ぼんやり遠く見やると、曲がり角からすっと伸びた手がゆらゆらと誘うように、私をまねいていた。
その手が一体誰のものなのか私には見当がつかなかった。
ただ導かれるように、いや、自分ではどうすることさえ出来ない走性に従う昆虫のように嫌な気配を感じ取りながらもその腕に近づいていった。足が止まらない。ただ、あの曲がり角の向こうで自分を待ち受けるものはきっとろくでもない事態であると私は本能的に感じた。曲がり角まであと10歩。自分の心音が五月蠅いくらい鼓膜に響く。止まろう、そう思った時はもう遅かった。自分の意志ではもはや止まることすら出来なくなっていた。誰かが私の身体を乗っ取っている。それはきっとあの腕の持ち主に違いなかった。なり振り構わず助けて、と叫ぼうとしたが、喉がからからに乾いていて声を出そうにも息の音しか出なかった。
助けて、助けて。心の中で何度も繰り返すうちにとうとうあと3歩という所まで来てしまった。
もはや絶体絶命、そう思った時だった。

「あちらに行ってはいけませんよ」

急に一帯に凜とした空気が張りつめ、嫌な空気が霧散した。目の前で私を捕らえようとしていた腕は惜しそうにゆっくりと曲がり角の向こうに引っ込んでいった。
ふ、と身体が自分の自由になる。

「何やってるんですか」

やれやれといった風に彼は私の情けない顔を見て呆れていた。

「幽、谷くん」

漸く振り絞って出てきた声で彼の名を呼んだ。まだちゃんと喋れない。

「校舎から出ましょう」

彼はそういうと足を動かし始めた。私はそれに何も言わずついて行った。近くのドアから上履きのまま校舎を離れた。

そのまま彼は体育館の傍の自動販売機まで行ってお金を投入し始めた。ぼおとその姿を眺めていると突然彼は話し始めた。

「偶然でしたが通りかかって良かった。僕自身あそこの廊下はあまり使わないようにしているのですが、まばさんもそうした方がいい」

あれは悪戯好きだからいつ帰してくれるかもわかりませんしね、そう彼が言い終わると、ガコン、と缶が落ちる音が響いた。
彼が500円を入れた自動販売機のボタンはまだ光っていた。

「まばさんは何にしますか」
「…えっ」

「まばさんも何か飲んだ方がいい
悩むようならミネラルウォーターにします」
「ごめ、ん」

助けて貰った上に飲み物まで買って貰うなんて何だか申し訳なかった、けど謝るにしてもやっはりまだ声がちゃんと出なかった。

ガコン、とまた先程と同じような音が辺りに響いた。
自動販売機に手を入れた彼はミネラルウォーターの入った透明なペットボトルを取りだし、私に手渡した。冷たい。

お釣りのレバーを回した彼は屈んで出てきたお釣りを回収していた。
一段落して、彼が缶に手をかけてから私もペットボトルのキャップを外して口に含んだ。全身に水がしみこんで潤っていく感覚を感じた。

ここにきて漸く昼休みの喧騒が自分の耳に届くようになった。
そして安堵のため息が漏れた。

「あの曲がり角にいたのは誰?」

私はずっと彼に聞こうと思っていたことを投げかけた。
すると彼は、

「さあ」

と短く素っ気ない返事を返しただけで、後は何も言わなかった。





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -