華の人 | ナノ
華の人





22××年 華之邸にて




風の通り抜ける茶室に、一人と一振りが座っている。南に座した小夜左文字は、主である男がいない今、北に座す女、志乃のふせた薄い瞼を惚けた様子で眺めていた。
──華のような人は、とうとう華の人になった。
華の人、と、小夜左文字の目の前に座する女、志乃は呼ばれていた。それは志乃の受け持つ本丸の庭に季節が巡る度に咲き乱れる白梅や桜、紫陽花からきたもので、小夜左文字が初めて自身の主である男からその呼び名を聞いた時、何と志乃に合った美しい呼び名だろう、と胸を押さえたものだった。何百年と生きた小夜左文字にとって志乃は今もなお、華を背に笑う美しい人である。
そしてそれは、まさにそのままであった。薄らと濡れたようにも見える黒目がちな双眸を、小夜左文字は盗み見るように窺った。志乃が飾り駕籠に乗ったあの日から今まで、志乃の身に幾つの春が巡ったのだろう。小夜左文字は考えながら、膝の上にあった指を折り数えてみる。
しかし、直ぐに諦めて小夜左文字は俯いた。
唇を噛み締めたのは、志乃の双眸に感じ取った年月の流れからではない。あの日よりも何故だか美しく見える志乃に、小夜左文字は一抹の不安を感じたのだ。
──志乃は、今が、幸せなのかもしれない。
自分の居らぬこの場所で志乃が触れてきただろう穏やかな流れを見せられた気がして、小夜左文字は目をふせた。この人は確かに自分に会いたかっただろうが、それでもそれはこの人にとって数ある欲求のひとつでしかないのだろうと、小夜左文字は思う。新しい下駄が欲しいだとか、筆を買い換えたいだとか、そういったもののうちのひとつでしかないと、そう考えた。それほど、志乃は嫁入りのあの日より、生気に充ちている。細く白い首筋が、そんなことはあるはずがないと分かっていても、小夜左文字には内側から陽が射しているように見えた。


「小夜左文字」


それでは私はこれにて!叫ぶように小夜左文字の主が近侍としてついていた一期一振を引っ張るように茶室を出ていったきり静まっていた空気が、震えを伝えた。小夜左文字はそろそろと顔を上げ、志乃を見る。ほっそりとした首を撫でる髪は、志乃が落飾した際に切り落とした髪だった。あんなにも美しかったのに、と、小夜左文字は残念に思ったが、志乃はさして気にならないのか、男が慌てて出ていったせいで半開きとなっていた襖から入り込む風をうけて、揺らめくように靡く髪を軽く押さえるのみである。けれどもそれがまた目に焼き付くように離れないのだから、小夜左文字は不思議であった。
黒目がちの瞳が、柔らかに細められる。小夜左文字はその瞳の中に自分がいることを、未だに信じ切れずにいる。華之邸とも呼ばれるこの本丸に来るまでも充分に心の臓は喧しかったが、今になってそれを上回った。志乃が、何百年ぶりに、自分の名を呼んだのだ。


「久しぶりですね、小夜左文字」


主ではないことを案じて、志乃は改まった様子で小夜左文字を呼んだ。それを小夜左文字は汲み取りながらも、やはり不安を感じずにはいられない。自分なんてものはとるに足らない存在なのだと、考えずにはいられなかった。
小夜左文字は間をおいて、視線を逸らすことなく小さく首を縦に振った。そしてひっそりと、膝においた両の手を重ね置く。先程まで喧しく走り回っていた心の臓は、改まった志乃の姿によってその身を潜めたかのようだった。小夜左文字は、耳から中へと、冷えていく気がした。


「熊の方の元で、大層よく働いていると聞きました」

「………………」

「ああ、小夜左文字、あなたの主のことですよ。歩く姿が熊のようでしょう」


──志乃は、主ではないのだ。
主である男の姿が、小夜左文字の頭に浮かんでは消えていく。がに股で歩くその姿は確かに、と思う前にそれは見えなくなってしまい、小夜左文字は頷くに頷けなかった。頭にちりりと痛む言の葉が酷く焼き付いて、小夜左文字は重ねた両の手をきつく握りしめる。


「熊の方の本丸では、多様な刀剣がいるとか。私の元には何故だか三条ばかり……」


言って、志乃は髪を梳く。黒目がちな双眸は一瞬影に入り込み、直ぐに何事も無かったかのように小夜左文字を見た。小夜左文字はその影に気付いた気がしたし、もしかしたら気のせいかもしれない、と思ってもいる。小夜左文字の中に確かにあったはずの志乃の姿は今や陰り、自分はその陰りを断ち切る守刀ではないのだと、小夜左文字は感じていた。
この華之邸に踏み入る際、男と小夜左文字、それから一期一振を迎えた刀剣、三日月宗近の月夜の双眸に見入られたせいかもしれない。その脇に立つ小狐丸の燃える双眸に、後退りしたせいかもしれない。小夜左文字はその時確かに一種の畏れを抱き、その身を固くした。今になってその畏れが形となって背後から襲いくるように思えて、小夜左文字は思わず奥歯を噛み締める。
"小夜左文字"とは、只の短刀に他ならない。逸話こそ悍ましいものではあるが、しかしやはり、"小夜左文字"は短刀であり、況してや天下五剣でもない。夜目はきくが、とは思えども、小夜左文字にとって、自身が"小夜左文字"であることが今だけは酷く恥じた。


