要らない子供

海馬くんの小さなころのお話。



 そこは多分。海馬コーポレーションのビルの何処かだったのですが。なんというか記憶が曖昧で。ただ階段を下れば上がればという容易な回路ではなかったと思います。

 鉄の扉を開けますと。そこは一切の光を遮断された暗闇に。側ではごうんごうんと巨大なボイラーが轟いているような音ばかりが聴こえていました。

 そこにやって来た。上品な良い服を着たその子は。そんな暗闇の真ん中に。静かに青白く明滅する頼りない照明があることに気がつきました。
 照明はぱちりぱちりと。ついたり。消えたり。を。繰り返しますので。遠い遠いものなのに。その子には大変眩しく感じられたのです。

 その子は。その照明のある処へ。奈落の闇を踏み付けて。恐れも無く近づいて行きました。照明へ近づいて行くたびに。ボイラーの轟音は。耳から遠ざかってゆきます。

 気づいた頃には。もうすっかりボイラーの音は聴こえなくなっており。その子が履いている上品な良い靴が。闇を歩く音しか聴こえません。
 近くで見た青白く明滅する照明は。高さも長さも三メートルほどの。大して立派でもない。透明なただの硝子ケースでした。
 中では白い電灯の下で。何種類もの美しい花が咲いており。その前方中央には。その子より少し小さな大変可愛らしい容姿をした子供が。冷たそうな硝子ケースの上に横たわって。静かに静かに。眠っておりました。

 一糸纏わぬその滑らかそうな柔肌は。頭から足先までさらりと青白く艶めいて。同時に薄氷にも似た。透明な水晶の煌めきのようにも見えました。
苹果いろした唇や。優しい藍いろをした髪は。見るものを引きつける美しい宝石のようで。それは幼いその子の瞳にも移り。ちかちかと金や銀の星が目の前を瞬くのでした。

 その子がしばらくそれを見つめていると。いつか子供はくんと息を漏らして。露に濡れた長い睫毛をふるりと震わせると。静かに静かに瞼を開けて。そこから覗く。紫水晶のような瞳に。上品な顔立ちをしたその子を映しました。

 子供は瞬間。大変に驚いた顔をして。何度かぱちぱちと瞬きをすれば。ゆっくりと上半身を起こしてその子を見つめました。
 紫水晶の瞳は白い照明を反射して。その子を見つめる視線が箒星でも通った後のように。銀いろの星々の輝きで満ちているのです。その子はただ言葉を無くし。その輝きから一層目を離せなくなりました。

 そんなその子に。水晶のような子供は恐るおそる。震える手を硝子ケースへと伸ばしました。子供の小さな青白い手のひらは。その子の目の前で硝子ケースにぺたりとつき。するとその子も。誘われるように自分の手のひらを。硝子越しに子供の手のひらへ。ぴとりとくっつけていきました。

 ほんの少しだけ。上品なその子のほうの指が長かったことに。その子は小さく微笑みました。つられて。子供もくすぐったいように微笑みます。
 触れた硝子は冬の窓のように冷たく。表面には水滴が浮かび。しとりと濡れてほそっておりました。

 キミハダアレ。と。上品なその子は。硝子の向こうの子供に問いかけました。しかし子供は。困ったように目を背けるばかりで。その子の問いかけにこたえようとしません。
 その子はすこし首を傾げて。ほんの少し。足を前に乗り出すと。その子供の顔を覗き込もうとしました。

 そのとき。何か留め具でも弾かれたような音がして。今まで聞こえてこなかったボイラーの音が、ごうんごうんごうんと。その子の耳元で荒々しく鳴り始めたのです。
 石炭を焚くような音。水蒸気が噴き出す音。地響きのような音が。足元をぐらぐらと揺らして。その子と子供のもとへ近づいていきます。
 ドォンドォンと。何かを壊していく音が。どんどんどんどん大きくなっていきました。

 怯えるその子に。子供は。硝子ケースを強く叩いて言いました。ニゲテ。ココハアブナイ。そう唇が動いたように見えました。
 その子は美しい子供の瞳を見たまま。はくはくと口を動かしました。子供は泣きそうな顔で微笑んで。小さく唇を動かすと。その子がやってきた扉の方向を指さして。王一度今度は思い切り硝子ケースを叩きました。


 気が付くとその子は。震える足を翻して。遠くで光る扉のほうへ一目散に走っていました。背中では。ドォンドォンと。何かが壊れていく音がして。そのなかには。硝子が割れるような音も聞こえて。それでもその子は振り返らず。必死にただ走り続けました。

 もともと。そんなに遠い距離ではなかったのです。扉へ辿りつき。その子はちからいっぱい扉を閉めました。そのまま床にぺたりと座り込むと。見る見るうちに双方の瞳からぽろぽろと泪が零れていきました。

 硝子に触れた手は濡れたまま。その子は子供の体温さえ知らないのでした。





(要らない子供)


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