華の人 | ナノ
桜の頃





1721年 京 洛外伏見 福乃屋にて




「いとさん、ほんまにその刀がお好きなんだすなあ」


大文字屋で買い付けたばかりの反物を広げ、その上に走る小さな兎を数えて小さな指が折り畳まれる。中庭には桜の木が蕾をつけ、風はそよりと肌を撫でる。春であった。
十四になった竹吉が、反物を丁寧に片付けていくおとせを横目に、感心したような声を出す。ははあ、とため息混じりのようなその声に顔を上げたのはおとせだったが、竹吉はそれに構わず志乃の膝に乗せられた 刀をじっと見つめていた。
竹吉の視線に漸く気の付いた志乃が、はた、と指折るのを止めて、視線を落とした。ぽったりと刀に落ちた視線はそのまま竹吉に向かうことなく、一度庭の桜を見て、それから竹吉に向けられた。
十にもなると、勿体つけるようにもなるものなのだろうか。竹吉はひとり考えて、薄らと笑う志乃に、女は男と違い成長が早いものだ、と無理矢理納得した。そうとも知らない志乃はまたぽったりと刀に視線を落とし、その鞘を撫でる。


「そりゃあ、大切に決まっとる。何せお稲荷さんまで旦那様を連れて直談判しに行ったくらいやし」

「ああ、そう言えば。松吉兄も言うとりました」

「あの時私はもう肝が冷えて冷えて。まさかこの福乃屋のいとさんが刀なんかを欲しがるとは思いもしませんでしたよって」


おとせはそう言って、まるで今目の前で直談判が行われているかのように身体を反らした。
三年前の春のことである。それまで両替商を営んでいた福乃屋は、堺にも店を出し、回船問屋にも手を広げた。去年の暮れには暖簾分けをし、米屋も営む程の大店である。其処らの武家よりも遥かに懐の温かい、むしろ熱いとも言える福乃屋の一人娘ともなれば、大文字屋の反物を言い値で買い付けようと何ら不思議ではない。座敷には高句麗の大皿が飾られ、櫛には珊瑚が埋まっている。それでも、商人であるには違いない。長物をさせるのは武士と決まっているものだった。
そんな決まりを、志乃がころりと覆したのがまさに回船問屋に手をつけ漸く落ち着き出した三年前の秋のこと。珍しく福乃屋の店先で腰を据えて煙管をふかしていた福乃屋の旦那は志乃の父、藤次郎の袖を、志乃はくいと引っ張った。たまにしか構えぬ一人娘を藤次郎はえらく甘やかしていて、志乃が欲しがれば梅の枝を折り、庭に桜を植え、珊瑚の珠のついた簪を買い与えるような父であった。それを心得ていた志乃である。志乃はその手で藤次郎の手を引き、ことことと通りを抜けて、千本鳥居のお稲荷へと詣ったのだ。


「父上、私、お願いがあります」

「おお、何だ何だ。言ってみろ。父が叶えてやろう」

「私、此処にあずけられたっきりの刀がほしいのです。奥の奥にねむっている、刀を」

「う、ううむ……?」


時には楼主を、時には武士を、そして時には裏店に住まう町人を。様々な人間を相手にする藤次郎であったが、この娘の言葉にはてんでついていくことが出来なかった。
奥の奥に眠っている刀とは何のことだろうか。そもそも、どうしてこの娘はそんなものを欲しがるのだろうか。首を傾げるばかりだった藤次郎であったが、可愛い一人娘に頼まれてしまい頭を横に振ることも出来ない。仕方なしに神主に声をかけ、そのような刀が無いかと藤次郎が問うてみたところ、はて、と藤次郎と同じく首を傾げた神主がいそいそと倉へと入っていく。それを追いかけたのは、志乃の鈴のような声だった。


「倉の一番奥の、うるし塗りの箱のうらにねむっています」


ぎょ、と瞠目したのは、志乃を除いた二人であった。
言われるがままに神主は倉の一番奥、漆塗りの箱の裏を覗きこみ、それからひええ、となんとも情けない声を上げて尻餅をついた。何の声だ、と遅れて倉へ入った藤次郎もまた箱の裏を覗き、これまた同じくひええ、と腰を抜かしてしまう。
志乃はその時ただひとり、嬉しげに己の隣を見つめていたのだった。
それが、志乃の手に刀、小夜左文字が渡るまでの出来事である。


