鶴丸国永にとって驚きに満ちた、しかし幸の薄い女であった。
出掛けるとなるなりせっせと支度を終えて男の部屋まで舞い戻ってきた鶴丸国永は、常ならば決して持とうとしない男の小さな手荷物を奪うようにして自ら持ち、雛鳥のように男の後に付き従う。元は刀であるため勿論のこと身の程は弁えてはいるが、鶴丸国永が嬉々として仕えるのは男の本丸では無かったことで、偶然廊下で出会した薬研藤四郎と堀川国広は目を細めて鶴丸国永を見た。


「おう、大将、出掛けるのか?気を付けてな」

「分かっているとも、薬研藤四郎。此所は任せたぞ。堀川国広も、午後の遠征は任せたからな」

「はい、ええ、それは分かってるけど……あの、どちらへ?」

「はははっ、野暮な事は訊いてくれるな。さっ、行こうじゃないか主よ」


思わず、というように訊ねた堀川国広から逃げるように身を翻し、鶴丸国永は手荷物、藤色の風呂敷を脇に抱えて男の背中を押す。相も変わらず草臥れた裃に着替えた男の背中は鶴丸国永よりかは肉付きは良いが、四十ともあって動きの身軽なそれではなく、うんと力を込めなければなかなか動かない。乱藤四郎や秋田藤四郎が男を鬼事に誘う際に必死な顔をして腕を引いていたのはこのせいか、と考えながら、鶴丸国永は後ろ手に手を振って本丸を出た。


「なあ、今日の荷物はえらく小さいが、これは何かな、茶菓子かな」

「……お前はそういったことには目敏くて困る。そうだ、あの人に土産だ」

「ほう、主、君もあの子が気に入ったのか。蒸し羊羮か?」

「いや、団喜だ。三条のあたりで見付けてな。しかし、鶴丸国永や。あの子、という齢でもないだろうに」


唐菓子か、と藤色の風呂敷を鼻まで持ち上げたところで、男は振り返る。男の手は門を前にして印を結んでおり、いつの間にか門の前に控えていたこんのすけが「一七三二年の文月でございます!」と尻尾をひと振り答える。いつもの門の向こう側の景色が揺らめくのを確かめて、男と鶴丸国永は門を潜った。
──あの蓮は、もう散ってしまっただろうか。消えてしまっただろうか。
七日と待たずに消えてしまう、蓮の内側の小さな存在を思い浮かべながら、鶴丸国永は男の二歩後ろを歩く。いつもの竹林を抜ければ不思議なことにそこは京は洛外で、もう四度潜った朱色の山門がそこにある。陽が昇り一段落のついた朝、山門を潜り先を行く人の姿は無く、男と鶴丸国永の一人と一振りだけが立っていた。
袷を直し、男は石段を上っていく。急なそれを上るには男は日頃動くことが少な過ぎて、後ろをいく鶴丸国永はそのゆっくりとし過ぎた歩みに痺れを切らしとうとう男を置いて境内へと急いだ。鶴丸国永は、それが常であった。


「おい、早く、運動不足とやらだな、君は」

「なんと、お前はまたそういうことを」

「しかし事実だ、そうだろう?ははは!」

「ぐう……」


境内にはやはり、もう蓮は咲いていなかった。
一日、二日と経つにつれその数を減らしていった蓮の花を、鶴丸国永は名残惜しくは思わない。花とはそういうものであるし、そして自分もいつかはそうなるものだと思っている。しかし、本堂からよく見えた、内側に惚けた顔で座っていた小さなそれもいないのかと鶴丸国永は足を進め、最後にひとつ、力無く咲く蓮を覗きこんだ。そこには、何も無かった。
季節が巡れば、また会えるだろう。この寺は桜も躑躅も石楠花も、紅葉も綺麗だと寺に訪れる町人は言う。ならばまた紅葉の頃にでも来ようじゃないかと、鶴丸国永は本来の目的も忘れて決めていた。
ちゃり、と、丸石が踏まれる音がする。漸く来たか、と鶴丸国永は肩を竦めるように振り返り、慌てて姿勢を天に引っ張り上げられる。そこにいたのは男ではなく、小さな修行僧を連れた比丘尼の姿で、志乃であった。


