華の人 | ナノ
紫陽花の頃





1726年 京 洛中にて




今だかつて此処まで眉をつり上げた志乃を、小夜左文字は見たことがない。
小夜左文字にとって福乃屋の一人娘、志乃という娘は、平素穏やかな人柄であった。手代の松吉が誤って志乃の簪を落とし、そこからぽろりと外れた珠の飾りを縁側の下へ転がり落とした時、志乃は仕方がないと笑うだけであった。丁稚の竹吉が廊下で滑り転げ手桶の水を志乃の足先にかけた時だって、怒り狂う父、藤次郎の腕を掴んで自ら嗜める程であったし、おとせが帯を締めすぎて志乃の顔を青くさせた時も咎めることはしなかった。
そんな志乃の眉が、今や活きの良すぎる魚がかかった釣糸のように、ぴんときつくつり上がっていた。
──どうしたら良いんだろう。
京の洛中は、人が多い。小夜左文字は江戸はどうであるか知りもしないが、ここまでの人混みは初めての事である。刀の付喪神である小夜左文字は刀からあまり遠くに離れることは出来ない。付喪神として自我を持ち始めたはじめの頃こそその当時の持ち主が小夜左文字を持ち歩いていたので城下や村を見て回ることが出来たが、それから先はずっと伏見稲荷の倉である。毎朝毎夜飽きずに詣る参拝者を眺める日々を送っていた小夜左文字にとって、この人混みは目が回る。たまらず志乃を呼び止めようとする小夜左文字であったが、志乃は先の通り酷い剣幕であった。


「……駕籠に、乗ってくるべきだったわね」


とうとう小夜左文字が諦めて、その場に立ち止まろうとした時である。
じゃ、と下駄で砂を軽く繰り上げ、志乃は小夜左文字よりも一足早く立ち止まる。ほ、と小夜左文字は胸を撫で下ろしながらその隣で漸く足を止めることが出来て、誰とぶつかるわけでもないが、誰ともぶつからないようにそっとその身を志乃に寄せた。
十五になった志乃の背丈は、小夜左文字よりもずっと高い。おまけに下駄の歯もあるものだから、掌二つ分はあるだろう。小夜左文字は刀身のこともあり小柄な方であったが、志乃もまた娘にしては長身な方であった。
そんな志乃は、今日はいつにもまして豪華絢爛な着物に身を包んでいる。洛中は大文字屋隣料理屋にて、その場を貸し切った茶会があったのだ。茶会という名の、軽い見合いが。


「父上と母上は、今頃どうしてるかしらね」

「……戻ろうよ。きっと心配してる」

「…………もう少し、歩きましょう。今はまだ戻りたくないのよ」


志乃はそう言って、ふう、と大きなため息を吐いた。すれ違う人はみな志乃の着物の豪華さに振り返るが、話し掛けてくることはない。洛中には、大店が多い。故に志乃のように豪華な着物の袖を揺らして歩く娘は、いることにはいたのだ。
それでも、志乃が一番目を惹くのでは。小夜左文字は、横目で志乃を見上げながらそう思う。
黒目がちな志乃の瞳が、すい、と小夜左文字を掬い上げる。は、と慌てて目をそらす小夜左文字であるが、志乃はとうに見られていたことなど気付いていた。それでも志乃は口角をきゅっとすぼめるだけで、何をそんなに見つめてくるのかと問うことはしない。付喪神として生を受けて幾年と経つ小夜左文字の、自分よりも幼い視線の誤魔化し方が、志乃は実のところ好ましくさえ感じていた。


「彼方に行きましょう。甘茶があるの。来るときに見たのよ」

「甘茶……?」

「茶に砂糖を溶かしたものよ。少し値はするけれど、今日くらい良いでしょう」

「…………今日くらい?」

「あら。私が毎日贅を尽くしているとでも」


人混みの中では、一見して大きすぎる独り言のように見える志乃の声も目立ちはしない。
志乃はしゃらしゃらと髪に挿した簪から垂れる鈴を鳴らしながら、馴れた足取りで進んでいく。その後を小夜左文字は追い掛けて、二人は川沿いに出た。
雨が降る匂いがする。すん、とどちらからともなく鼻を鳴らし、歩幅は狭くなった。川に映るひとり分の影は、泥水を混ぜたように濁っている。もう直ぐ雨が降るようだ。