「さて、いとさん、そろそろ手習いに行かんと」

「……もう少しだけ」

「いけませんよ、いとさん。はよ行かんと、この竹吉が拳固くらうんだすで」


結局、その刀、小夜左文字は、福乃屋の守刀として引き受けることになった。志乃の膝や懐にあることが多くとも、表向きはそうとして扱われたのである。
竹吉の言葉に志乃はふくれ、おとせに背を撫でられる。ちらりと庭の桜を見た志乃は微かに手を伸ばすような仕草を見せたが、その手は何も掴まず落ちていく。おとせも竹吉も、桜の花弁でも捕まえようとしたのだろうと思っていた。


「……竹吉、帰りはひとりが良いわ。私、桜を見て帰りたいの」

「へえ。そしたら橋の袂で待っとります」

「うん。そうしてちょうだい」


渋々立ち上がった志乃に竹吉は、松吉兄にも言うときます、と笑顔で返す。こっくりと頷いた志乃は髪に指した簪を確かめながら、またちらりと桜を見た。
天色の髪をした、志乃と同じ年頃の童子がひとり、桜の下に立っている。志乃にしか見えない童子、かつて志乃がもののけと呼んだそれは、志乃が欲した刀の付喪神、小夜左文字その者であった。


「……行こっか」

「…………うん」

「へえ、行きましょ」

「いとさん、お気をつけて」


志乃が呟くように言えば、小夜左文字は応え、そろそろと志乃の直ぐ隣を歩く。まさかそんな者がいるとは思いもしない竹吉とおとせは、素直に部屋を出た志乃ににこにこと頬を緩めるばかりなのだった。


ことことと、下駄が鳴る。その後を草履が追い掛けるが、下駄の音に負けて何も聞こえてこない。例え下駄の音が無くともその音は不思議なもので周りの人間にはとんと聞こえないのだから、志乃はおかしくて仕方がなかった。
手習いの帰り、志乃は橋向こうの花見場所まで来ていた。大木の枝につくのはどれもまだ蕾だからか、花見客など気の早い男達が幾らかいるだけである。その誰もがただ酒を飲みたいだけなので、志乃を気遣うものなどひとりとしていない。それが、志乃にとっては好都合なのだった。


「残念。ここもまだ咲いてなかったね」

「……もうすぐ咲きそう。ほら」

「あ、本当。この木は明日にも咲いてそうね」

「うん。明日も来る?」

「明日は此方に来ないもの。来れないよ」

「……そう」


こつこつと歩き回りながら、端から見れば独り言の多すぎる娘に見えた。しかし、志乃は決して独り言なんて溢してはいない。付喪神である小夜左文字と並び歩き、桜の木を見上げていた。
しゅん、と肩を落とした様子の小夜左文字に、志乃は思わず手を彷徨かせる。落ち込ませるつもりなどなかった志乃であったが、小夜左文字は見るからに気を落とし、残念だとばかりに桜の木を見上げていた。


「あ、明日は無理だけれど、明後日は来れるわ」

「……本当に?」

「うん。本当よ。だから、ちゃんと小夜も連れてくるわ」


ぽん、と、志乃は刀を挟んだおかげで盛り上がる帯を叩いた。小夜左文字はそんな志乃を見て、微かに触れられた気がする頭を後ろ手で撫でる。小夜左文字には触れられはしないが、刀に触れれば何とはなしに何かを感じることはあるらしい。石や梅や桜には触れられるのに、何とも不思議なものだと、志乃は思っていた。そんな風に触れ合えることのない二人であったが、今のところ不便さを感じることは殆どない。たまにあるのは美味い菓子を分け合えないだとか、流行り病のせいで身体にこもった熱を確かめることが出来ないだとか、そんなことくらいだった。
小夜左文字が頭を気にしたのを見て、志乃は帯の上から嬉しそうに刀を撫でた。ふふ、と声を溢してあんまり志乃が嬉しそうにするので小夜左文字は無性に胸の当たりを掻き毟りたくなったが、そうすれば負けた気になってしまうような気がして、大人しくそれを受け入れる。


