わたしのこころに棲むウサギ




「じゃあ、おやすみ。もうひとりのボク」
「ああ、おやすみ。あいぼう」

 微笑み浮かべたまま別れ、その振り返った先の扉を閉じ、自分だけの世界に鍵をかける度に、薔薇の棘ほどの痛みで血を滴らせながら少年はただ小さくごめんと呟くのだった。


 自分の心の部屋の扉にしっかり鍵がかかったことを確認すると、遊戯は部屋のおもちゃが散らかったほうへゆっくりと振り返った。
 規則性のない、無造作にものが散らばる壁の白い部屋には、本来なら遊戯しか存在しないはずの空間だったが、最近、ちょっとした住人が居座っている。
 白銀色の長い髪の、てっぺんでぴょんと立ち上がったふたつの兎に近いそれ。まるで意志があるようによく動くのに、本人は風のせいだと言って認めない。薄く唇を開いて背中越しにその名を呼べば、気の抜けきった声が振り向きもせずに返ってきた。

「ついに明日、エジプトに行くそうじゃねーか」

 よかったな、とウサギの絵柄のトランプを弄びながら他人事のようにバクラは言った。
 実際他人事なのかもしれない。バクラが遊戯の心の部屋に現れたのは、例のTRPGが終わり、彼の宿主、獏良了のなかから彼の存在が消滅してからだった。ある日突然雪の降るようにやってきて、それから攻撃をするでもなくただそこにいる。本体が消滅した今、自分は燃えカスのような存在だから無害だと自ら言い切った為に、遊戯は居座ることを認めたものの、"彼"には過剰に警戒することを恐れ秘密にしている。それが遊戯の彼への真摯な思いを少しばかり黒く蝕むのだが、寿命僅かな小さな白兎を無下に扱うような、遊戯はそんな人間ではなかった。

「・・・エジプトに行けば、キミもアテムと一緒に冥界へ逝くの?」

 扉にもたれ掛かり、少し低い声で遊戯は問うた。バクラはやはり振り向かず、ただ小さく息をもらして笑い声を上げた。

「そんなわけねェだろ。本体は既にただの闇そのものになって消失しちまったし。今のオレ様はテメェが少しでもオレ様が消えるように念じればすぐにでもなくなっちまう程度のモンだからな」

 それでも消えないところをみると、とまで口にすると、バクラは急にくつくつと喉で笑い始め、その先の言葉を濁したので、遊戯は少し眉を潜める。
 黒いコートを羽織っていない、殺気立ってもいないバクラの後ろ姿は、遊戯の友達の獏良了その人を自然と思い起こさせた。だが今は、その人よりもずっとずっと儚い、まっ白な雪のようだった。

「ここにいるキミが消えたら、キミは死んだことになるの?」
「・・・さァな。だがこれは死じゃねェ、完全な消滅だ。王様とは勝手が違う。ま、死ぬ自体はオレ様初めてじゃねェし。消えることにもいまさら、特に思うことはねェよ」

 まるで笑い話にしたその言葉も、いまさら遊戯にはただ寂しさばかりに聞こえてしまう。
 いまさら。あんなに大変なことをしておいて、そんなことを言うバクラにも、そんな寂しいこと言わないでと、いまさら。どのくちが言えるのと責める反面教師な自分に、遊戯は複雑な思いと苛立ちを感じて仕方がない。
 しばらくして無意識に握りしめていたらしい両手の拳をゆっくり解き、詰めていた息を吐き出した。

「ねえバクラく・・・」
「お、やっと出来たぜ。ここはオレ様の支配下じゃねぇから多少の雑な作りは仕方ねぇが…まぁ申し分ないだろ」

 遊戯の声に割り込んで、バクラはどこか満足げにそう独り言を呟いた。無視されたと感じた遊戯は、ムッとなって少し前のめりになりもう一度名前を呼ぼうとしたが、そのときバクラが自分のほうへ今日初めて振り返ったので、思わずまた言葉が消えてしまう。
 悪戯好きな子供のような笑みを浮かべ、来い来いと手招きするバクラに、遊戯は少し心臓をどきりとさせ、それから渋々と彼の元へと歩み寄った。

「どうしたの?」

 側にまで寄ると、にこにこと似合わない笑顔なんか浮かべ、バクラは背中に何か隠し持ったまま立ち上がった。まるで小さな子供がプレゼントでも隠すような仕種だったから、遊戯はいつも以上に気を抜いてしまっていた。
 だから、心臓から右の脇腹まで斜めにナイフで切り付けられるまで、バクラのナイフを振り上げる軌道さえ見えなかった。