「また来られたのですか」

「やあ、気付かれた。そうさ、また来たとも」


藤色の風呂敷を咄嗟に後ろに隠し、鶴丸国永は笑みを浮かべる。すると修行僧は志乃をちらりと覗き見るようにして見上げ、鶴丸国永を見、頬を染めて逃げるように本堂へと駆け込んでいくのだから、鶴丸国永は可笑しくてならなかった。
──さてはあの見習い坊主、俗なことを想像したな。
鶴丸国永は、所謂"見える"者ではない者達から見れば、ただの見目麗しい武家の男に見えるらしい。初めてこの寺を訪れた際、住職に御武家様と呼ばれたことを思い出す。志乃も確かにそう呼んだが、あれは戯れだったのだろうと鶴丸国永は考えていた。志乃は確かに妖が見えていたし、そして鶴丸国永が人ではないことも見えていた。だからこそ、涼やかな双眸のままなのだ。


「あれはきっと、俺を好い人に思っているな?」

「好い人、とは、何方の」

「勿論君に決まっているじゃあないか!俗世を離れた君に、こうも続けて会いに来る武家の人間なんてものは、周りから見ればそういう風に見えるものだ」

「柳様のお付きでしょう。何より、御武家様でも、人間でもないというのに」

「まあ、そうだが」


夏だというのに、目にも重い青鈍色の小袖に身を包んだ志乃はさっと視線を巡らせて、石段から漸くやって来た男を見付け、そちらへと急ぐ。水を撒くところだったのだろう。桶を置いて男に駆けよるなり志乃は懐から手拭いを取りだし、それを男に差し出した。


「いやあ、参った、ありがとう。此所の石段は急ですな」

「そうですね、しかし、春も秋も、石段から見下ろす桜や紅葉は素晴らしきものですよ」

「それは良い、今が夏なのが実に惜しい」


手拭いで汗を拭いながら、男は折角直した袷をずらし、そこに風を送り込む。身なりこそ武家のようではあるが、武家ならばこういったはしたない真似はしないだろう。しかし志乃は気にも止めず、男が涼んでいる間にさっさと水を撒いてしまって、桶を空にした。志乃はもうとうに、男が武家ではないことも、そしてここ数日、一日と空けずに志乃へ会う為寺を訪れる理由も知っていた。



「審神者、ですか」


鐘楼を眺めることの出来る縁側にて、比丘尼は名を志乃と名乗った。茶を出そうと控えていた若い僧は、和尚様から授かった名もありましょう、と咎めるような横槍を入れたが、志乃はそれを軽く流してしまったのだった。
さて、それでは次は此方が、と、僧が席を立ったのを見計らったところで男と鶴丸国永が膝をつき合わせれば、志乃は怪訝そうな顔をして男の言葉を繰り返す。


