華の人 | ナノ
華の頃





2205年 本丸にて



そろそろと、撫でるように小夜左文字の天色の髪が風に揺れる。縁側に腰掛け小夜左文字が眺めていたのは土を弄る鶴丸国永の後ろ姿で、その目は今にも閉じられそうだった。
それに気付いた鶴丸国永が、白い肌を土で汚して立ち上がる。うとうとと船を漕ぎだした小夜左文字に大股で歩み寄ったが、小夜左文字は何も反応を返さない。
ほほう、と、鶴丸国永が何かを思案し、笑ったその時だった。


「これ、鶴丸、小夜に何をするつもりかね」


年嵩のいった、男の低い声が鶴丸国永の肩を叩いた。


「おっ、とー、もうセイフとのカイギとやらは終わったのかい。別に、何もしてないぜ?」

「そうか。それでは私の思い過ごしだったみたいだ、悪かったね」

「いやいやいや、はは、ははー……じゃっ!」


小皺のある目尻に、鶴丸国永は嫌な気を感じて、そそくさとその場から逃げていく。その後ろ姿を見ていた男は、何て逃げ足のはやいやつだ、と見ていたが、くい、と袖を引かれ、男は鶴丸国永の背中から視線を外した。
天色の髪に埋もれそうな目が、男を見上げている。控えめに握られた袖に男は気を良くして、今しがた船からおりたらしい小夜左文字の目線に合わせるようその場にしゃがみこんだ。


「おはよう、小夜。寝るなら部屋で寝なさい。いつ誰に何をされるか分からないからね」


そうだね、と、冷めた声で返ってくることを、男は期待していた。それが帰ってきたら、今度から鶴丸国永に近付いてはいけないよ、と、鶴丸国永への悪戯のつもりで応えを用意していた。
しかし、男の予想に反して、小夜左文字は何も返してこない。それどころか酷く青い顔で俯いていて、男は困惑した。
男にとって小夜左文字は、三本目の刀剣男士である。近待である加州清光曰く、面倒なやつ、というのが小夜左文字であった。初めて体を手にいれたその日、小夜左文字は喜ぶでも驚くでもなく、永すぎる眠りから覚めたその瞬間、ぼろぼろと涙を溢したのであった。その理由を、男は知らない。訊いたところで、もしかするとぴんとこないのでは、とも思っていて、訊くに訊けずにいる。まるで年頃の娘を持ったようだと、独り身の長い男は思っていた。
そんな年頃の娘のような小夜左文字が、顔を真っ青にして言葉も紡げずにいることを、男は良しとはしない。恐る恐る、気遣うように小夜左文字の肩に手を置けば、小夜左文字は震え上がるように肩を揺らした。


「小夜、どうした。何かあったのか」


目線を合わせようと男は試みるが、しかしやはり返事はない。小夜左文字は視線を彷徨かせ、男の手から逃げるように体を捻った。
鶴丸国永への悪戯をした後は、今日出会った別の時代の審神者の話でもして聞かせようと思っていた男であったが、それは叶わないらしいと直ぐに覚った。
嫌がる小夜左文字を捕まえておく理由など持ちはしない男は、仕方なしに小夜左文字を離す。てっきりそのまま先程の鶴丸国永よろしく逃げ出すものかと思っていたが、小夜左文字は男の手が離れると落ち着いたのか、幾分か顔色を良くして少し離れた場所から男の様子を窺っていた。主である男から逃れようとするなど、なんと言われるか。小夜左文字は不安なのだろう。しかし男は小夜左文字がその場に留まったことがことのほか嬉しく、小夜左文字を咎める気など沸き起こるはずもなかった。


「落ち着いたかい、小夜」

「…………ご、ごめんなさい」

「良いんだよ。変なことを言った私が悪かった。許しておくれ」


自分の何が悪かったのか、男はいまいち掴みかねていたが、それでも非は自分の行いか言葉にあるのだろうと頭を下げる。そして、それを拒絶しない小夜左文字を見て、どうやら言葉が悪かったのか、と、男は自分が口にした言葉を思い返していた。しかし、何の気なしに言ったものを覚えていられるほど男の頭は若くない。何を言ったか、とうんうん唸っているうちに、今度は小夜左文字が頭を下げた。
男は慌てて、小夜左文字を起こそうとする。しかし、肩に手が触れる直前で思い止まり、男は奥歯をかむ。また、小夜左文字が震え上がるのを、男は想像してしまった。


「……ごめん、なさい」


男を気遣う言葉を口にするでもなく、小夜左文字は謝罪する。それからそろりと顔をあげ、小夜左文字はとうとうその場から立ち去ってしまったのだった。
口許を撫でて、男は首を捻る。近待の加州清光もなかなかに厄介な刀剣であると男は思っていたし、今日そのことを知り合ったばかりの審神者に笑い話として話したばかりであった。これはどうにも笑い話には出来まい。男はまた口許を撫でて、どうしたものかと唸る。若くない頭では、やはり考え付かなかったのであった。


さて、小夜左文字は、庭で木刀を手にし、一期一振に教えを請う藤四郎達を避けるように、音もなく部屋へと駆け込んだ。十二振りしか男士のいない本丸は此処くらいであると、男が笑いながら言っていたことを小夜左文字は思い出す。あの時男は少しばかり肩を落としていたので、小夜左文字も次の出陣では新たな刀剣を、と思っていたが、今となれば十二振りしか男士のいないこの本丸がありがたかった。多ければ多いほど、小夜左文字は誰にも見つかることなくひとりきりで部屋に隠ることなど出来なかった筈だ。
襖を静かに閉めて、隅に縮こまる。膝を抱えて座れば何処からともなく柔かな視線が降ってくる気がしたが、気のせいであった。窮屈だと咎めるような声も、聞こえてこない。
胸の辺りががらんどうになるのを感じて、小夜左文字はその場にぺったりと伏せる。畳の匂いだけを吸い込んで、目を閉じて、ぎゅっと耳をふさいだ。ごうごうと、川の流れのような音だけが頭のなかで渦巻いていた。
──いつ誰に何をされるか、分からない。
男の言葉に棘がないことを小夜左文字は分かっていながら、その言葉が離れない。いつもは何とも思わないはずの鶴丸国永の後ろ姿があまりに真っ白だから、夢を見たのだ。夢を見たから、重なったのだ。玉虫の紅を塗って、ふふふと笑った、金糸の鶴が舞う、あの白無垢を。
どうなったのだろう。あれから、どうなったのだろう。小夜左文字は、伏せたまま考える。浪人に売られ、町人の手にわたり、そして江戸へと下ることになった小夜左文字には、到底分かる筈がない。おとせの逃げていく姿を横目に見たっきり、そこから小夜左文字の意識ははっきりとしていなかったのである。とうとうぷっつりと途切れたのは、江戸に下ることが決まってからのことだ。
小夜左文字は、その後のことを考えるのがたまらなく怖かった。夜も眠れなくなる。水ですら喉を通らなくなる。それでも考えてしまうのは、小夜左文字にとって志乃が無くてはならない存在であったからだ。
浪人がもし志乃を襲っていれば。あの浪人がもし、長崎屋から仕向けられたものだとしたら。長崎屋へ嫁いだ志乃が、酷く悲しい思いをしていたら。小夜左文字はそれを考えるだけでがらんどうになっていた胸に後悔が押し寄せてきて、忽ちに飲み込まれてしまう。
飾り駕籠から伸びる手に、この手を重ねれば良かったと。


「志乃っ……」


重ねたところで何も変わりはしないことを、小夜左文字は気付かない。それでも後悔が押し寄せてきては飲み込まれてしまうばかりで、小夜左文字はたらればを考えては息を継ぐことしか出来ずにいたのだった。




同年 本丸 男の部屋にて





「……僕が?」

「ああ、そうだよ。ちゃんと伝えたし、任せたからねー」


ひょいひょい、と手を振って、加州清光は背を向ける。小夜左文字はただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
部屋に隠ったあの日から、もう一月が過ぎていた。新たに二振りの男士が加わった本丸では、近頃は専ら鍛練ばかりが行われている。時の政府に呼ばれ、男が本丸を留守にすることが増えたことも理由であった。
そんな本丸で、小夜左文字はただひとり居場所を作れず浮いていた。同じ左文字の刀がいないせいもあるのかもしれない。新たな二振りは、どちらも藤四郎であった。
そんな小夜左文字に、加州清光は何を思ってか主、男の出迎えを小夜左文字に言い付けたのである。男は今日も呼ばれ、本丸を留守にしていた。もう四半刻もすれば帰ってくる頃である。しかし、小夜左文字はその四半刻が短く感じて仕方がない。あの日から男とは、ろくに顔を見合わせることが出来ていなかった。
──話は、何度か、していたけれど……。
桜は好きか。稲荷は好きか。梅や紫陽花はどうか。菓子は何が好ましいか。甘茶は、好きか。男は本丸に帰ってくる度にひとつの問い掛けを土産に寄越し、小夜左文字に笑いかけた。それに頷くなり答えるなりしていれば、男はふむふむと口許を撫でて、頷くのである。そうして昨日は、どんな髪飾りが好きか、と問うてきたので、女でもないのに、と思いながらも、珊瑚の珠簪と答えたのだった。十の頃から、志乃が好んで挿していた簪がそれであった。それに男は、やはり、と頷いたのだった。


「……あ、」


遠くから、床板の軋む音が響いてくる。重くゆったりとしたその音が誰のものなのか気付いた小夜左文字は、考えていたことを全て放り出して音を迎えにいく。
さっぱりとした紬の着物を着た男は、右手に竹筒を持っていた。


「おや、小夜、お迎えかい。嬉しいねえ」


男はそう言って、背負っていた荷を小夜左文字に手渡す。見かけほど重くないそれには、書類が数枚入っているだけだった。
自室へ向かおうとぎしぎし床板を鳴らし歩く男の一歩後ろを、小夜左文字は追い掛ける。時おり男はそんな小夜左文字を振り返り、何か言い淀んだが、うんうんと唸り口許を撫でるだけだった。


「ねえ、小夜」


男が再び口を開いたのは、男の部屋にたどり着いたその時である。
襖を開けようと手を伸ばしていた小夜左文字の動きを遮って、男は話しかける。それに小夜左文字は恐る恐る振り返ったが、目を見ることはしなかった。もう随分と目を見ていないのだ。一月もそれが続けば、例え土産に問いを寄越してこようと目を見ることは難しい。小夜左文字は男の足元に視線を落とし、言葉の続きを待った。
しかし、小夜左文字が待てども、男は続きを話さない。襖を開けるでもない。小夜左文字が目を合わせるのを待っているのだと、行動で訴えていた。
つ、と、小夜左文字の頬に汗が伝う。とうとう小夜左文字は諦めて、天色の髪の隙間から男を見上げた。
男は、にい、と笑っていた。


「小夜、ひとつ訊いても良いかい」

「…………うん」


いつもの問いが始まった、と、小夜左文字は身構える。何せ前の問いは、髪飾りについてである。変わったことを訊かれるのだと、小夜左文字は思いきっていた。
男が手に持つ竹筒から、ちゃぷんと水の揺れる音がする。小夜左文字は一度だけ視線を落として、それから男を見上げた。男はやはり、笑っていた。


「もののけと、呼ばれたことは、ないかい」


何を問われたのかが分からず、小夜左文字は首を傾げる。一拍の間をあけて、それは小夜左文字に襲いかかってきた。
──母上、あそこにもののけが
──やっと見付けたわ、もののけさま
小夜左文字の双眸が、溢れんばかりに見開かれる。男の手にある竹筒がちゃぷんと揺れて、小夜左文字は後ずさった。


「私達はね、色んな時代に生きている。この時代の審神者は私だけれど、この間、私は私よりもずっと前の時代に生きている審神者と話したんだよ。彼女は私よりずっと若くてね、とても綺麗な人だった」


玉虫色に光る、不思議な紅を塗っていたなあ。
男はそう言って、小夜左文字の前にしゃがみこむ。


「小夜のことを知りたくて、相談をしたんだ。何が好きか、どんなことが好きか、何を考えて、見て、生きてきたのか、知りたくて。彼女はなんとあの名刀三日月宗近を迎えたらしくてね、なかなかに素性を明かさずからかってくるものだから、手を焼いているそうだよ。あの子はもっと、君はもっと、素直で良い子だったってね」


小夜左文字は、喉のかわきを覚えていた。かつてこれほどまでに喉がかわいたことなど、小夜左文字には無い。走り抜けてきたかのように息が上がり、足元はぐらぐらと揺れている。立っていることがあまりに苦しくて、小夜左文字はとうとうその場に座り込んだ。


「その人の話をしよう。その人は、江戸から京へ移り住んだ商人の娘だったそうなんだ」


そ知らぬ顔をして、男は話しだす。曰く、知り合ったばかりのその娘とは、京は洛外一の豪商の一人娘であった。
六つであった年幼き娘は、商売の繁盛を願って稲荷へと参った。そこで出会ったのが、なんと天色の髪を持つもののけである。しかし、娘の言葉を大人は誰も信じない。それが面白くない娘は度々稲荷へ赴きもののけを探すが、その姿を見付けることはなかなか出来ない。七つになりそのもののけ、とある刀の付喪神と再会したのは、子盗りと思われる浪人が結んだ縁であったのだ。
それからの話は、小夜左文字にとってありありと情景が浮かぶものだった。庭の桜。手習いの帰り。一分咲きにも満たない桜の下で、娘はいつか自分だけが年老いて、天色の付喪神を置いていってしまうと悲しんだこと。料理屋から飛び出し、川沿いを歩いたこと。甘茶なんか家で飲めと言われ、何とわからず屋なのかと呆れたこと。嫁入りを、決めたこと。
男は淡々と話し、時折小夜左文字を気遣うように視線をやる。小夜左文字はそれに応えることが出来ず、ただ黙って耳だけを働かせていた。


「……嫁いだその日、祝言の後で、刀を盗られたことを知ったらしい。それはそれは悲しくて、辛くて、泣いてばかりだったそうだよ」


小夜左文字の胸を、きゅ、とつく。そんな小夜左文字を見て、男は困ったように頭を掻いた。話を続けることを憚ったのだが、しかし、小夜左文字は黙って口をつぐんでいる。
やれ、と一度息をついて、男はまた話しだした。


「泣きに泣いて、泣きながら、京を巡ったらしい。どこかにその刀が売られている筈だからと。けれど結局分かったのはお上がその刀を気に入り江戸に下らせたことだけだった。間に合わなかったんだよ」


男はそう言って、竹筒を揺らす。小夜左文字は気付けばぼろぼろと涙を溢していて、どうにも止めることが出来なかった。


「……一年経って、福乃屋は、長崎屋とは縁を切ったらしい。それからその人は髪を落とし、政府に呼ばれ、私と同じ、審神者になったそうだよ」


男が、竹筒を小夜左文字に差し出す。それをみとめた小夜左文字は、手を動かすことも出来ず、男を見上げる。
小夜左文字の頭には、あの黒目がちな目があった。福乃屋の一人娘、小町と呼ばれ、弁天様と呼ばれた、志乃の美しい、黒目がちな双眸が。
一緒にいようと、いたいと、咲いてもいない桜の下で、話したあの志乃の双眸が。


「これを、小夜にと」

「あ、ああ、」

「甘茶だよ。結局、飲みには行けなかったからと」


幸せになれるかしらと、志乃は呟いた。浪人に奪われたあの日から、小夜左文字は志乃がどうなったのか知る由もなかった。それが今になって、男の口から語られたのだ。
差し出された竹筒をどうにか受け取って、小夜左文字はそれをきつく抱き寄せる。ぼろぼろと涙を溢れさせながらも、小夜左文字は唇を噛み締め声はもらさなかった。泣き方を知らない子供に見えると、男は密やかに、そう思った。


「今度、その人に会いに行こう。きっと、とても、良いことだと思うんだ」


男の言葉に小夜左文字はただ頷いて、ぎゅっと目を閉じる。小夜左文字の瞼の裏には、鴇色の絽友禅を着た志乃が、ふふふ、と笑っていた。

竹筒から、茶が甘く匂いたつ。小夜左文字はその夜、夢を見た。梅、桜、紫陽花に囲まれて笑う、華のような美しい人、志乃の夢を見た。紫陽花を玉虫に染めて笑う、志乃の手を握る夢を。




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