「・・・・・・っ!?」

 自分の体が切られ、そこから血が溢れ、バクラの顔に飛び散ったのを見送って、遊戯は後ろにゆっくりと倒れた。堪らない痛みに息も出来ず叫び声さえ上げられない。じゅくじゅくと血がとめどなく流れることに遊戯は恐怖を感じた。

「い、ぁ・・・っ」
「落ち着け。いまのお前は精神だけの存在だ。肉体から切り離されているのに痛みを感じるのはただの視覚からの"情報"だ。ゆっくり息をしろ。痛みもすぐなくなる」

 軽くパニックを起こしていたところに、バクラが遊戯の耳元でそう穏やかに囁いた。仰向けに倒れた遊戯を組み敷くようにして、バクラは薄く笑って遊戯を眺める。
 バクラの言った通り、頭を落ち着かせると痛みは割とすぐに消えた。しかし切られた傷口はぱっくり開いたまま、血が止まることもない。虚ろな瞳で遊戯はバクラを見つめたが、バクラは遊戯の血がついた短剣を指で弄びながら言った。

「この世にオレ様はもういない。盗賊王バクラも、もうひとりの獏良了も。今存在しているオレ様は、ある意味本当の"もうひとりの遊戯"なんだろう。テメェが一度は切り捨てたもの、それこそが遊戯、お前自身の心の闇」

 だから、と。バクラは小さく笑って、その短剣の先を自分の腹に向けると、思い切り、突き刺した。

「・・・ここまで言えば、もう気づいてんだろォ、遊戯・・・・・・っ」

 まるで蛇口を捻って流れ出した水のように、見たこともないほどの大量の血が遊戯の既に血に塗れた腹部にどばどばと落ちてきた。赤は鮮やかにもどす黒くも見え、しないはずの鉄の匂いが鼻を掠める。
 痛みは感じないと言ったくせに、バクラの額や首筋には少し汗が滲み、眉を寄せて苦しげに息をしながら、頬を紅潮させる姿はどこか煽情的に見えた。痛いのかな、とぼやけた意識で考えるけれど、ないはずの痛みと熱に浮かされて、遊戯は手を伸ばすこともままならなかった。
 遊戯の腹の上で、バクラと遊戯の血液が混ざり合う。血は床にまで流れ出し、遊戯の手にぬるりと絡み付いていた。バクラはそれを見て、右手に持った短剣を遊戯の手に握らすと、腹の上の血を混ぜるようにして手につけ、そのまま遊戯の頬に触れた。ぬるついた感触に遊戯はびくっと意識を上げ、困惑した瞳でまっすぐバクラを見つめる。

「はっ・・・やっぱ似てンなぁ・・・」

 遊戯とバクラの混ざった赤い血が、遊戯の白い頬にべったりとつくのを、バクラはどこか懐かしげに見つめていた。その瞳の先が映すのは、暗闇を飛ぶ金の鳥なのだろう。
 それが無性に腹立たしかった。遊戯は離れようとするバクラの手を掴み、もう一度思い切り自分の頬に血をつけさせる。左頬のほとんどが真っ赤に染まり、バクラのほうが驚いて目をまるくした。遊戯は睨みつけるように、だけど少し淋しげに、バクラをめいっぱいその紫の水晶に映した。

「ぼくは・・・アテムとは違うよっ・・・・・・。キミも、”彼”じゃないでしょ・・・っ」

 きょとん、と。豆鉄砲でもくらったような、見たこともない顔をして、それからバクラは再びくくっと笑い出した。

「・・・ああ、そうじゃなきゃ困る。これから先、お前と永遠に共にいるのはこのオレ様だ。テメェの"なか"に触れていいのは、オレ様ただひとりだ・・・・・・」

 そう言って、ずるりという音と共に、遊戯は激しい痛みを感じた。正確には痛みというより、黒くて、重くて、少し泣けてくるようなものだ。苦しくて目も開けていられないのに、誰かが優しく髪を梳いてくる。震える瞼を開くと、目の前には彼が、不敵な笑みを浮かべたまま唇を落とそうとしていた。本能的にもう一度瞼を閉じたが、それから唇の感触がすることはなかった。

 目を覚ますと、そこには誰もいなかった。真っ赤な血も、白い雪うさぎも。ゆっくり体を起こすと、手に何かが握られていることに気づいた。
 それは鍵だった。なんの鍵かは考えなくてもわかった。心の部屋の扉を見つめながら、遊戯は消えていったもうひとつの心を思い出して、しばらくひとり、泣いていた。





(わたしのこころに棲むウサギ)


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