「ええ、審神者です。柳と呼んでくださっても構いませんが」

「…………では、柳様、と」

「ええ、ぜひ。それからこれは鶴丸国永。人の形をしてはいますが、」

「付喪神、ですね」

「……やはり、ご存知で」


男はそう言って、頭を掻く。鶴丸国永はただ男の斜め後ろで、茶柱の立った湯飲みを見下ろしていた。吉兆であった。


「おい君達、見ろ、茶柱が立っているぞ!良い縁だということだな!」

「これ、鶴丸国永や、静かに!」

「いやしかし、なあ、ほら、見ろ、立派な茶柱だ。お、香りも立っているな。良い茶だ。何処のものだ?鶯丸が喜ぶぞ」

「鶴丸国永、黙りなさい!」

「…………後で土産にどうぞ持って帰って下さいませ、お二方」

「お!良いのか!すまんな、いやいや」

「あああ、申し訳ない、申し訳ない、うちの鶴丸国永が……」


平に謝る男をよそに、鶴丸国永は湯飲みを持ち上げ茶を啜った。渋味を包むようなまろやかな香りが何とも言えず、文月と言えどまだ昼時にもならない、風通しの良いそこで飲む程よくぬるい茶は身に染みた。
これは本当に喜ぶな、などと鶴丸国永は考えながら、今にも此方に拳を振り上げてきそうな、しかし志乃の手前そうは出来ずに震えるばかりの男の背中を悠々と眺めた。本丸に戻れば落雷のごとく叱られることは分かっていたので、今から怯えるのは勿体無いというのが鶴丸国永の思うところであった。
ぱちり、と、そんな鶴丸国永が鐘楼に目を向けようとした時である。志乃の黒目がちな双眸と目が合って、鶴丸国永は湯飲みを戻した。いつの時代も、美しいという概念は変わらないものであった。


「それにしても、君のような人がどうして落飾なんか」


男と志乃が、鶴丸国永を見る。男と鶴丸国永の間の段取りでは、この後『審神者』の役割を説き、それに志乃を誘い込む予定であった。その前に審神者としての素質を見極める手筈であったが、鶴丸国永を付喪神と見て、今も鐘楼の屋根から烏天狗達が見守る志乃にそれは必要ない。そして鶴丸国永の問い掛けもまた、必要のないものであった。


「鶴丸国永、止しなさい」

「いや、しかし主、どうせこれは知っておくことだろう。違うのか?」

「そうだが、順序というものがだな……。それにお前、落飾というものがどれほど……」


ぎい、と鳴いたのは、縁側から身を乗り出した家鳴りであった。あの世のものとしか思えない姿をしたそれが、鶴丸国永を睨み付けていたので、鶴丸国永は思わず息を止める。それから鶴丸国永は漸く、落飾、髪を落とし仏門に下る事の重さを思い出して、顔を青ざめさせた。
鶴丸国永の目には、志乃は黒目がちな双眸が美しい、涼やかな人に見えていた。袖を抑える手つきも、廊下を歩く姿も、何処までも丁寧に育てられ、慈しまれてきた結果のもので、所作のひとつひとつが美しかった。洛中ないし江戸にいれば、志乃の絵は売れに売れただろうとも鶴丸国永は思ったし、そして、髪を落とした姿でさえも絵に描けば売れたのでは、と思った。此処にさえいなければ、名を馳せることの出来る器量の人だと。だからこそ、俗世から離れた此処にいることが不思議で、ついて口を出たのだった。


「……落飾、などと。高貴な身ではございません。出家でございますよ」

「いや、す、すまなかった、悪気はないんだが、訊いてはいけないことを、」

「いえ、お気になさらず。それに、周知のことにございますので」

「鶴丸国永、後で覚えておくことだ……。……しかし、周知のこと、とは、どういう……?」


拳を一度肩まで振り上げ、下ろした男に今度は怯えながら、鶴丸国永は情けなさや申し訳なさも相まって小さく身を縮めたが、その視線は志乃へと向けられた。
肩の下まで伸びた髪は、手入れをすれば美しいだろう。今でこそ輝きはないものの、そこに覗く過去の輝きは確かにあった。椿の匂いがしそうなほどだと、鶴丸国永はぼんやりと眺める。