「何にも見えないね」

「上の方で降ったみたいね。雨の匂いもする」

「うん。……甘茶は、帰って飲みなよ」

「小夜ったら分かってないのねえ、余所で飲むから甘いのよ。帰ってからじゃ意味がないの」


暗に、雨に降られて風邪をもらう前に帰ってはどうか、と志乃の身を案じた小夜左文字であったが、そうとは知らぬ志乃はあっさりとそれを袖にして、川沿いを進んでいく。ふ、と、そんな志乃の後ろで、小夜左文字は小さすぎるため息を溢した。
小夜左文字が帰りを勧めたのは、雨のせいだけではない。確かに小夜左文字は志乃が雨に降られ風邪をもらうことを良しとは思わないが、小夜左文字の頭にはつい先程まで料理屋で膝をつき合わせていた男のことが気にかかっていたのだ。わざとらしく志乃の父、藤次郎に酒を引っ掛けさせ、汚れた着物は気にはしないから、と言いながら志乃に笑いかけたあの男を。
十五になった志乃は、娘の面影を小指にひっかけ、大層美しい女になっていた。大店福乃屋の一人娘ということもあってか評判が評判を呼び、絵師が志乃を描いたこともある。小町と呼ばれ、弁天様と呼ばれ、京では珍しく上方訛りのない喋り。洛中洛外の次男坊達が挙って縁組みを申し出たくなる娘が、福乃屋の志乃なのだ。小夜左文字の前を狭い歩幅で歩く、志乃なのだ。
──さっきの男は、嫌な奴に決まっている。
縁組みを申し出てくる家など、福乃屋には山のようにある。その山からいくら番頭や手代が金の粒を掴み引っ張り出したと思えども、それが金箔塗りの石ころでしかないことは何度となくあった。女癖の悪い次男坊に、婿入りさえして暖簾分けさえ出来ればと望む呉服屋。今日膝をつき合わせたその男は、こざっぱりとした笑みの後ろ側に、この縁組みが決まれば幾ら懐が温もるのかと換算する煌々とした視線がいたことに、小夜左文字は気付いていた。
そして、福乃屋の一人娘の縁組みとはそういうものでしかないのだということにも、小夜左文字は気付くほかない。


「……ねえ、小夜」


転がる小石を、志乃は川へ蹴り落とす。水面を揺らし沈むそれに川に住まう主がぬっと顔を出したが、志乃の顔を一瞥して深く深くへと潜っていく。付喪神の見える志乃は、京のそういった類いにも知られた顔になっていた。


「私、幸せになれるかしら」


小夜左文字が応えないので、志乃は独り言のつもりでぽつりとこぼす。それを勿論小夜左文字は聞いていたが、黙って後ろを歩くだけだった。
志乃は今、山に手を突っ込んでいる。その中のひとつが金の粒になることを願って、志乃はそれに決めようとしていた。男の家は、回船問屋も営む福乃屋には魅力的に映る、造船屋を営んでいたのだ。
それでも、酒で汚れた着物の代わりに娘をくれなどと暗に言うような男を、小夜左文字は良しと思わない。思わないが、それを言ってしまえば志乃はこの先の短い人命を福乃屋の一室で終えてしまう気がして、小夜左文字は小さな口をきゅっと噛み締めることしか出来なかった。


「あ」


志乃が徐に立ち止まり、小夜左文字は顔を上げた。
すい、と空を向く志乃の瞳を追いかけて、小夜左文字は上を見る。いつの間にか渦を巻くように真上に流れてきていた雨雲から、ぽとりぽとりと滴がこぼれてくる。とうとう雨が、降りだしてしまった。


「志乃!ああ、志乃!待ちなさい!」


どうしたものか、と顔を合わせたその時、二人の間を低い声が走り抜けていく。
声の持ち主は、父、藤次郎だった。藤次郎は着物の裾を、どこで汚したのか泥に濡れさせ走ってくる。
その後ろを駕籠に乗せられ追いかけてくる母親の姿も見える。怒りのせいか、と志乃と小夜左文字が揃って身構えるほどに二人の双眸は赤かったが、どうやら違ったようだ。志乃にすがり付くように肩を掴むなりおいおいと泣き出した藤次郎に、志乃は困惑してしまう。駕籠からおりてはこないものの、中からすすり泣きだけは聞こえてくる。小夜左文字は、見付かりもしないのに、気まずさから志乃の後ろにそっと身を隠した。


「悪かった、私が悪かった。どうか、行かないでおくれ。もう縁組みなど、ひとつたりとて持ってきやしないから」

「……泣かないでくださいな、どうか、どうか」


ああ。小夜左文字は、頭を抱えたくなる。志乃の声色がことのほか柔らかいこと、先程までの妙に思い詰めたような顔、それらを頭のなかで巡らせて、何とはなしに、答えは出てしまっていた。
藤次郎の肩に、志乃は手をのせる。これではどちらが親か分からないと小夜左文字は思ったが、何も口にはしなかった。
皺のある目尻に、涙が光っている。藤次郎の頬に、志乃の指先がなぞるように触れた。駕籠から伸びてきた白く細い腕をとった志乃はさらさらと降る雨を一瞥し、きゅ、と口を結んでみせる。
その顔はもはや、ただの志乃ではない。福乃屋の一人娘、小町と呼ばれ、弁天様と呼ばれた、志乃であった。


「私はあのお仁と、夫婦になります。あのお仁と、添い遂げましょう」


止まりかけていた藤次郎の涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちてくる。志乃は母親の細い手を握りながら、降り落ちてくる雨をまた一瞥した。その後ろで小夜左文字はひとり、肩を落とす。これで良かったのだろうか、と、誰にも拾われることの無いため息を溢すことしか、小夜左文字には出来なかったのだった。



1726年 京 洛外 福乃屋にて




事の起こりはいつだったのだろう。もしかすると初めからそうだったのかもしれないと、小夜左文字は後になって思うことになる。

裏店に咲いた紫陽花の花をいくつかぎやまんの皿に浮かべた志乃は、部屋の隅で膝を抱えて座る小夜左文字を見た。窮屈そうな座りかただ、と何度となく志乃が口にし、その度に小夜左文字はこれが落ち着くのだと首を横に振ったが、今日は志乃の視線に気付くなりそろそろと足を崩したのだった。
水無月は吉日。一粒万倍日。志乃はあと四半刻もすれば、造船屋、長崎屋へと移るのである。勿論の事小夜左文字は志乃の守刀として付き従うのため、明日も明後日も志乃と変わりなく過ごすこととなる。それでも 、小夜左文字は畏まった。その身に心の臓などあるかは分からないが、確かにちくちくとした違和を感じていたのだった。
──嫁入りというのは、物悲しくなるものなのか。
紫陽花を大皿に浮かべる志乃を、小夜左文字は見る。その手も、手付きもいつもと変わらないが、その手を上に追いかけると真っ白な織物が眩しい。金糸で鶴を織ったその白無垢姿は、まさしく弁天様であると小夜左文字は思った。
おとせが見れば、目をひんむいて倒れてしまうだろう。豪華絢爛な白無垢姿に、そして、濡れることを厭わず紫陽花を大皿に浮かべていくその姿に。


「志乃、もう止めなよ……」

「あら、どうして」

「それ、濡れたら大変なんでしょう?」


それに、そんなことをしても。小夜左文字は言いかけて、口を結んだ。志乃は続きを促すことなく、紫陽花を片隅に置いてただ微笑む。
意味がないことだと、志乃も小夜左文字も、分かっていた。明日になれば、この部屋は主を失いただの部屋となる。そこに笑い声が響くことは、滅多としてなくなるのだ。
志乃は唇に乗せられた玉虫紅を小指でなぞり、指の腹についたそれをまじまじと見つめる。それから紫陽花の花弁でそれを拭って、最後にひとつ、ぽとんとぎやまんの大皿に紫陽花を浮かべた。志乃は四半刻後、駕籠に乗せられ大名行列の如く長崎屋へと嫁いでいく。祝言から帰った藤次郎は、きっと志乃の居らぬこの部屋を覗きに来るだろう。その時もぬけの殻となった部屋が、どれだけ悲しいものか、想像も容易い。


「……小夜、ここにいたければ、父の守刀になっても良いのよ?」

「あの人の腹に挟まれるなんて、きっと苦しいと思うよ」

「それは駄目ね。止めておきましょう」


く、と喉を鳴らして、志乃は笑う。それに何故だか小夜左文字は心底ほっとして、その日初めて口許をゆるめてみせた。嫁入りのためか、今朝からずっと緊張したように真一文字に結ばれていた小夜左文字の唇である。解れたそこから途端に溜めに溜めていた水流が溢れ出すように、小夜左文字は話し出した。


「僕、誰かの嫁入りなんて見るの、初めてだ」

「あら、そうなの?私よりずっと長生きなのに」

「寺に預けられたこともあったし、神社に預けられたこともある。そのずっと前は、人の手にあったけれど、志乃とは縁の無い、もっと、暗くて寒くて、嫌なところにいたんだよ」

「……そう」

「あの日、稲荷で志乃に貰われて、良かったと思ってる。志乃を助けて、本当に良かったと思ってる」


まさか自分が、血生臭い浮き世からこんなに柔らかな陽の下に来られるとは。
小夜左文字は胸をそっとなでて、口をもごもごと動かす。今さらになって、羞恥心が襲ってきた小夜左文字であった。ろくすっぽ話すことをしないせいで、珍しく大いに働かせた口が疲れた気もする。
目を張る志乃を、小夜左文字は足を揃えて見上げる。小夜左文字の目の前には、福乃屋の一人娘でも、小町でも弁天様でもない。これから嫁ぐ女でもない。ただの志乃が座っている。志乃は黒目がちな目を潤ませて、小夜左文字を見ていた。片隅に置かれた紫陽花に触れた指先が、震えている。
その手に触れたいと、腹の底から強く想ったのは、初めてかもしれない。


「僕を見付けてくれて、ありがとう、志乃」


白粉をはたいた志乃の滑らかな頬を、つう、と涙が滑っていく。それに小夜左文字はぎょっと目を見開いて、思わず腰を浮かせたが、志乃は直ぐに華やかな笑みを浮かべ、胸元を撫でた。
小夜左文字は、そこにある。白無垢の下に、収まっている。
頭を撫でられたような感覚に、小夜左文字は眉を下げ頭をかく。志乃はそんな小夜左文字を見て、ふふふ、と笑ったのだった。

紫陽花がひとつ、ぎやまんの底へ沈んでいく。それを見送って、志乃は福乃屋を出た。
飾り駕籠に乗り込む前に、志乃は父を見、母を見、それから番頭や手代、丁稚を振り返る。大店の一人娘が嫁に行くとあって、通りは人で溢れていた。涙のひとつも見せれば常ならば松吉の拳が飛んでくるからと堪える竹吉であったが、竹吉が初めて奉公の上がった日から妹のように面倒を見てきた娘が嫁ぐのである。会えなくなるわけではないにしろ、そんな理由で竹吉は丁稚という身分ながらぼろぼろと泣いていた。おとせは、飾り駕籠の真横で誇らしげに立っている。ただひとり長崎屋へ付いていく、生涯の世話役なのだった。


「皆さん、お元気で」

「いとさん、お身体には気いつけて」

「勿論。……福乃屋を、よろしくね」


父と母は、娘に遅れて長崎屋へ向かい、祝言の席に座ることとなっている。志乃は番頭の手をしっかりと握り、今世の幸を全て託すように祈ってみせた。


「いとさん、いとさん、どうか、どうかお幸せに……!うっ、うう、うああっ!」


それに叫ぶような泣き声を上げたのは、松吉である。竹吉と並んで泣きわめく姿に志乃は後ろ髪をひかれるどころか着物の裾を踏んづけられたような気持ちになったが、それでも嫁入りを遅らせるわけにもいかない。
飾り駕籠に、志乃は乗り込む。そろりと胸元から刀を取り出し、駕籠を開けておとせに託した。駕籠の外にいる小夜左文字が、志乃を見つめている。嫁入りである。懐に刀を入れ嫁ぐ娘は、武家と貴族だけであった。


「……後でね」


その言葉に、大きく返事をしたのはおとせである。しかし、その横で小夜左文字は大きく頷いていた。
志乃の黒目がちな目が、す、と細められ、小夜左文字の上がった目尻が、やわくほどける。駕籠の隙間から伸ばされた手を、小夜左文字はすくいあげたかった。しかし、それをとったのはやはり小夜左文字ではない。
藤次郎の皺のある手が、志乃の手をきつく握る。部屋で待つ紫陽花を目にしたとき、藤次郎は泣くだろう。娘と同じ玉虫の紅をつけた紫陽花を見付け、また泣くだろう。小夜左文字と志乃は二人、二人だけ、目を合わせ、それから瞬きをした。
小夜左文字はこの日のことを悔いぬことは、それから先、一度だって無かった。


──とん たたた


飾り駕籠がゆらりと持ち上げられて、太鼓の音と共に遠ざかっていく。しゃん、と鈴が鳴るその行列を、通りに群がっていた町人達が面白がって付いていく。おとせに刀を託された小夜左文字は、列の一番後ろをひとり歩くことになった。
通りを抜けて、橋を渡っていく。ことりことりと誰かの下駄が鳴る。駕籠は稲荷の前で一度立ち止まり、それから先は、太鼓と鈴の音だけが響いていた。大店らしい、福乃屋の一人娘のために用意されたその音は、小夜左文字の耳によく響いた。


「……なに?」


その時である。
ふ、と、小夜左文字の足は地面に沈むように重くなり、先へ進めなくなる。志乃の乗った駕籠がどんどん遠ざかっていくので、小夜左文字は慌てて走り出した。
どん、と地面に転げたのは、走り出したその矢先の事だった。
小夜左文字は起き上がりながら、足を見る。砂で汚れることもないその足を見えない何かが引っ張っている気がして、小夜左文字は震え上がった。その何かを、知っていたのだ。ずっと、忘れていたのだ。
弾かれるように、小夜左文字は振り返る。駕籠の後に控えているはずの、おとせの姿がない。まさかと、小夜左文字は這いつくばって、足が軽くなる方へと進んでいく。漸く立ち上がれるほどに足が軽くなったところで、小夜左文字は大通りから細い小路へと抜ける。進めば進むほどに、足は軽くなっていた。それと同時に、小夜左文字の体をべったりとねめつけるような違和が這いずり回っていた。
志乃を取り巻く太鼓の音が、遠ざかる。しゃん、と最後に鈴が鳴り、それきり音は聞こえなくなった。駕籠は、もう随分と遠くまで行ってしまった。
それでも小夜左文字がそれを追い掛けられないのは、小夜左文字が付喪神だからである。刀から遠く離れることが、出来ないのだ。


「あ、ああ」


捻り出すように声を出したのは、おとせであった。
小路の先で、太鼓を腰に巻いた男がおとせの首に刀を向けている。物盗りが紛れていたのだ。人混みに紛れるように、嫁入り道具として持たされた珊瑚の珠飾りや漆塗りの櫛を包んで持っていたおとせを狙い、小路に連れ込んだのだ。
刀を向けられたおとせが、かたかたと震えながら包みを差し出す。志乃はきっと、怒ることはないだろう。小夜左文字は、それを分かっていた。例えその中に自分が居ようと、志乃はおとせを責めることはしないだろう。仕方の無いことなのだと、小夜左文字は思う外ない。


「どうか、どうか、堪忍……!」


笠を外して、男は包みを奪い取る。小夜左文字は呆然とそれを眺めながら、男の横顔を重ねていた。
何の因果か。男はあの日、小夜左文字が石を投げつけた、あの浪人であった。
曲がった鼻に、小さな傷が残っている。それをみとめた小夜左文字は咄嗟に何かを拾い上げようとするも、そこには何一つとして転がっていない。唯一役に立つだろう小夜左文字の刀は、男、浪人の懐に、見せ付けられるように入り込んでいった。


「さて、幾らになるか、口が弛むなあ」


かちゃかちゃと刀を揺らして、その度に怯えるおとせを浪人は笑う。小夜左文字はどうすることも出来ず、体を這いずり回る違和の正体を見ていた。
後ろを振り返る。ひいひいと泣きながら、おとせが這うように小夜左文字の横をすり抜けていく。太鼓の音も鈴の音も、何も聞こえてこない。小夜左文字はのそりと歩き出した浪人の背中を、ぼんやりと眺めることしか出来なかった。

その後のことを、小夜左文字は覚えていない。それから何百年と経って、小夜左文字は初めて思い出すことになる。浪人に売られ、上様に見付け出され、とうとう京を離れ江戸に下ることになった日のことを。
ついぞ手を触れるどころか、その黒目がちな目を見ることすら叶わなくなった日のことを。初めて人に触れられる体を持ったその日、小夜左文字は声も上げずに泣くのであった。




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