「……もしやすると、小夜左文字は、もう私には会いたくないのか、と」


消え入るような声は、小夜左文字には届かなかった。耳を撫ぜられた気のした小夜左文字がどうにか視線を上げると、志乃は双眸を一度だけうっそりと閉じ、それから口許を袖口で覆い隠した。
小夜左文字の腰が、一寸浮かぶ前に志乃は立ち上がる。衣擦れの僅かな音だけを洩らして、志乃はそのまま襖を大きく押し開き、部屋の縁に立った。小夜左文字からは、庭に咲き誇る桜が見えた。あの日蕾にすらなり損ねた桜の下で、小夜左文字を見た志乃の姿を思い出す。何百年と経っても、小夜左文字はその姿を、瞬きのように短かった日々を共に過ごした志乃の姿を全て、忘れられずにいた。きゅう、と、胸が締め付けられる感覚に、小夜左文字は息を細めることしか出来なかった。


「もう、会えないかと」


やはり消え入りそうなその声ではあったが、今度は確かに小夜左文字の耳に届けられ、小夜左文字はまた一寸腰を浮かす。しかし、何故立ち上がることが出来るだろう。小夜左文字の中にあの日の志乃の姿が再び甦ったが、小夜左文字は首を振った。志乃の手をとるのは、自分ではないのだ。
そういった小夜左文字の考えを揺るがせたのは、志乃の肩の震えであった。
志乃の震えに気付いた小夜左文字は、とうとう膝で立つ。持ち上がった右手をどうすべきか悩んだ末、小夜左文字はその手で畳を押して立ち上がり、そ、と志乃の一歩後ろへ歩み寄った。
首をもたげて、小夜左文字は志乃の横顔を見る。肩の上でざんばらに広がる髪に、もう珊瑚の珠飾りが光ることはないのだろう。庭の桜は若いのか、安閑と咲く其処に花の付喪神はいない。それでも小夜左文字の目の前には、あの日と同じ十の志乃が立っている。頭の後ろ側では、十五の悩み多き弁天様が飾り駕籠に揺られて遠ざかり、白梅を髪にさした七つの志乃がそれを見つめている。


「良かった、小夜、小夜が無事で、本当に、」


──このひとは、何一つだって、変わってやいないのだ。
小夜、と、呼ばれるままに、小夜左文字はいつの間にか志乃の袖口を握っていた。は、と息を潜めた志乃の袖口を引いた小夜左文字はそのまま志乃の手を手繰り寄せ、その白く華奢な指に触れ、胸にしまい込むように握りしめた。そのまま無我夢中で志乃の腕を引き、小夜左文字はとうとう志乃の胸に顔を埋める。
このひとは、一体どれだけ必死に自分を探しただろう。眠れぬ夜を明かしただろう。自分を責めて、苦しんだのだろう。女が髪を切り比丘尼となることの意味の重さや大きさを今更に知って、小夜左文字は震え上がる気持ちになった。あれは、生きながらの死だ。小夜左文字は思い、そしてこれもまた死なのだときつく目を閉じた。"此処"へ来て審神者になった志乃は、元の世では荼毘にふされたことになったのだろうと、小夜左文字には理解が出来てしまった。志乃は、たった一振りの刀剣に何時しか宿った付喪神のために、二度死んだのである。
──他ならない"小夜左文字"のために、この人は生きるのだ。
喉元までせりあがる奇妙なものに、嗚咽のようなものを漏らした。幸福とも悲哀とも言い難いそれを小夜左文字は知らないし、これから先知ることもない。小夜左文字がそれを感じたのは、これきり、たった一度のことだった。
細く薄い背中に、小夜左文字は必死にしがみつく。それを飲み込む勢いで志乃は小夜左文字を掻き抱いて、志乃はその時初めて、小夜左文字の天色の旋毛に鼻先を触れさせた。


「小夜、ごめん、ごめんね」


草木薫る小夜左文字の髪に顔を埋めて、志乃は言う。その言葉に小夜左文字は首を横に振りながら、一層双眸をきつく閉じた。
瞼の裏で、白粉ののせられた志乃のなめらかな頬を、伝っていくものがある。それと同じものが流れているのを、小夜左文字は感じていた。


「会いたかった、志乃にずっと、会いたかった」


華之邸にて、小夜左文字が漸く口を開いて出たのはそれだけである。溜めに溜めていたものは洪水となり、小夜左文字の双眸を濡らし、小さな傷だらけの手を震わせる。それを知ってか、志乃はそれ以上何も言わず、小夜左文字の髪に顔を埋めるばかりであった。
──ああ、漸く。漸く、この手に。
小夜左文字は思いながら、背中に回された志乃の手の温もりを確かめる。それは華のようにやわらかで、華のように甘い、志乃の白い、華奢な手であった。触れたいと何度も願っては、終ぞ重なることのなかった、あの手であったのだ。




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