「父は、京では豪商でございます。私はそこの一人娘でしたので、皆私を知っておられるのです」

「ははあ、成る程……。しかし、豪商とはいえ、皆、とまでもいくものですかね……?」

「……自分で言うより恥ずべきことはありませんが、昔、此処に来る以前、絵に、描かれたことがございます」

「おお、それはそれは!そうでしょうとも、お美しい人だと思っておりました」

「私など、あの子の方が、いえ、まあ、それもあり、名も、顔も、広まってしまい……あの長崎屋に嫁ぎ気が触れたとまで噂も流れたものですから……」


やはり涼やかな双眸で、志乃は言う。鶴丸国永は湯飲みを見下ろしたが、茶柱は底に沈んでいた。


「しかし、それは噂、でしょう」

「……火の無い所に、と、言います」

「…………あの、つまり、」

「ええ、気が触れた、とまでは言いませんが、確かにあの頃の私は、周りから見ればそうだったのでしょう」


取り乱すこと無く、そうだと言ってのけた志乃に、男も鶴丸国永も何も言わなかった。志乃が縁側に上った家鳴りを一匹つまみ上げ膝に乗せる間に鶴丸国永は胸の内に渦巻く得たいの知れないものを見付けたが、どうすることも出来ずに底に沈んだ茶柱を浮かび上がらせようと湯飲みを揺するしかなかった。


「嫁いだその日、事がありまして。泣きに泣く私を疎んじた夫は初夜だというのに部屋を分けました。まあ、それは私も悪かったのですが。しかし、夜が明けても陽が沈んでも、朝も夜もなく泣く私を夫は一度も慰めることなく、とうとう手付きもなく、いえ、それは幸いでしたが、そのまま父が私を呼び戻し、離縁となりました。何せ、長崎屋より、ええ、福乃屋は手広く商いをしておりましたから。難なく離縁出来ましたが、やはり、泣いてばかりの私は気が触れて見えたでしょう」


事も無げに、淡々と。志乃は一度茶を飲んで、鐘楼を眺める。烏天狗が翼を付け根から動かせば風が通り、縁側は涼しさを増した。


「仏門に下ると決めたのは、行方知れずだったあれが江戸に、お上に下ったと、堺から訪れた小さな猫又に聞いてからのことです。私はその冬、三年前の冬、髪を落としました。ああ、そうですね、もう、四年になろうとしていますね」


冬が来る度、髪を落とし直すのですよ。慣れてしまえば、楽なので。
女の命など、俗世に置いてきたのだろう。志乃は白い手首を揺らして髪に触れ、初めて目を細めてみせた。ふふ、と笑う姿は美しくあったが、鶴丸国永は奇妙な胸のつっかえを飲み込むことが出来ず、結局のところ、その日一人と一振りは茶を濁して帰ることしか出来なかった。

しかし、志乃に審神者の素質があるのは、男も鶴丸国永も、充分に分かった日でもある。
一日と空けずに男は志乃の元を訪れ、元の段取りであった『審神者』の役割を懇切丁寧に説き始めたのである。そして、それも今日で四度目。本来ならば一度で終わるそれを幾日にも分けて説いてきた男と志乃、そして鶴丸国永の関係は、少なからず、悪い方へは向かっていなかった。



「柳様、今日は何を話して下さるのですか」

「そうですね、昨日は歴史修正の話をしましたので、出陣方法など、そちらの話をさせていただきましょう」

「戦事も政事も、おなごには分かりませんよ」

「そうは言いましても、これもあなたを引きずり込む為ですので」

「……柳様は、随分とくだけてきましたこと。それより、そちらで後ろに隠しているものは何でしょう。傷むようなものでないのなら構いませんが」

「おおっと、気付かれていたか!驚きだぜ!」

「これ、鶴丸国永、何故まだ渡していない。団喜ですよ、住職様もこれならお喜びになるかと」

「ああ、それは、ありがとうございます。きっと喜ばれます」


男が受け取った手拭いの代わりに、鶴丸国永は志乃に藤色の風呂敷を手渡す。唐菓子の匂いが仄かに立ち上っていることに鶴丸国永は今更ながらに気が付いて、それを見下ろす黒目がちな志乃の双眸を見つめながら、首の裏を掻いた。まだ暑くもないのに、じとりと汗ばんでいた。



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