「……ねえ、志乃」

「なあに、小夜」


そろそろ止めてはくれないだろうか。
小夜左文字は口を開くが、やはり負けた気になってしまうような気がして、何も言えない。志乃は小夜左文字がそんなことを考えていることなどとうに知っていたが、知っていて刀を撫でる。小夜左文字が止めてくれと口にすれば勿論志乃は直ぐにでもその手を止めたが、口にしないので止めないでいた。
刀を帯の上から撫でながら、志乃はことことと桜の下を歩く。伸びる枝の上に、志乃は薄らと何かがいるのが見えていた。桜についた神のようなものだろう、と去年の小夜左文字は言う。刀に付喪神がつくように、長く生きたものには命が宿るらしい。どちらにせよ桜にいるものは花が咲いてから散るまでの命だ、と小夜左文字は言っていた。志乃はそれを聞いて、桜の上にいる者とは話しはしなかった。
小夜左文字が見えるくらいである。志乃は確かにその目に小夜左文字以外の付喪神や、妖の類いとも思える何者かをうつしていた。しかし、天狗や家鳴りと話しても、志乃は桜や梅の木に座る者とは話すことはない。短い命だと知っているからこそ、話すことはない。それはひとえに、ぼんやりとではあるが理解していたからである。花の命が終わればもう会うことはない。次に花が咲いたその時には、違う者になっているのだ。
──小夜が桜でなくて、良かった。
天狗や家鳴りが長生きをするように、小夜左文字ともこうして長くいることが出来たなら。志乃はひっそりとそう思いながら、帯の上から撫でる手を漸く止めた。それに気付いた小夜左文字が草臥れたような顔をして志乃のもとへ駆け寄り、桜を見上げる。あ、と、桜の上にいる者に気付いた小夜左文字だったが、志乃をちらりと見て、それから何も言うことはなかった。


「……あ、」


ぽつりと溢したのは、志乃の方である。
不意に何かに気付いたように口許に手を当てて、志乃は桜を見上げた。小夜左文字は志乃の視線を追いかけて、桜の上の者に目をやる。
声をかけることは、ない。しかし、志乃の眉根がきつく寄せられ、小夜左文字は思わず身を引いた。まるで親の仇を目の前にしておきながら、どうすることも出来ないような娘の顔をしている。志乃は心底思い詰めた顔をしていたのだ。今度は小夜左文字が手を彷徨かせる番だった。
しかし、それに気付いた志乃は何事もなかったかのように、一瞬の間にもとの顔に戻してしまう。あまりにけろりと戻ったものだから小夜左文字は逆に困惑してしまったが、志乃が何事もなかったかのように振る舞うのだ。それ以上何を出来るわけでもない小夜左文字は仕方なしに手をおろし、桜の木をもう一度見上げた。そこにいる者は此方に気付かず、ぼんやりと遠くを眺めていた。


「ねえ、小夜」


志乃が、ちょい、と裾を揺らした。小夜左文字は志乃を振り返り、ことことと下駄を鳴らして歩き出した志乃の後を追い掛ける。
志乃の黒目がちな瞳が、小夜左文字をつかまえた。


「私、今年で十ね」

「うん」

「……背も、小夜と殆ど変わらないわ」

「うん」


志乃の口が、はく、と空を噛み締める。小夜左文字には志乃が何を言わんとしているのかてんで理解出来ないし、志乃もまたそれを口にしてまで理解してもらおうとは思ってもいない。しかし、と、志乃は思っていた。どうしたのか、と、小夜左文字は思っていた。
志乃の瞳が、天色の髪を見つめる。小夜左文字は妙な気まずさに、思わず視線を落とした。


「……ねえ、小夜。ずっと一緒にいましょうね」

「…………志乃?」

「私、小夜とずうっと一緒が良いわ」


志乃の髪に挿さる珊瑚の珠簪が、小さく光る。小夜左文字はそれを眺めるように目を細め、声もなく頷いてみせた。
ことことと、志乃の下駄が鳴る。小夜左文字の草履の音はやはり下駄に負けてしまい、何の音も聞こえない。ふ、と、志乃がそろりそろりと歩きだし、ざりざりと、小夜左文字の草履の音が重なった。それを聞いた志乃は、心底嬉しそうに笑ったのだった。



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -